ヤマト王権の始まりの国 8-2

七 周濠分割型前方後円墳
 方形部前方が広がる形の前方後円墳が造られ始めても、周濠造りに意味があったのは同じである。纏向型墳丘墓から墳墓の形が変わっても池造りという目的は維持されていたと考えられる。溜める水を確保するには山麓などの傾斜地がよい。しかし、傾斜がある地域では、周濠の造り方に工夫が要る。
 池の造り方は地形などによって異なるから平地と同じと考える必要はない。重要なのは、それぞれの地に合った池の造り方である。前方後円墳という墳墓形式がまだ決まっていなかったから、融通がきいたのだと思われる。
 低地に水に流していくには高台に造るほうがよいが、見た目は緩やかな傾斜地でも実際に掘るとなると大きい池は造りづらく池を分割するようになる。そういう場所では周濠式より通常の穴掘り式の池にして土手で囲ったほうがよいかもしれない。しかし、山からの水が溜まりやすく、低地に水を供給しやすい方法としては、山の根の先を利用し、上方を切り離し、周囲に池を掘るというのは合理的である。
 三輪山の麓一帯は水が流れてくる場所であり、広くなだらかな高低差があって溜池造りに適地であった。人工の山ができると、それが墳墓にされる。三輪山はヤマト王権にとっての聖域ではないが、水源地として重要な地域だった。しかし、川から水路を引くには川の高さが土地より高くなければならないから、上流から目的地域まで勾配を考えながら水路を造ってこなければならない。


⑴ 崇神天皇陵
 山辺にある崇神天皇陵は四世紀前半に造られたとされており、平地にはない特徴がある。円墳部は直径百五十八メートルに対し高さは三十一メートルある。山の麓の小高い場所にあり、元は尾根が切れた小山だったかもしれない。
 なだらかな斜面に堰堤で区切った円形の周濠が掘られている。作業用通路は、堰堤となったところを利用するだけでなく、低いほうに陸橋を残してスロープ状通路を造った可能性がある。このとき、陸橋両横を掘ったと思われるが、傾斜地のため深くは掘られなかっただろう。
 その後、葬送が行われ、スロープは削られて方形部として整えられる。元の方形部は現在の土手辺りまで延びていたのではないかと思われる。
 後に、それでは貯水量が足りないということで、低いほうに土手を造って池を広げたのであろう。円墳部直径百五十八メートルに対し方形部長さは八十四メートルにとどまっていることから、方形部は削られて短くされたと考えられる。墳墓は円墳部であり、この時代の方形部は聖域とはされていなかったのだろう。土手は斜面に造られる関係で直線になる。土手の土は、方形部を削った土と池を掘り広げた土が使われたのではないかと思われる。墳丘はほぼ島になる。


⑵ 景行天皇陵
 近くの景行天皇陵は、全長三百メートル、円墳部直径百六十八メートル、前方部幅百七十メートルと巨大である。元は尾根が切れた小山だったかもしれない。
 高さは円墳部が二十五メートルと全長に対する割合は普通であるが、方形部が台状で高さは二十三メートルもある。スロープ状通路が巨大になり、それを崩して整えた際の土が多く、しかも、前方部を掘って周濠をつなげた際の土を方形部に盛ったため、方形部が高くなったのではないかと思われる。
 前方部に崇神天皇陵ほどの高い土手は無いが、周濠の造り方は崇神天皇陵に似ている。周濠跡が狭く、また、埋まったようになっているのは、自然の小高い地に盛り土をした部分が浸食されて崩れたたためかもしれない。


八 前方後円墳の地域的広がり
⑴ 地方の箸墓古墳型古墳
 箸墓古墳の巨大性や全国に同形の前方後円墳が多数あることをもって大王墓だとする説がある。地方の服属した豪族にその形式を許可したというのである。同形といっても、例えば地方の豪族が大王に謁見した際に地上から見ただけでは、その形は正確には分からないから、基本的な設計と造り方が広まったと考えるべきで、特別な許可を与えて教えたという想像はできる。
 しかし、巨大な池を造るのが目的で、その結果巨大な人工山ができ、墳墓に利用されたと考えれば、墳墓の大きさで人物像を推し量る必要はない。
 溜め池目的で造り墳墓にもしたのか、専ら墳墓目的だったのかは、立地や発掘結果などから分かるだろう。墳墓目的といっても、地方にいる王族なら王家の墳墓形式という理由で同じ形式にしたかもしれない。そうでない豪族なら、大王墓に似せようとしたのか、豪族の墓だから真似てよいと考えたか、動機は違うかもしれない。
 元が王墓として造られ始めたものではなく、三世紀末には九州で鍵穴型の前方後円墳が造られていることから、動機は一つではないと思われる。


① 大分県の宇佐の高森古墳群は同様の考え方で造られたものと思われる。近くの川は何 メートルも下を流れていて,高森地域は水が不足していただろう。溜め池を掘り、主に雨水を溜めていたのかもしれない。その結果できた山を墳墓に転用するという共通の考え方があったと考えられる。
 その一つの赤塚古墳は三世紀末に造られたとされ、前方後円墳の形をしている。円形墳丘部の直径は三十六メートルと大きいが、高さは四・八メートルにすぎない。方形部の長さは二十一メートルもあるが、高さは二・五メートルと低い。九州は雨も台風も多いから墳丘部が浸食されて低くなり、その土で周濠が埋まった可能性がある。周囲に幅八・五メートルから十一メートルの濠跡がある。方形周溝墓群が隣接している。奈良と九州は交流があったと思われるから、奈良の溜め池造りに倣って中岡式の池を造ったのかもしれない。


② 宮崎県の西都原古墳群は、方墳二基、円墳二百八十六基、前方後円墳三十一基などが 確認されている。いずれも台状地の上にあり、百六十九号と百七十号の円墳には幅十m前後の周濠らしき跡が見られる。
 前方後円墳の最大のものは墳長百八十mの女狭穂塚と百七十五mのホタテ貝形の男狭穂塚である。これらには周溝がある。墳長二百七十八mの箸墓古墳と比べると規模は小さいが、地方の墳墓としては大きい。他の前方後円墳は、墳長五十~百mまでの規模である。二百二号墳(姫塚)には周濠らしきものがあるが、溜め池機能があったのかどうかは分からない。場所と形状と規模は、支配していた王と王族、豪族の地位などによる違いだと思われる。多数の墳墓が一定地域に集中しているのは、死者が葬られる場所が生者の生活と生産の場所と区別されていたことを示す。
 この地は、邪馬台国と関係がある一族が支配していたのではないかと思われる。邪馬台国勢力が朝鮮由来なら、発掘物にその系統のものがあっても不思議ではない。西都原に邪馬台国勢力がいたとすれば、畿内のヤマト王家に従い、傍系の同族として支配を続けていたのだろう。そして、畿内の王墓の墳墓様式が定まり、それに倣って四世紀初め頃から前方後円墳を造り始めたのではないかと思われる。
 葬送形式が変わった後、西都原には大規模墳丘墓が造られることがなくなり、次第に放置されていったのだろう。


⑵ 前方後円墳の広がり
① 河内
 奈良平野の水利の不便な地域に広がった後、大阪平野でも前方後円墳が造られるようになる。まず、藤井寺、羽曳野、堺に造られた。水田の拡張は生駒山地西側から始まったと考えられる。
 大和川の北側はかつて海が迫っていたから、大和川の南側で石川の西側を開墾することになる。藤井寺地域は、川と平地の高低差から、この二つの川から取ることが困難である。考えられるのは石川の上流から水路を引くことであるが、それも堰を造らなければできない。そのため、溜め池を造ることになるが、ヤマト王権は奈良平野での実績をもとに巨大な周濠式の池を造ったのであろう。
 これを西や東へと広げていき、水田を増やしていった。民の家から竈の煙が上がるのを見たというエピソードは、民の労力により巨大な池を造り、水稲の生産量を増やすことができ、民の食糧を賄うことができたという安堵と自負心を表しているものと思われる。
 この巨大な池がここでも墳墓にされたのである。ヤマト王権の伝統になっていたと言ってもよいだろう。巨大な池になれば、中の人工山も大きくなるから、それが巨大墳墓となる。大阪平野の巨大古墳はヤマト王権の権力構造とは関係がなく、池の大きさによるものであろう。
 墳丘を高く造っても、長年の風雨により浸食され、土砂が池に流れ込む。草木が生え森になっても浸食が止まるわけではない。崩落も起きる。墳丘面積は大きくなり、池の面積は狭まる。
 これは大きな問題である。浸食を防止するには墳丘を固め、傾斜をなだらかにし、草木を植えるという方法しかない。草木が根を十分に張れば浸食は減るだろうが、それでも浸食を止めることはできない。
 池が埋まったりしても水利に不要であれば放任されるかもしれないが、水量が足りなくなっても、水が溢れるほどになっても困る場合は、池を浚渫するか拡張しなければならない。このとき、泥土の処理が問題になる。池の水を抜かなければ浚渫はできない。巨大古墳の場合は容易ではない。墳墓にした後は泥土を盛り上げるわけにはいかない。そこで、周濠の外にもう一つの周濠を造り、掘った土は内側の周濠の土手に盛ることで解決したかもしれない。


② 吉備
 総社には、造山古墳、作山古墳があるが、造山も作山も人が造った山という意味である。最初から墳墓を造る目的で人工山を造ったならば、それは塚や岡と呼ばれ、山扱いはされないはずである。楯築遺跡は足守川沿いの山の上にあり、双方中円形墳丘墓と言われている。溜め池とは関係がなく、最初から墳墓として造られている。造山古墳とは明らかに様式が異なるが、方形部は緩やかなスロープを造って巨石などを運び上げたのだろう。墳丘墓の造り方としては参考になる。
 造山古墳は五世紀前半に造られたとされ、畿内よりかなり遅い時期である。足守川から一キロメートル余り離れた位置にある。足守川西側一帯で水稲を作る場合、川から水路を引くには堰を造って水位を相当上げる必要がある。現在では堰が造られているが、当時その知識や技術が無かったとすれば、その一帯を水田にするには溜め池を掘る必要があった。古墳の周濠は幅二十メートルと言われており、溜め池として使われた可能性がある。墳丘部の北西側は崩落しており,方形部の西側と南側も緩やかに崩れているようである。これは、小高い山の周囲を掘ってその土を山に積み上げたために層ができていたからかもしれない。周濠の規模に対して墳丘部が大きいのはそういう事情によるものだろう。
 この土は川や海を浚渫した際の泥や土砂だとする説があるが、海のものを積み上げたなら、貝殻などが発掘されているはずである。浚渫土を処理したいなら、足守川東側の埋め立てに利用したほうがよい。そこに足守川から水路をつくって淡水を流し、葦を植えるなどして塩分を排出していけば水田になる。わざわざ足守川より高い位置にある造山古墳の場所まで浚渫土を運ぶ理由はない。
 現在、池は残っていない。水路により池は不要になり、埋まるままに放置されたものと思われる。
 作山古墳の北西側に池が掘残っているが、周濠のようには見えない。墳丘が崩れて周濠が埋まった後に、その地域の灌漑用に造られた可能性がある。南の山麓に大きな溜め池が複数造られて水路が引かれており、この古墳の周濠は必要なくなったのであろう。
 こうもり塚古墳の北側と西側には隣接して溜め池があるが、周濠としては残っていない。


⑶ 前方後円墳の終焉 
 前方後円墳はヤマト王権の発展の基礎であり象徴であった。決して民を働かせて巨大墳墓を造ろうとしたわけではない。それは結果である。目的は溜め池を造り、農業を発展させることであった。それにより、さまざまな産業を発展させ、大人口の都市ができるまでになった。
 しかし、池が増えると新たな溜め池を掘る必要性は減っていく。それだけでなく、堰を造る技術が発達すると、川が流れる谷に堰となる土手を築いて堤を造ったり、川に堰を造って推移を上げて水路に導いたりする土木知識と技術が入ってきたことで、平地に溜め池を掘るよりも簡易に水利を得ることができるようになる。
 これによって巨大な溜め池を造る必要がなくなってくれば、周濠付の巨大墳丘墓となる素材もなくなる。他方、横穴式の石室が造られるようになると、墳頂への通路は必要でなくなる。前方後円墳の周濠は横穴式石室を造りづらくする。あえて墳墓のためだけに周濠を掘り巨大墳丘墓を造るのは民を苦しめるだけである。薄葬令よりずっと前に畿内で前方後円墳が造られなくなっていたのは、巨大な池を掘る必要がなくなったからだと考えるのが妥当ではないかと思う。元々山に棺を埋めて葬っていたのであれば、墳墓としても前方後円墳の形式にこだわる必要はない。円墳や方墳でよい。
 さらに、仏教の影響を受けて、山や塚に葬るという方式が変わって墳丘墓は造られなくなったのであろう。


⑷ 地方で造られ続けられた理由
 地方でも畿内に倣って周濠式溜め池が造られ、畿内で前方後円墳が造られなくなった後も溜め池が必要であったところでは造られ続けていたとしてもおかしくはない。ただし、前方後円墳型の墳丘墓だけを造った場合は、農耕のためではない別の意図によるものである。
 千葉県印旛郡の浅間山古墳は七世紀前半に造られた最後の頃の前方後円墳と言われている。墳丘の長さは約七十八メートル、円墳部と方形部の高さはともに約七メートル、周濠は幅七、八メートル、深さ約一・三メートルである。高台にあり、北西側に周溝がなかったと言われているが、そうだとすればまさに南側の水利のための溜め池として造ったことになろう。
 七世紀初めは仏教が盛んになっており、墳墓形式も変化している。墳墓として前方後円墳を造るのは時代遅れと言えよう。それでも造ったのは、やはり溜め池を造るのが目的だったのではないかと思われる。そうであれば、周濠と墳丘墓としての形にこだわる意味はなかっただろう。