ヤマト王権の始まりの国 6-3

四 女王卑弥呼の塚
 女王卑弥呼は王位にあったまま死に、卑弥弓呼は軍を撤退させた。倭国としては盛大な墓を造ることとなる。しかし、男王が倭国王となって国中で誅殺し合った時期に巨大な墓を造る余裕はなかっただろう。造営は壱與が女王になってからのことと思われる。その造営を張政が見ていたとは思えない。帰国後に倭国から報告を受けたものであろう。
 「卑弥呼の墓」論争は、魏志倭人伝に「大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」と書いてあることから、それがどこにあるのかということで始まった。邪馬台国九州説は平原遺跡説が有力で、畿内説では箸墓古墳説が有力だとされている。
 径百歩余の塚とはどれくらいの大きさなのか、どういう形なのかという問題もある。奴婢百余人を殉葬させたのが事実ならそれなりの規模はある。一歩を約一・三五メートルとすれば、径百歩余は百四十メートル近いものとなる。
 平原遺跡には大きな塚はない。一号墓は十四メートル×十二メートルの方形周溝墓である。二号墓は径九から十メートル、三号墓も同程度の規模で、殉死者用の溝は十六人分のようである。
 箸墓古墳は巨大な前方後円墳である。後円部の径は約百五十メートル、前方部は台形型で前面幅は約百三十メートル、前面から円部までの長さは約百五十メートルである。円部の高さは約三十メートルあるのに対し、方部の高さは約十六メートルである。後円部は径百歩余より一割くらい大きい。被葬者の遺骨も殉葬された者の遺骨も発見されていない。石室があったことは推定されている。
 「百歩余」の塚というのは、おそらく円形墳丘墓(円墳)であろう。方墳は「径」で測らず「辺」で測るから、ここでいう塚ではない。前方後円墳は中国から見れば特異な形式であるから、倭の報告によったなら「塚」という一言で済ませたか疑問がある。
 また、宗女の壱與が十三歳であったなら、卑弥呼の死亡年齢は中年くらいであろうから、この塚は予め準備されていたとは思われない。死後造成で箸墓古墳ほどの巨大なものを造ったのか疑問がある。
 百余歩を実測だとして中国のスケールによるなら直径百三十メートルくらいの塚になる。この規模の三世紀半ばに築造された円墳は発見されていない。
 仮に、片足分を一歩とすれば直径六十五メートルくらいになる。この規模の三世紀の古墳は北部九州にもある。那珂八幡古墳、宇佐赤塚古墳、苅田石塚山古墳などである。
 しかし、「百余歩」、「百余人」というのは実際に数えたものとは思われない。大きいとか多数のという意味合いにすぎないのではないかと思う。「百戦錬磨」が百回戦ったということではないように、百という言葉は比喩で用いられることが多いのである。そうなると墓の大きさや奴婢の人数ははっきりしなくなる。どこの古墳かという比定の議論をしても意味がない。
 そもそも、ヤマト王権が邪馬台国の王家を廃絶させ女王の時代も歴史から消そうとした可能性があり、女王卑弥呼の塚は破壊された可能性が高い。その上に別の構築物が造られて消滅したならば、探すのはほぼ不可能であろう。
いずれにしても、現状では、女王卑弥呼の塚の場所を探る手掛かりはなく、その塚を根拠に邪馬台国の位置を決定することはできない。平原遺跡も箸墓古墳も女王卑弥呼の墓だとする根拠は全くない。


⑵ 畿内の前方後円墳は卑弥呼とは関係がない
 纏向遺跡で百三十五年から二百三十年ころ実った桃の種が発見されているとして邪馬台国畿内説の根拠にしようとする見解があるが、その時代に桃を食べた者たちが纏向の地にいたというだけで、邪馬台国の人だという根拠にはならない。
 纏向型・帆立貝型墳墓に共通して池が隣接して造られている。箸墓古墳にも池が隣接している。それらの現在の形は周濠とはえないが、発掘調査の結果、周濠があったとされている。周濠は墳丘部分に比べて大きく、池と言ったほうがよい。瀬田遺跡の円形周溝墓の周溝も周溝墓にしては幅が広く大きい。周溝が墳墓と外とを隔てる意味なら、それほど大きくする必要はない。
 この池は何のためか。墳丘墓を造るために土を掘った結果なのか、それとも溜め池造りが目的だったのか疑問がある。
 最初から墳丘墓を造るのが目的なら、自然の山を加工したり、土を掘って運んだりするのに適した丘陵地や山の麓のほうがよい。その場合は、周濠は小さくてよい。畿内のなだらかな山麓に大きな周濠を掘るとすれば、溜め池造りである。平地であっても、湧水が出る場所に溜め池を造ることは考えられる。墳丘墓を造るために周りを掘る必要はない。巨大な山を造ってそれが墳墓であると説明したところで、元から山があって周りを掘ってその土を足しただけだと思われては権威づけにはならない。
 しかし、記紀によれば、神武天皇陵など初期の墳墓は山が利用されている。平地に墳丘墓を造る考え方はなく、従ってその土のために穴を掘るという発想もなかったと思われる。
 箸墓古墳は王墓として築造したのではなく、元々は溜め池を掘った中岡を吉備と関わりのある人物の墳墓に転用したものだと考えられる。卑弥呼とは関係がない。


五 邪馬台国滅亡の兆し
 女王卑弥呼死亡後、男王を立てたが、国中が従わず互いに誅殺しあい千人余が死んだとされている。「誅殺」とは罪がある者を殺すことである。千人余というのは実数としては疑わしい。かなり多くの人数という意味ではなかろうか。魏志倭人伝には、「千余」、「百余」などの言葉が随所に出てくるが、どれも比喩的な数字である可能性が高いと思われる。
 女王制は仮に独身女王であっても血統が続かないということはない。初代女王の兄弟の子である女子を二代目女王とし、二代目女王の兄弟の子である女子を三代目女王とするというふうに継承されれば血統は続いている。女子が生れなかった場合は、傍系の女子が王位に就くことになるのは男子の場合と同じである。
 このような血族関係だとすると、男王と壱與は親子の可能性がある。親子が殺し合いを主導したのではなく、王族、臣下などがそれぞれの派をつくり誅殺し合ったのだろう。張政は壱與に「檄告諭」したうえで倭国の王に立てさせた。
 こうして倭国は女王体制に戻るが、邪馬台国の勢力が二分し低下した。壱與は王権を行使するほどの年齢ではなく、補佐が必要である。邪馬台国王と倭国王が別々になったとすれば、邪馬台国の男王が補佐についただろう。
 結局、卑弥呼の死後の出来事は邪馬台国王家の力の低下をさらけ出すこととなった。倭国を維持するには魏の権威に頼るしかなかっただろう。