ヤマト王権の始まりの国 1-3

狗奴国=邪馬台国子国=ヤマト仮説


 そういう疑問から導き出したのが、次の仮説である。
① 狗奴国は、九州に成立した邪馬台国が三世紀前後頃に東方平定のために畿内に領地を得て造った子国である。
② 狗奴国王卑弥弓呼は、ヒミコ(卑弥呼)の子分に相当する地位名である。
③ 卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合ったのは王族内の争いであり、卑弥呼の死後、邪馬台国は勢力が衰えた。畿内の子国は勢力を強め、王家はヤマトを称した。
④ 卑弥弓呼は邪馬台国の王から倭国の王権を譲り受けた。これにより、ヒノミコとかオホキミ(大王)と呼ばれた。倭はヤマトと呼ばれるようになった。
⑤ 後に天皇という称号となり、子国時代の王にも遡って諡が贈られた。


 子国というのは、本国(親国)の畿内領地を王が直接統治せず、王族にその地に永住させて先祖を祀らせ統治をさせた国という意味である。それを国と呼ぶのはおかしいという意見はあるかもしれないが、国とは何かという考え方の問題でもある。
 クニは君、郡に由来し、境界で画された一定地域を指す言葉として使われたと考えられる。ムラは境界によって画する概念ではないが、境界で画する地域になればクニ(君、郡)と呼ばれることにもなる。クニは領地の大小に関係なく成立する。
 境界は支配領域を明確にするためである。そこには支配する者がいて、支配を維持するための武力などの手段も持っている。その支配者がクニヌシであり、統治をするのが王である。オホクニヌシは国々の王を支配するが、個々の国を統治する王ではない。
 このように考えると、クニの本質は支配者の登場にある。主は支配者のことだとすれば、クニヌシは継続的に一定地域(領地)とその地域にいる人々(領民)を支配する者だと言える。支配は、武力などの強制力によって従わせることである。そのための組織も必要になる。しかし、支配するだけでは被支配者らは離反する。彼らを民とし、その利益になるよう治めることが必要になる。それによって支配者は統治者たる王になれる。
 武力で王を降伏させた場合、その王を国から排除する場合と、引き続きその国を統治させる場合がある。併合か服属関係かという違いもある。占領地域を占領軍の国に併合させた場合は占領軍の王が支配し、官を用いて統治するのが一般的だろうが、別の王族に宮を造らせ統治を任せることも考えられる。この場合、その領地と領民を治める王がおり、外形上は独立した国の王と同じである。ただし、親国の領地を治める子国の王という立場になる。親国の王がヒミコ(卑弥呼)と呼ばれれば子国の王はヒミコのコ(卑弥弓呼)と呼ばれ、先祖を祀るミヤ(宮)がミヤのコとして造られるのもおかしくはない。
 以上に加えて、卑弥呼と卑弥弓呼の不和・相攻撃とその後の経過を想像し、邪馬台国の倭国からヤマトの倭国への連続性という推理から遡って、狗奴国は畿内に成立した邪馬台国子国ではないかという仮説を考えたのである。後漢書も魏志倭人伝も狗奴国(拘奴国)を特別視しているのは、倭の権力に重要な位置を占めていたからではないかと思われる。
 ところが、「不属女王」、「狗奴」、「素不和」、「相攻撃」などの文言から、狗奴国王は女王卑弥呼と敵対関係にあって戦った相手だったから王の名が知られていたと考えられているようである。しかし、後漢書には「雖皆倭種而不属女王」とあるだけで敵対関係としているわけではない。不和と相攻撃の時代でもない。拘奴国の名と位置が具体的に記されていることのほうが不思議である。魏志倭人伝と併せて読むと、拘奴国を侏儒国らと同列の扱いをする読み方は妥当でない。
 ということで、この仮説を掘り下げて検討してみようと思う。既に結論の一部は書いてしまったが、例えば次のような論点がある。
① 狗奴国(拘奴国)とはどういう国か。倭ではどう呼ばれ、どういう意味だったのか。
② 卑弥弓呼、狗古智卑狗は、倭ではどう呼ばれ、どういう意味だったのか。
③ 狗奴国(拘奴国)は女王国より東へ海を千余里渡ったところにあるというのはどこのことか。その距離をどう考えるか。
④ 狗奴国(拘奴国)はいつ頃どのようにして成立したのか。
⑤ 「雖皆倭種而不属女王」とはどういう意味か。
⑥ 卑弥呼と卑弥弓呼は「素不和」であり、「相攻撃」したのはなぜか。
⑦ 魏志倭人伝や後漢書の記述は虚構なのか。
⑧ 狗奴国(拘奴国)は、その後どうなったのか。


 他方、「記紀」をどう読むかという問題もある。詳しくは『記紀をどう読むか』に譲るが、本稿に直接関係するのは東征物語からである。畿内に子国を造る過程が東征と重なるが、東征物語は子国の建設ではない。しかし、いきなりヤマトの倭国を造ったとは考えられず、最初は地域的な国である。そこから勢力を広げていくというのが歴史の流れであるが、そういう記述は崇神天皇以後の物語にある。
 それならば、神武天皇が即位したというのはどこの国の王のことか。これこそ地域的な国のことで、子国の建設ではないのかという問題意識につながる。
 記紀には、邪馬台国も卑弥呼も壱與も国や人の名としては登場しない。大きな勢力を持った国であったならその国の神が神話に現れてもいいはずである。これらは天皇の権力の歴史から抹殺されたのではないかという疑問がある。邪馬台国の時代は歴史的にはヤマトの倭国になる前の時代であり、東征は天皇の王権への転換の始まりでもある。成立史としては最も重要な部分であるはずで、なぜそれを不完全な東征物語としたのか、天皇が記紀を史書として位置づけて編纂させたのであれば、なぜ神話のような記述にしたのかも考えるべきだろう。
 仮説は証明されなければ想像にとどまる。傍証にとどまる証拠資料を積み重ねても真実に近づくのは難しい。それでも合理的な物語を考えてみる意味はあると思う。