ヤマト王権の始まりの国 4-1

第三章 倭国   
一 大乱前の倭国はどのようにして成立したか
⑴ 倭国の成立とその意味
 倭は倭人が住む地域の名であり、倭国は倭の地域の一つにまとまった国の名である。そのまとまり方は連合形態から統一国家までいろいろあり一定ではない。
後漢書の倭国王帥升等の朝貢や倭国大乱の記述に現れる倭国はどういう国だったか。桓霊の間に倭国大乱があったこと、その前に男王の時代が七、八十年続いたこと、百七年に倭国王が生口を献上したことなどの後漢書の記述から、一世紀終わり頃から二世紀初め頃までには成立していたと推定される。
 ヤマト王権の国号も倭国というが、この倭国はヤマト王権成立前のものである。単一の統一国家としての倭国ではなく、邪馬台国王が他国を監視し、介入する統治形態だったと思われる。倭国大乱の間倭国王がおらず、卑弥呼を女王に共立したというのであるから、女王に属する国は倭王に服属する国とほぼ同じ意味だと考えられる。
 そのような倭の国々を支配する王が「倭国王帥升」である。後漢書に「倭国王帥升等」とあり、他の文献に「倭面上国王」、「倭面土国王」、「倭面国」、「倭国面土地王」などの記述がある。倭人が顔に入墨をしていたことから面土国、面上国と呼んだという文献もある。これらから、帥升を朝貢した倭の国の王の一人だとする説がある。男子は顔面に入墨をしていたとされているが、倭の中の一国の男子ではなく倭の男子についてであり、入墨を特定の一国に関連づけたのは誤解だろう。
 いずれの説も「帥升」を人名と考えているようであるが、後漢書は人名ではなく地位名として書いたものと思う。帥升が人名なら倭国帥升王とか倭国面土国帥升王などと書くだろう。
 「升」は昇の意味で、長のことだと考えられる。国の長は王である。
 類似のものに「大加戴升等」という記述がある(『後漢書東夷列伝第七十五』高句麗条)。「句麗蠶(蚕)支落大加戴升等萬餘口詣楽浪内属」である。『三国史記』には「冬十月蠶友落部大家戴升等一萬餘家詣楽浪投漢」とある。
 この戴升も大加(大家)の長を指す呼称であると考えられる。大家は多くの戸がある邑又は小国のことである。高句麗の蚕支が陥落し、邑の長(又は小国主)ら一万余戸の者が楽浪にやってきて投降したという意味に解釈することができる。邑の首長の人名を記録に残すことはないだろう。
 「帥」という字は高句麗、東沃沮、三韓にも登場し、最高位の者という意味がある。
 よって、倭国王帥升は倭の国の王の中で最高位に昇った王つまり大王ということになる。
 帥升が倭面上国王、倭面土国王、倭国面土地王などとされていたのは、帥升が倭の中の一国の王という意味ではなく、倭国を代表する邪馬台国の王であることを示すためではないかと思われる。范曄は「倭国王」という表記で十分だと考えたのではないかと思う。
 中国の史料は、倭国は邪馬台国が多くの国々を統合支配する国家形態になっていたことを示すものと言える。倭国を代表し、一大率を置くなどして倭の国々を監視、統率する大王がいたのである。ゆえに、倭国大乱の間、(倭国)王がいなかったという記述にもなる。
 なお、「等」はともどもという意味であり、倭の国々の王を代表する王として献上したことを受けて、諸国の王もともども献上に加わっているとして等を付したものだと考えればよいと思う。
 倭面上国などが倭国王と同じ意味なら、この国は王の都があった邪馬台国を指すと考えるのが妥当である。倭という地域の上に立つ国、倭の顔となる国という意味で、倭を代表する国を指す言葉だと考えられる。つまり、邪馬台国王が倭の諸国を支配し、倭を代表するという国家形態を示すものである。
 「一大率」を置いて諸国を監視するという記述も支配の用語である。おそらく、監視して正すためには内政に介入するようになっただろう。統治に関与することになる。そういう内情ではなく、中国から見て倭の国々を代表しているという見方での表現である。
 ヤマト王家が倭国を支配するようになったのはずっと後のことである。後漢書や魏志倭人伝にはヤマトの倭国は登場しない。ヤマトが倭面土に音訳されたという趣旨の説があるが、百七年にヤマト王権の倭国が成立していたというのは考えられず、邪馬台国はヤマト国と読むべきものではない。


⑵ 倭奴国と倭国
 倭国の国家形態、統治体制は邪馬台国が初めて造ったのだろうか。
 倭奴国の王が金印を授かったことの意義を考えると、倭奴国王が倭を代表する唯一かつ最初の王として認められたものと考えるべきだろう。倭国の極南界というのは九州のことで、この倭国は倭の国々の総称だと考えられる。倭には百余国があり三十国が朝貢していたとされるが、倭奴国だけが他の国とは扱いが違う。これは国の間で支配被支配の関係ができていたからではないかと思う。女王卑弥呼も親魏倭王の称号とともに金印を授かっている。
 倭奴国は、倭の国々を従えて最初に倭の国と呼ぶに相応しい規模の国(記紀では葦原中国)を造ったことへの名だと考えられる。倭を支配する王の国という意味である。最上位の中央権力を持つのが倭奴国王で、倭の国々を従えて国主(王)になったことを漢に報告し、「漢倭奴国王」の称号とその印として金印を授かったと考えられる。この国も渡来人とその子孫が関わって造った可能性がある。
 しかし、倭の統治体制は安定したものではなく、倭奴国と戦って倭の統治権を奪おうとした勢力がいた。それが邪馬台国勢力である。かつての朝鮮半島での戦いが倭で再燃したかのような感じであるが、血統と氏族の対立が続いていて降伏を拒否し徹底的に戦うという状況ではなかっただろうから、王の上に立つ王を討てば、傘下の国の王を従えることができる。それを神話化したのが「国譲り」であろう。
 戦いの舞台は倭の中央政権の国があった北部九州である。神を祀った場所ではない。出雲は大国主神を祀った場所であっても統治の拠点ではない。神々の物語では国譲りの談判に行った先は大国主神が祀られている宮のある出雲であるが、地上の戦いは中央政権の王がいる場所、即ち倭奴国である。事代主神は倭奴国の王に降臨した神として国譲りに同意したとされたのだろう。
 記紀の物語はフィクションだと思われているが、青銅器や漢鏡の流通や墳墓様式などの広域性や類似性を考えれば、西日本に広域的な国ができていて、九州の倭奴国がそれらの国を服属させていたと考えてもおかしくはない。当時の支配は、一国が他の国々を従えるという形態だっただろうから、中央政権の国の王を倒せば、その権力システムを引き継ぐことができる。ただし、一部抵抗はあるだろうから戦いは続く。その戦いを経て倭国の中央政権は強化されていったと考えられる。


二 倭国の勢力範囲
 国の勢力範囲は変化する。倭国成立以後、それを支配する王は倭全体に勢力を広げて諸国を従わせようとする。その王とは邪馬台国の王のことである。
 古事記によれば、オホアナムチノカミ(大国主神)の勢力範囲は中国地方、近畿、北陸、九州に及んでいたことが分かる。タケミナカタノカミの降伏場所が諏訪となっているが、これを記した趣旨は、倭奴国の勢力がその範囲に及んだことを仄めかすものかもしれない。
 邪馬台国の王は倭奴国王に服属していた国を従わせるために、九州、中国・四国地方、近畿、北陸などに進攻していったと想像される。畿内も例外ではない。それがニギハヤヒノミコトについてのエピソードとして書かれているのではないかと思う。
 ただし、倭国は畿内に進攻して領地を得たが完全征討には至らなかったと考えられる。
 その理由は倭国大乱である。倭国の大王(邪馬台国王)が死んで次の王が決まらず、王位継承争いが長引けば命令系統が止まってしまう。征討軍の指揮官も世代交代となるが、任命者がいない。これにより畿内征討が止まってしまったのではないかと思われる。東方征討の続きは、東征の物語として記録されたのだろう。
 魏志倭人伝に女王に属する国の名が出てくるが、それぞれがどこにあって日本でのどの国に相当するかは明らかではない。しかし、後漢書の拘奴国から推定すると、九州から畿内の一部までが勢力範囲だったのではないかと思われる。その後、畿内を平定し、さらに東方、北方へと勢力を拡大していったと考えられる。その畿内拠点造りが記紀の東征物語になっているのではないかと思う。
  
三 倭国大乱とは


⑴ 時期と原因
 魏志倭人伝の「其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年」という記述から、倭国が成立し、男王の時代が七、八十年続き、その後倭国が乱れたという経過である。後漢書には「桓霊間倭国大乱更相攻伐歴年無主」とあるから、桓帝の時代に起こり、霊帝の時代に終わったと読める。
 倭国大乱の原因や規模については諸説ある。王位継承をめぐる王家内部の争いと考えるものから、日本全体で勢力争いをして戦国時代のようになったと考えるものまで、原因も規模も当事者も異なる。
 「七八十年倭国乱、相攻伐歴年」と読めば、七、八十年倭国は乱れ、何年も攻伐しあったということになる。しかし、後漢書の「歴年無主」を合わせると、その間倭国王がいなかったことになる。それほど王不在が続くとは考えられない。また、邪馬台国の王を他国が加わって共立することは考えられず、女王共立と内戦終了は論理的につながらない。内戦状態になっても、倭国の王位の継承がなされれば「歴年無主」の状態にはならない。
 魏志倭人伝は「男子為王住七八十年」と「倭国乱相攻伐歴年」に分けて読むのが妥当である。男王の時代が七、八十年あり、倭国が乱れて攻伐しあったのが何年も続いたという意味に読むのである。
 よって、「歴年無主」は王位継承争いによる王位空白期間が長く続いたことを指すと考えるべきである。邪馬台国王が倭国の王であったと考えられるから、邪馬台国王が決まらないために倭国王がいないかったことになる。
 世襲制であれば兄弟間の争いである。邪馬台国の中で王位を争った者がいずれも王位につかずに先王の長女を女王に立てることに合意したのが共立の意味である。王位継承争いには、その支援者、支援国も含まれていただろうが、倭国王が決まって乱は治まっていく。
 時期は桓帝と霊帝の時代にまたがった期間で、王がおらず倭国の統治が疎かになり、切羽詰まって女王を立てたとすれば、空位期間は長くても十年と続くことはないだろう。
 このように考えると、王位継承は大乱前の男王の時代に少なくとも一回はあったと考えられる。倭国大乱は第三代目の王位継承のときということになるかもしれない。


⑵ 倭国大乱と記紀
 記紀には倭国大乱を仄めかすような物語はない。女王の神らしきものも登場しない。後漢書や魏志倭人伝の記述が虚偽なのではなく、不都合な事件を隠す意図があったと考えるべきだろう。
 ホヲリノミコトの子はウガヤフキアエズノミコトだけが書かれているが、ウガヤフキアエズノミコトの事蹟は何も書かれていない。倭の国造りに関わっていなかったことになる。ホヲリノミコトの物語と比べるとおかしい。ウガヤフキアエズノミコトが王位に就けなかったために書くべき事蹟がなかったと推理するのが妥当ではないかと思う。
 これは、倭国大乱で女王卑弥呼が共立され、男子が王位を継承しなかったことと関係があるのではないかと思う。その男子の一人がウガヤフキアエズノミコトである。
 この推理から次のような物語の展開が考えられる。
① イハレヒコノミコトは邪馬台国と倭国の王位の継承者ではない。
② イハレヒコノミコトは東征によって畿内に造った邪馬台国の子国の初代王となった。
③ その何代目かの王が女王卑弥呼と不和で武力で攻撃し合うまでになった。
④ 女王卑弥呼が死に、男王が就いたが、国中誅殺し合って乱れ、壱與を女王に立てた。
⑤ 魏が滅んだ後、子国の王が邪馬台国王に倭国の統治権を移譲させ倭国王となった。
⑥ 邪馬台国王家を廃絶し、抵抗する勢力を滅ぼした。
⑦ ヤマト王が倭国の正統な王権の継承者であるとする歴史物語が作られた。
⑧ イハレヒコノミコトを倭国の初代天皇に格上げして諡を献上し、その即位の年を「辛酉」とした。
 これらのうち記紀の物語にあるのは、②と⑧のうちイハレヒコノミコトが東征によって畿内で王に即位し、その年を「辛酉」としたことである。東征の内容は詳しく書かれている。邪馬台国や女王卑弥呼関連のことがないことが分かる。