ヤマト王権の始まりの国 8-3

六 記紀に記されている天皇陵と変化の理由


⑴ 初期ヤマト王権の埋葬地
 古事記には葬った場所として、山上、尾上、坂上などとともに「岡」という字がいくつか出てくる。岡は人工の山である。いずれも見晴らしの良い高い場所である。魂が天に昇っていきやすい場所に葬るという考え方にもとづくものかもしれない。
 しかし、記紀には墳墓形式は書かれていない。現在の拝礼所は記紀にもとづいて後世に造られたものだろう。おそらく、特別の墳墓モニュメントは造られなかったのだろう。
 初期の天皇の実在性は疑われているが、二世紀終りころに畿内に邪馬台国の子国ができたとすれば、その王の墓があってもおかしくはない。
 神武天皇は畝火山の「白檮尾上」に葬られたとされる。山の尾根を上がったところであり、麓ではない。山の麓には各所に池があるが、いつ頃造られたものか分からない。
 綏靖天皇は「衝田岡」に葬られたとされる。現在指定されている墳墓は円墳であるが規模は小さい。塚を造ってそこに葬ったのであろうが、邪馬台国の平地での墓の形式のようにも思われる。
 安寧天皇は「畝火山之美富登」に葬られたとされる。これは麓ではなく谷を上がったところではなかろうか。
 懿徳天皇は「真名子谷上」に葬られたとされる。谷を上がったところという意味であろう。
 孝昭天皇は御所の「掖上博多山上」に葬られたとされる。文字通り山の上である。この地は、西の葛城山と南の巨勢山から川が流れてくる一帯である。しかし、葛城川の東側の水利はよかったとは思われない。
 孝安天皇は御所の「玉手岡上」に葬られたとされる。現在では南の山麓に溜め池がいくつもあり、川が流れ出ているが、当時はその地を水田にするには水が足りなかったと思われる。玉手岡というのも山の麓に池を掘って、その土を山の根元に積み上げて人工の山のようにしたことから付けられた名ではなかろうか。墓は、その岡ではなく岡の上の山上かもしれない。
 この頃は、周濠式溜め池の中岡は吉備の豪族の墳墓形式とされていて、それを王墓にするという考えはなかったのだろう。吉備の豪族の娘が王妃となり、その王妃の墓を前方後円墳型の墳墓に葬ったのがきっかけとなって、巨大な墳丘墓なら山上に見立てることができるということで王墓にするようになったのかもしれない。


⑵  卑弥呼との不和の頃
 邪馬台国子国の歴史の転機は卑弥呼との不和と相攻撃という事件である。三世紀半ば頃の天皇は、記紀で言えば第七代孝霊天皇の時代の頃だと思われる。孝霊天皇は田原本町黒田に宮を造ったことになっており、、生駒ルート、奈良ルート、大和川沿いルートどれをとっても、大阪側と対峙できる場所である。
 女王に属する国は多く、卑弥呼は魏にも支援を求めている。卑弥弓呼が畿内防衛を図るために、この位置に宮を造ったものと思われる。つまり、この卑弥弓呼とは孝霊天皇のことではないかと推理することができる。
 相攻撃の結果、魏が介入し、卑弥呼は死ぬ。卑弥弓呼は撤兵したものと思われるが、引き続き警戒はしていただろう。墳墓は王寺の大和川近くの山上にあり、西方に対して守護の神となるという発想だったのかもしれない。
 この力関係ができる時期は、瀬田や纏向の周濠などが造られた後の子国王権の勢力拡大の時期である。この王家の王こそ倭の王に相応しいという自負心も生じたかもしれない。


⑶ 墳墓形式の変化
 第八代の孝元天皇陵は三世紀後半に造られた前方後円墳とされている。前方後円墳であるなら、王墓としては初めての墳墓形式である。
 孝元天皇陵は、北西に向かってなだらかな傾斜がある場所にある。古事記では「剱池之中岡上」に葬ったとされている。「岡」はたびたび出てくるが、岡というのは人工的に造った上部がなだらかな小山のことで、造り山と同じ意味である。当時の墳墓の形が分かる唯一の言葉である。現在の中岡は直径百メートルくらいで、箸墓古墳と比べて規模はかなり小さい。日本書紀は「劒池嶋上陵」と記されている。島であるが、元は西北側に外部とつながる陸橋状の方形部があったと思われる。ところが、剣池が掘られて方形部側は陸側と分離され、島のようになったのではないかと思われる。方形部が不整形なのは、池を掘った後に崩れたからかもしれない。
 剣池は応神天皇の時代に造られたという記述があり、そのときに中岡ができたのであれば孝元天皇を葬ることはできないから、先に周濠式の溜め池と中岡ができていたと考えられる。その後、劒池が掘られ、島状になり、後づけで「剱池之中岡上陵」、「劒池中嶋陵」と呼ばれるようになったのだろう。「劒池」は記紀編纂時を基準に場所を示したものと思われる。
 現地は南東部がやや高くなるため池の掘り方には注意を要する。最初に予定された周濠式の溜め池が円形であれば、さほど問題はなかったかもしれないが、仮に方形部を延ばして周濠を広げたなら、崇神天皇陵のように周濠を堰堤で分割しなければならない。箸墓古墳の周濠がそのようなものであれば、同様にされただろう。しかし、堰堤を造った場合でも、円墳部の濠より下段の濠に水を溜めることを優先するから、円墳部の周濠には水は溜まりにくくなる。水量が少なければ意味がない。これは、堰堤で分割した周濠を持つ古墳全てに言えることである。ただし、前方後円型墳丘墓に周濠が必須であると考えられたなら、各段の濠の水量を調整して周濠を維持するという考え方はありうる。
 いずれにしても周濠式などの溜め池を造るのは、その地で水田を作るには水利が不十分だからである。剱池がある辺りは飛鳥川と高取川に挟まれた地域であるが、南部は川との高低差の関係で水位が足りなかった可能性がある。川を堰き止めて水位を上げて水路に導くという方法はまだ行われておらず、水田を作るのが困難な地域だったのだろう。湧水があってもそのまま流れ出ていけば意味がない。小規模であっても溜め池を造ったことで水田耕作ができるようになり、収穫が増えると水田を広げるために池を大きくしようと考える。
 孝元天皇の墳墓は三世紀後半に造られたとしても、最初の周濠と中岡は三世紀中頃には造られていた可能性がある。これを造るには豪族による指揮監督と民の労働力が必要であったが、事業の成功により皆が報われ、邪馬台国子国の王の権威は増したと考えられる。そして、その象徴である周濠の中岡に王を葬ることとしたのだろう。


⑷ 前方後円墳の継承
 孝元天皇陵は前方後円墳形式の王墓の先例とされるが、第九代の開化天皇陵とされている古墳は五世紀前半に造られたもので、同形式の引継ぎと言うわけにはいかない。
 開化天皇は「伊邪河之坂上陵」(古事記)、「春日率川坂本陵」(日本書紀)に葬られたとされる。岡上ではない。孝霊天皇陵も「坂上」であるが、小高い山の上である。開化天皇は率川上流の春日山一帯のどこかの小山の上に葬られたのかもしれない。現在、開化天皇陵とされている古墳の場所は坂上に葬られたとする記述に合わない。「坂本」なら坂の下のことではないかという主張があるかもしれないが、サカは上から下にサカル(サガル)場所であり、その元(本)は上にある。「黄泉比良坂之坂本」は黄泉の国から坂を上がった場所のことで、地下世界から地上世界に戻ったことを意味する。坂上と坂本は同じ意味であり、古事記も日本書紀もともに率川を上がったところと言っているのである。
 よって、開化天皇陵とされている古墳は別の王族の墓である可能性がある。現在の墳丘の規模は小さく、周濠も細いが、当初は貯水池を兼ねて大きく造られたかもしれない。その周濠式の溜め池を造らせたのが開化天皇だったかもしれないが、溜め池築造の時期は三世紀終り頃ではないかと思われる。
 開化天皇の宮の名は「春日伊邪河宮」(古事記)、「春日率川宮」(日本書紀)である。奈良平野北部に宮を置いたのは、北部の開発のために河川整備事業を行うためだったかもしれない。率川一帯の水利に功績があったなら、その川の上流の山に葬ってもおかしくはない。
 この時期は、魏が滅んだのを契機として、奈良王家は邪馬台国の王権の移譲を認めさせようという頃であろう。第九代の開化天皇のとき倭国の王権の移譲を求めた可能性があるが、すぐには実現できなかったと思われる。奈良平野の開発を優先し、周濠のある中岡を墳墓とする考えはなかったのではないかと思う。
 第十代の崇神天皇の陵墓は前方後円墳であるが、その方形部が切られたように短い。これは前方部に池を広げた際に削ったからではないかと述べたが、前方後円墳が王墓の形式であるという意識はなかったと考えられる。天から見た形も意識されておらず、溜め池と巨大な山造りが力を象徴するものとされたのかもしれない。しかし、王墓の形式だからという理由ではなかったと考えるべきだろう。
 崇神天皇を葬るときには、新たな倭国王となったヤマト王を象徴するものに相応しい規模のものが選ばれ、そこで、奈良平野の東側に位置し、当時最も巨大だった周濠式溜め池の中岡の上に葬ったのではないかと思われる。古事記では「山邊道勾之岡上」に葬ったとされる。日本書紀では「山邊道上陵」となっている。
 第十一代垂仁天皇は「菅原之御立野中」(古事記)、「菅原伏見陵」(日本書紀)に葬られたとされている。宝来山古墳と呼ばれる古墳であるが、これは五世紀前半に造られたものであり、古墳築造時期は遅すぎる。岡上という記述でもなく、陵墓が前方後円墳だったのか疑問がある。平地の小さい丘に葬られたのではないかと思われる。
 仮に、宝来山古墳が正しい陵墓であるなら改葬されたと考えるべきだろう。改葬ならば、時期がずれていても、死亡した場所と墳墓が離れていてもおかしくはない。仲哀天皇はそういう例だろうが、記紀の記述から判断できなければその証拠を探すのは無理である。
 従来、孝元天皇以後、天皇は前方後円墳に葬られているという前提で陵墓が指定されていたのではないかと思われる。しかし、墳墓形式の継承はそれが正式の大王墓の様式として定められてからのことであり、それまでは先例に従うかどうかは生前の意思と葬る側の判断に委ねられていただろう。農耕を基盤とした国造りということで溜め池のある前方後円墳を選ぶ大王はいただろうし、邪馬台国の伝統に回帰して自然の山上に葬ることを希望した大王もいたかもしれない。
 大王墓の様式は、邪馬台国文化との決別、国造りの思想、国内の安定があって定まり、時代によって変えられたと思われる。


⑸ 池の保全と王墓予定地
 池を造れば管理が必要となる。とくに、水不足のときに人々が勝手に取水しようとするのを統制しなければならない。その水利系の耕作者が集団で取水を行えば統制は難しくなる。
 そこで、中央部の岡を王墓にして周濠を含めて立入禁止にして防止することを考えたかもしれない。王の印をどこかに立てておくのである。違反者は重罰に処せられる。また、王墓でなくても王家の印を立てておくことも考えられる。前方後円墳を王墓にした先例があれば人々は信用するだろう。
 他方で、水不足が続けば、王は降雨を祈願して宗教的な行事を行うことで、民の不安をやわらげつつ統制しようとしたかもしれない。
 さらに、水不足が起きないように周濠式溜め池を各地に造ったり、溜め池を拡張したり、水路を整備したりしただろう。
 畿内には、王墓と考えられるもののほかに多くの前方後円墳がある。溜め池だと考えれば何も不思議ではない。墳墓にされないままになったものもあるだろう。王墓予定地にしていたなら放置するわけにはいかないから、王命で王族を埋葬させたかもしれない。王族を先祖に持つ豪族も前方後円墳への埋葬が認められたかもしれない。
 溜め池で重要なことは保全である。葺石などにより、とくに池側の土の崩落を防止し、土砂の流れ込みを防ぎ、必要なら浚渫をする。池の補修や浚渫は水利用者の共同作業として定期または臨時に行われただろう。


⑹ ヤマトの象徴
 前方後円墳がヤマト王権の象徴のように言われているが、築造が始まった時期とヤマト王権の成立時期は合わないし、築造当初から王権の象徴にするためだったとは思われない。また、形状の理由について諸説あるが、これは築造の目的と場所と仕方によると思う。
 前方後円墳の中には大王(天皇)の墓があることは否定しないが、それは多数ある前方後円墳の一部である。王墓のみにある特徴の有無を調べる必要があるが、王墓に相応しいと判断してそこに葬った理由も推理する必要がある。
 墳丘の形そのものからは山と台をイメージすることができるが、王墓でない前方後円墳も同様である。方形部前方が掘られて完全な周濠がある前方後円墳は大王墓に限られない。元は場所的な理由で完全な周濠形式になったものと思われ、大王墓の特徴というわけではない。傾斜地であれば周濠は段差のある分割式になる。これでは貯水量が少なくなるから、前方部を大きく掘って周濠を大きくしたほうがよい。そういう巨大な山と周濠式溜め池がヤマトの象徴的な墳墓に採用されたのだろう。
 これが崇神天皇陵、景行天皇陵へと続き、象徴にとどまらず天の神に見せる形として全体の形を整えるようになったのではないか。
 ヤマトが邪馬台国に由来するとすれば、その葬送の仕方は山に葬るか塚を造って葬るのが習わしだったと思われる。中岡も巨大な塚である。死んだ王の魂はそこから天に還っていく。周濠式の溜め池は国の発展に大いに役立つとともに、墳墓にするときには神域を画するものとなる。円と方をつなげた形は天の神に見てもらうのによい形である。方形部は始祖が海上の倭に造ったクニを示し、多くの埴輪によってその功績を讃える。そういう思想があったとすれば方形部はむしろ幅広のほうがよい。人形埴輪は殉葬者に代えるものだとされているが、もしそうなら、上に並べるのではなく埋葬されるはずである。
 王家の墳墓形式が定められたかどうかはともかく、規模の違いはあるが似たものが造られた。規模は葬られた大王の功績、在位年数、大王の財力の大きさなどを基準にしたものか疑問である。生前の希望と王位を継承した側の考え方次第ではないかと思う。王と他の王族や豪族の墳墓の違いは、墳墓に飾られた物、副葬品、方形部の大きさ、周濠を含む全体のシンメトリーなどにあるのではないかと思う。
 以上はあくまでも想像である。