四 系譜が意味するもの 天皇の系譜を偽って記録することは、天皇家に対する不敬であり大罪である。天皇の系譜に架空の天皇を書き込むことは許されることではなかったと思う。ただし、天皇王権の正統性を示すために系譜を正しく記録するという説明で美化したものは認められただろう。古事記と日本書紀とで記述が違う部... 続きをみる
日日雑学時時雑想の新着ブログ記事
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狗奴国=邪馬台国子国=ヤマト仮説 そういう疑問から導き出したのが、次の仮説である。 ① 狗奴国は、九州に成立した邪馬台国が三世紀前後頃に東方平定のために畿内に領地を得て造った子国である。 ② 狗奴国王卑弥弓呼は、ヒミコ(卑弥呼)の子分に相当する地位名である。 ③ 卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合ったの... 続きをみる
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六 豪族連合政権説の問題点 ⑴ 邪馬台国畿内成立説との関係 豪族連合政権は邪馬台国畿内成立説とどういう関係になるのかという問題である。豪族連合政権のヤマト王権と畿内にできた邪馬台国のヤマト王権を結びつけようとする試みがあるが、支配・統治の体制を考えると、それは無理であろう。邪馬台国畿内成立説と豪... 続きをみる
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五 狗奴国と卑弥弓呼 狗奴国の王の名は卑弥弓呼である。後漢書にはない。 字は「卑弥呼」に「弓」の字が入っただけである。一字挿入だけの違いは偶然のこととは思えない。卑弥呼を連想するような言い方も字の選び方も、卑弥呼と似た地位にあると想像される。中国側が卑弥呼に対して卑弥弓呼という字を当てたのは関... 続きをみる
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⑶ 漢鏡の地域分布と邪馬台国の位置 北部九州がクニ造りの中心だったことはこれまで調査された漢鏡の分布からも推測できる。漢鏡は渡来人が伝えたもの、朝貢によって受け取ったもの、輸入したもの、倭で造られたものがある。 四期漢鏡と言われているものは弥生時代中期から後期にかけて、北部九州、中国地方、近畿... 続きをみる
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四 女王卑弥呼の塚 女王卑弥呼は王位にあったまま死に、卑弥弓呼は軍を撤退させた。倭国としては盛大な墓を造ることとなる。しかし、男王が倭国王となって国中で誅殺し合った時期に巨大な墓を造る余裕はなかっただろう。造営は壱與が女王になってからのことと思われる。その造営を張政が見ていたとは思えない。帰国後... 続きをみる
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序章 疑問の始まり 卑弥弓呼という王 卑弥呼の間違いではない。狗奴国の男王である。卑弥呼、邪馬台国とともに魏志倭人伝(『三国志』の『魏書』のうちの『東夷伝』倭人の条)に出てくる。卑弥呼は倭の女王であり、広く知られているが、卑弥弓呼や狗奴国は教科書には出てこない。 魏志倭人伝には女王卑弥呼と狗... 続きをみる
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原稿番号 序 疑問の始まり 卑弥弓呼という王 1―1 三世紀半ばまでの倭 1-2 倭(ワ) 倭国 ... 続きをみる
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二 邪馬台国の位置 ⑴ 邪馬台国と狗奴国とヤマト王権の国 邪馬台国と狗奴国という名は中国の史料から消えた。中国の史料には倭国はその後も登場するがヤマトと読める字はない。日本でも倭国がいつヤマトの国になったのか明確ではない。 倭奴国から倭国への移行は覇権争いの結果である。その覇権争いに勝って倭国... 続きをみる
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3-2-1に変更
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⑺ 第七代孝霊天皇 孝安天皇の第二子で、倭風諡はオホヤマトネコヒコフトニ(古事記では「大倭根子日子賦斗邇」、日本書紀では「大日本根子彦太瓊」)ノミコトという。 オホヤマトの意味やこの名が贈られた時期は第四代天皇と同じ推理になる。 根子は何か。美称だという説があるが根拠は不明である。根を張った... 続きをみる
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⑷ 第四代懿徳天皇 安寧天皇の第二子で、倭風諡はオホヤマトヒコスキトモ(古事記では「大倭日子鉏友」、日本書紀では「大日本彦耜友」)ノミコトである。橿原の軽に宮があったが、当時その一帯がオホヤマトと呼ばれていたわけではない。国号を倭から大倭、日本へと変えた後も国内的にはヤマトであり、オホヤマトは偉... 続きをみる
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四 初代から第十代天皇までの諡 ⑴ 初代神武天皇 倭風諡はカムヤマトイハレヒコ(古事記では「神倭伊波禮毘古」、日本書紀では「神日本磐余彦」)ノミコトである。元々の諡は若御毛沼命で、初代天皇としたときに新たな諡を贈ったのではないかと思う。 神倭や神日本は美称でイハレは地名だという説がある。... 続きをみる
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第九章 初期天皇 一 記紀の初期天皇の系譜は正しいか 記紀には、天皇の子と王位継承者が書かれており、系譜はいずれも先王の子としてつながっている。しかし、古事記と日本書紀は死亡年齢がかなり異なっており、長命過ぎて明らかにおかしいものがある。 このことから、記紀の天皇の系譜そのものがおかしいと考え... 続きをみる
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六 記紀に記されている天皇陵と変化の理由 ⑴ 初期ヤマト王権の埋葬地 古事記には葬った場所として、山上、尾上、坂上などとともに「岡」という字がいくつか出てくる。岡は人工の山である。いずれも見晴らしの良い高い場所である。魂が天に昇っていきやすい場所に葬るという考え方にもとづくものかもしれない。 ... 続きをみる
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七 周濠分割型前方後円墳 方形部前方が広がる形の前方後円墳が造られ始めても、周濠造りに意味があったのは同じである。纏向型墳丘墓から墳墓の形が変わっても池造りという目的は維持されていたと考えられる。溜める水を確保するには山麓などの傾斜地がよい。しかし、傾斜がある地域では、周濠の造り方に工夫が要る。... 続きをみる
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第八章 古墳 一 纏向古墳群 ⑴ 纏向型古墳 纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳、纏向勝山古墳、ホケノ山古墳がある。帆立貝型古墳には茅原大墓古墳がある。地域的には、大和川と東部の山に挟まれた纏向、箸中、茅原の一帯である。纏向遺跡には大型建物跡が見られるが、三世紀後半以降のものである。集落そのものは二世紀... 続きをみる
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改訂 4. 5. 9 7-2まで、目次のとおり構成を変更し、文章も改めています。目次にない原稿が残っていますが、履歴として残しています。 全面改訂 3.11.12 構成、文章を全面改訂しました。 3.11.29 8-1、8-2、8-3、1-2-1、1-2-2 新補正歴 ... 続きをみる
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第七章 畿内の発展をもたらしたもの 一 畿内発展の条件と契機 奈良平野は広大で、縄文時代から集落ができ、紀元前五世紀頃には水田耕作も伝わり農耕集落ができていた。その広い平野で水田耕作をすればもっと早くから人口が増えて巨大集落が各地にできていただろう。弥生時代の遺跡からは、溝の跡が見つかっており、... 続きをみる
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三 狗奴国は畿内にあった ⑴ 邪馬台国子国の成立場所 邪馬台国が東方拡大の一環として子国を造ったなら、安芸、吉備、針間(播磨)、畿内、近江、尾張などが考えられるが、安芸、吉備、針間(播磨)には既に国があって、倭国成立後に従えていたと思われる。畿内にヤマトという国があってそれを平定したなら、ヤマト... 続きをみる
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第六章 倭国の統治権の移譲 一 邪馬台国王家の没落と畿内王家の興隆 邪馬台国王家は邪馬台国の王位を自ら決めることはできなかった。男王の即位に対して抵抗を受け、魏の介入で壱與が女王になった。壱與はまだ十三歳で、統治者としての教育を受けていたか疑問である。王族が補佐したにしても、これでは倭の統治が十... 続きをみる
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二 卑弥呼と卑弥弓呼の「相攻撃」 「相攻撃」は、三国志魏書の他の箇所にも出てくる。武力で攻撃し合うことである。 卑弥呼が畿内を攻撃する場合は、九州から派兵するか、服属国に攻撃させるかということになる。派兵するには、九州の国々の動向が気になる。卑弥弓呼は攻撃されることを予想して畿内の防備を固めて... 続きをみる
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第五章 東征の後 一 畿内での国造り 東征を成功させたなら、直ちに復命してそのことを報告しなければならないが、記紀は本国を登場させないから復命もない。宮が無かった畿内に宮の施設を造ったなら、祖神もその宮で祀ることを報告したはずであるが、その記述はない。高千穂宮との関係も不明である。 畿内で造っ... 続きをみる
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⑶ 漢鏡の地域分布と邪馬台国位置論争 北部九州がクニ造りの中心だったことはこれまで調査された漢鏡の分布からも推測できる。漢鏡は渡来人が伝えたもの、朝貢によって受け取ったもの、輸入したもの、倭で造られたものがある。 四期漢鏡と言われているものは弥生時代中期から後期にかけて、北部九州、中国地方、近... 続きをみる
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六 邪馬台国物語 ⑴ 邪馬台国の始祖の地 高千穂は思想的に天と結ぶために考えられた天降りの地で、そこが邪馬台国勢力の始祖が住んでいた地と考えるべきではないという意見が一般的であろう。そういう地に国を造るのは無理だという理由もある。 この主張は邪馬台国畿内成立説の理由づけにもなるが、魏志倭人伝の... 続きをみる
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五 邪馬台国畿内成立説の問題点 ⑴ 邪馬台国とヤマトの名の由来をどう語るか ヤマタイ(ダイ)ノクニをヤマトノクニに変える理由があったのかどうか。例えば、王権の変更があったとか、名が凶だとされたとかの事情があったのか。 国名を変えた事情がなく、元からヤマトだったという主張がされている。しかし、ヤ... 続きをみる
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二 都(ミヤコ)造り 古事記には、イハレヒコノミコトの「坐何地者平聞看天下之政猶思東行」という発言が書かれているから、東行は天下の政治をする最適の地を得る目的があったことが分かる。日本書紀には、「何不就而都之乎」とあり、ニギハヤヒノミコト(邇藝速日命、饒速日命)が飛び降りた地を都にすることが目的... 続きをみる
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第四章 ヤマト建国 一 ヤマト王権成立の由来 ⑴ 邪馬台国と東方平定 邪馬台国が九州の国々を従えて倭国を築いた国造りの思想はそこで終わらない。「倭の王になる意志」がある限り、本州や四国の国々を従えようと考えるだろう。地理的には東方への出征となる。軍派遣は一度だけではないはずである。倭国大乱の... 続きをみる
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五 女王共立 ⑴ なぜ女王共立という解決をしたのか 倭国大乱を収めるためである。 その発端が王位継承争いで、それぞれに支援する王族、豪族らがいて争いが長引いて王がいない状態が続き、倭国の混乱が極まったときの窮余の解決策であったと思われる。 通常は先王の指名がなく兄と弟が王位を争う場合である。... 続きをみる
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第三章 倭国 一 大乱前の倭国はどのようにして成立したか ⑴ 倭国の成立とその意味 倭は倭人が住む地域の名であり、倭国は倭の地域の一つにまとまった国の名である。そのまとまり方は連合形態から統一国家までいろいろあり一定ではない。 後漢書の倭国王帥升等の朝貢や倭国大乱の記述に現れる倭国はどうい... 続きをみる
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(2-4に統合)
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五 拘(狗)奴国の成立時期 後漢書に拘奴国が登場するのは漢の時代に拘奴国があったからだと考えられる。つまり、漢が滅ぶ二二〇年より前に成立していた。そのどれくらい前かは、拘奴国がどういう国かという想定によるが、これまでは素性も含めて不明とされていただろう。 拘(狗)奴国を邪馬台国の子国と考える説... 続きをみる
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二 「狗奴国」という国名 前置きがかなり長くなったが、「狗奴国」は倭でどういう呼び方がされていて、なぜ「狗奴」という字が用いられたかという問題を考えてみる。これを考えるにあたっては、当時の倭の各地の勢力関係と狗奴国の位置、その後狗奴国はどうなったかなどの倭の歴史を考えながらどのような国かを想像す... 続きをみる
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副題 「狗奴国=邪馬台国の子国=ヤマト王権」仮説 原稿番号 序章 疑問の始まり 1 一 倭女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼 二 倭の国の王権 ⑴ 国とは ... 続きをみる
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第二章 邪馬台国とは 一 大倭王が居し、卑弥呼が都する国 後漢書によれば、大倭王は邪馬台国に居する。魏志倭人伝によれば、邪馬台国は卑弥呼が都する所である。女王は倭国の王であるから、時代の差はあるが同じことを言っていると思われる。 卑弥呼は、ヒミコ又はヒミクという倭の言葉を漢字にしたものである。... 続きをみる
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第一章 「狗奴国(拘奴国)」とは 一 狗奴国か拘奴国か 後漢書に登場する倭の国の名は、邪馬台国、倭奴国、倭国、女王国、拘奴国である。拘奴国の名が登場するのは特別視されていたからだと考えられる。魏志倭人伝には、倭の女王卑弥呼に属する国が多数挙げられているが、狗奴国と卑弥弓呼は特別である。南方の侏儒... 続きをみる