ヤマト王権の始まりの国 3-4

六 邪馬台国物語


⑴ 邪馬台国の始祖の地
 高千穂は思想的に天と結ぶために考えられた天降りの地で、そこが邪馬台国勢力の始祖が住んでいた地と考えるべきではないという意見が一般的であろう。そういう地に国を造るのは無理だという理由もある。
 この主張は邪馬台国畿内成立説の理由づけにもなるが、魏志倭人伝の行程を否定することにもなる。
 魏志倭人伝にもとづき邪馬台国九州成立説をとるなら、女王卑弥呼の都までの行程も考慮しなければならない。消去法では山岳地が考えられる。
 もちろん、そういう地で強大な国を造るのは無理である。その地に固定して考えるのではなく、平地へと勢力範囲を広げていったことも想定しなければならない。
 短期間で国を造り、又は国を奪うのは自然発生的な国造りではない。邪馬台国が倭奴国から倭の統治権を奪って国造りを始めたとしたら、そういう勢力拡大の目的をもった邪馬台国造りをしていたと考えられる。邪馬台国勢力の発祥の地、国造りの地、倭国の統治権を奪い本拠地とした地は同じではないと考えるべきだろう。
 これには、邪馬台国の始祖がどういう由来の人々かを併せて考える必要がある。その想像が最も重要である。
 邪馬台国九州成立説に立って考えると、邪馬台国勢力の始祖の地と国造りの地については、つぎのような場所が想像される。


① 高千穂説
 水行十日、陸行一月という行程から、九州の山岳地で、現在の高千穂町辺りか霧島のどこかに邪馬台国の始祖が住み着いた可能性が高い。その山の特徴から高千穂と呼んだものと思われる。そこに先祖を祀る宮を造り、女王卑弥呼が宗教的儀式をする都にもなった。
 古事記には、高千穂の地を「向韓国眞来通笠沙之御前而朝日直刺國夕日之日照國」という記述がある。笠沙を経由して韓国に行けるかのような書き方で、朝鮮半島から渡来し、南九州に上陸して高千穂に到達したルートがあったことを示している。
 しかし、ここで強力な国を造るのは無理である。
② 北部九州説
 倭奴国が支配する北部九州に邪馬台国の始祖が密かに住み着いたという想像は、邪馬台国への行程から考えて除外される。北部九州への進出は倭奴国から統治権を奪った後であろう。倭奴国と戦う過程で北西側を支配したかもしれない。
③ 宮崎説
 水行十日で九州南西部に上陸した可能性があるが、平地に進出して国造りをした場所としては、九州南東部が考えられる。倭奴国の支配が及んでいなかった可能性がある。西都には台地状の土地があり、国名の元になったかもしれない。天皇の日向への行幸、西洲宮という命名、西都という名は、畿内から見て九州を西洲(西ノ島)とし、西の都をする重要な地であったことを想像させる。日向は東征の出発地とされている。
 高千穂は霧島が考えられるが、水行十日陸行一月の行程には合わない。国造りのために下りた地という想定は可能である。


⑵ 邪馬台国の始祖の由来
 山岳地に住み、平地に下りて国を造り、倭奴国と戦い倭の統治権を奪うというのは、普通の山岳人にはない。その地で国を再建するとか、新たな国を造ろうとかの意思を持った集団がいたなら、ありうることである。しかも、そういう集団が山岳地に住むのは、戦いに敗れて逃げてきた場合である。
 この集団の出自は九州の国だったのか、朝鮮半島だったのか。歴史を遡って考えてみる必要がある。
 百七年に倭国王帥升が朝貢したが、倭国が成立したのはその少し前かもしれない。五十七年には倭奴国王が朝貢して金印を授かっている。衛氏朝鮮が滅んだ紀元前百八年の後に三十国が朝貢し、それ以前には百余の国ができていた。
 朝貢をするという知識があり、衛氏朝鮮が滅んだことで朝貢をしたのであれば、それらの国には渡来人が関わり、情報ももたらしたと考えられる。倭において国造りを主導したのは渡来人だったと考えられる。
 金属製の武器などが朝鮮から持ち込まれ、渡来系の国が互いに戦い、一世紀前半に倭奴国が広域的に国々をまとめ、その統治権を邪馬台国が奪う過程は全て武力によっていた可能性がある。
 この戦いは九州が中心で、敗れた勢力が山岳地に逃れた可能性はある。渡来系でその後も朝鮮との交易を続けて九州南部で勢力を回復していったという想像である。この想像では、山岳地に逃れた時期は紀元前後頃になるかもしれない。九州内で追討を避けるためには、早々に平地に下りて国造りをするというわけにはいかず、一世紀中に倭奴国と戦える勢力になれるのか疑問である。
 そこで、朝鮮での戦いに敗れた渡来人が倭に逃げてきた可能性を考えてみる。衛氏朝鮮が滅ぼされ、支配者層に属する者たちが漢の軍の追討を恐れて倭に逃げたが、倭の国々も漢を怖れて受け入れを拒否したため、九州の山奥に逃れたという可能性である。
 朝鮮半島から見て倭は身近なところで、政変などで南に逃げ、倭に渡ることもあったと思われる。日本書紀の一書に、スサノヲノミコトが新羅に降臨してある場所にいたが、粘土の船を造って倭に渡ったという記述がある。倭に渡ることは生死をかけて戦うより安易な方法だったのだろう。
 その子孫が倭で国を再興させようとして、山地でムラ造りを始め、平地にも進出して邪馬台国を造った。渡来人の子孫であれば朝鮮の同族と交易し、武器やその原料を揃えることも可能である。それが国造りへと発展させる条件をもたらしたと想像もできる。


⑶ 平地への進出
 国造りには、食糧や道具生産などの産業を基礎とし、民全体を秩序という一つの仕組みにまとめていくとともに、それらを守るために武力を維持、強化、行使することが必要である。
 山地では、人口は少なく、狩猟採取の生活様式が残っている。山間地は平地が少ない。水利のよいところで水田を作るにしても小規模で生産力は低い。集落は分散し、一つの秩序に組み込んで強制するのも支障がある。
 そのため、倭奴国の勢力が及ばない山間地や中山間地に下りていき、集落の用心棒となったり、食糧の「徴収」をしたり、宗教的な力を利用して食糧を得た可能性がある。
 進出先は生産力が高く人口が多く、朝鮮半島との交易も可能な地域に広がる。
 邪馬台国が勢力を伸ばしたのは武力による。武力は将兵と武器から構成されるから、将兵を増やすには人口を増やし、人口を増やすには食糧生産を増やさなければならない。武器は殺傷力が強く大量に調達できるものがよく、朝鮮半島から入手する。そういう条件に適った地を選んだと思われる。
 倭奴国の勢力を考えれば、九州の南部、南東部、東部が考えられる。九州南部の火山灰の多い土地では水田耕作はできず、西部は平地が少ない。そこで、東部での国造りとなる。
 いずれにしても朝鮮半島との交易は北部九州が最適地であり、その地を奪おうとする勢力は多かったと思われる。