ヤマト王権の始まりの国 4-2

五 女王共立
⑴ なぜ女王共立という解決をしたのか
 倭国大乱を収めるためである。
 その発端が王位継承争いで、それぞれに支援する王族、豪族らがいて争いが長引いて王がいない状態が続き、倭国の混乱が極まったときの窮余の解決策であったと思われる。
 通常は先王の指名がなく兄と弟が王位を争う場合である。年齢的には兄が先順位になるが、別の理由で弟が王位継承を主張して争いになる。年長者優先か正妻の子優先かという対立が原因ではないかと想像される。
 当事者のどちらかが王位を継ぐとなれば争いは止められないとして、中立の立場の王家の長女を女王にして双方が引き下がるという解決をしたのだろう。
 しかし、女王卑弥呼は「鬼道」を行い、一人の男を除いて人に会わないというのであるから、国を治め、軍を指揮する知識や能力があったか疑問である。伺いを立てて神の声を聴くとか占いをするという見せ方はできただろうが、統治能力があったとは思われない。結局、補佐したという弟が実権を握ったと思われる。女王卑弥呼とその弟が仕組んだ共立だったのかもしれない。
 結果として、王位は女子にも認められたことになるが、女王共立は乱れた倭国を立て直すための一時的なその代限りのものにはならなかったと思われる。女王制に制度化されたとは考えられないが、王が王位継承者である世継ぎを指名することはできただろう。女王も同じくそれができるとされた可能性がある。
 女王が指名した者が男女を問わず第一順位で王位を継承するとされ、女王が男王を嫌がれば事実上女系になる。卑弥呼が人名でなく地位の名であれば、女王卑弥呼は一名だと考える必要はない。親魏倭王の称号を得た卑弥呼は共立された女王卑弥呼と同一人物ではなく女王位継承があったと考えられる。
 これに対して一族の長を男系としてきた伝統に反するとして女王制を終わらせようとする王族がいたとしてもおかしくはない。卑弥呼と卑弥弓呼の不和と相攻撃はそのような事件だった可能性がある。


⑵ 「卑弥呼」とは
① 卑弥呼は邪馬台国の王位名である
 卑弥呼は、一般には人名だと解釈されているが、ヒミコは「日之皇子」と同様、倭国王の地位の名だと考えるのが妥当である。
 もっとも、後漢書や魏志倭人伝では人名のように読める。後漢書には「有一女子名曰卑彌呼・・・於是共立為王」とあり、魏志倭人伝では「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」とある。
 魏志倭人伝は、ヒミコが一女子の名なのか王の別名なのか分かりにくい。ヒミコ、ヒノミコ、ヒミココなどの呼び名からしても、邪馬台国ではヒミコは王の別名だったと思われる。
よって、魏志倭人伝の文は、王の別名であることを示すために「一女子」と「名曰」の間に「為王」を入れた文に変えたのかもしれない。後漢書は、ヒミコを王の別名だと思わず女王の人名だと考えたのだろう。
 ヒミコは鬼道を行うというのは、神職を務めていた王家の女子を女王にしたことを聞いて記したものと思われる。ヒミコ、ヒノミコは性別に関係ない呼称である。天皇は邪馬台国の王族の家系であり、ヒノミコという呼称を受け継いだが、日御子や日之皇子という字を用いたものと思われる。
 これに対して、ヒミコは一般名詞のヒメミコのことだと考える説がある。しかし、ヒメミコと告げられたら「卑彌呼」とは書かなかっただろう。「狗奴国」の卑弥弓呼は男王であり、ヒメミココとは読まない。
 ヒミコが地位の名であると考えれば、倭国大乱後に女王に共立された卑弥呼と卑弥弓呼と相攻撃した後に死んだ卑弥呼は同一人物だと考える必要はない。
 女王が共立されたのが百七、八十年代で年已長大であった。仮に三十歳でも二百三十九年頃は九十から百歳くらいになる。卑弥弓呼と攻撃し合ったのはさらに十年後頃になる。卑弥弓呼と相攻撃したときの卑弥呼は両者の間には王位としては二世代くらいの差がある。初代の女王卑弥呼は死んで、卑弥呼の地位は継承されていたと考えられる。地位であるから名に変わりはない。中国の記録には、どちらも卑弥呼と記されることになる。
 「卑彌呼」の字は女王共立後にヒミコという呼び名が中国側に伝わって、その字が考えられたのと思われる。東夷の王であるから「卑」、遠国にいるから「彌」、拘の字を避けて「呼」という組み合わせにしたのだろう。
 この字は邪馬台国の側で木簡などに「卑彌呼」と記していた可能性もある。邪馬台国には通訳がいて漢字を読み、書くことができたはずである。ただし、東夷が漢の字を使うことを許されていることが前提である。


② 壱與は第一順位の世継ぎのこと
 女王卑弥呼の次の王はだれがなるのかは重大な問題である。女王に共立されたとき、卑弥呼は年増で独身だった。そのまま死んだなら王位継承者はどうなるか。
 子がいないから弟か弟の子になるだろうが、弟の長女が祭祀主宰者を引き継ぐことになっていて、王位も継承させたのではないかと思われる。女王卑弥呼は第一順位の世継ぎという意味のイチノヨツギ、イチノヨを指名していて、それが中国では宗女と呼ばれたのではないか。倭には第壱とか壱番目という順位を表現する言葉がない。万葉集では、二を「に」と読ませている歌があり、イチも早くから外来語として定着していた可能性がある。
 卑弥弓呼と攻撃し合った女王卑弥呼が死んで、男王が就任することとなったが、国中が誅殺し合ったので、十三歳の壱與(壹與)を女王に立てた。
 王位継承者を排除して男王が王位を継承するとなれば、当然反対する者が現れる。女王は先祖が合意して王に立てたもので、王位継承は王の指名に従うべきだとか、親魏倭王の称号を得た正統の王だという主張がされただろう。男王の側は、女王共立は一時のもので、壱與を後継者に指名した卑弥呼には元々王位継承資格がなかったとか、魏を欺いて倭王の称号を得たとか、魏が男王の就任を承認したなどと反論したかもしれない。こういう争いはエスカレートする。


 壱與がヒミコになったという記述はない。壱與と卑弥呼が並んで記載されていることから卑弥呼も壱與も人名だという主張は当然ある。しかし、壱與は宗女の倭名で、宗女は壱與の中国側解釈として記載されたものと考えられる。ともに地位名である。
 従って、本来なら倭国の王になったとき、ヒミコと呼ばれるはずである。
 しかし、女王に就任することとなったものの、日の神の正統の子孫を意味するヒミコの称号はない。邪馬台国は男王がそのまま王位にとどまり、壱與は倭国の象徴的な王にとどまった可能性がある。年齢的にも経験的にも、王として自ら適切に行動するのは無理だっただろう。それが、男王派が壱與を倭の女王として認める条件だったかもしれない。
張政はこの事情を知っていたと思われる。ゆえに、魏は王に立てたとしながら女王ヒミコという称号を付けず、人名であるかのようにしたのだろう。


⑶ 女王の権力はどういうものだったか
 魏志倭人伝には、国々が市を開いて交易をしていることや、一大率を置いて諸国を監視していることや、外交のことが書かれている。これらは倭国大乱の前に書かれており、男王の倭国の時代からそうだったのではないかと思われる。
 女王に共立されたときの卑弥呼は王としての教育も訓練も受けていない。女王は宗教儀式を行い、宮殿にこもって人に会わず、ただ一人の男子だけが給仕し指示を受けるために出入りをしていた。「弟」が卑弥呼の補佐ということで統治の実権を握り、倭国の軍事中心の統治形態は大乱前と変わっていなかったと思われる。卑弥呼を共立した第一の目的は邪馬台国の王位に就かせて乱を収拾するためである。名目が重要だったのである。
 魏に朝貢して親魏倭王の称号をもらい、卑弥弓呼と相攻撃したときの卑弥呼は、王宮に閉じこもり鬼道を行うような女王ではない。年齢的にも共立されたときの卑弥呼と同一人物ではない。この女王は権力を積極的に行使している。
しかし、軍の指揮という点では武人に任せていた可能性があり、権力の要の部分を掌握できていなかったかもしれない。
 この女王は、卑弥弓呼と攻撃し合い、魏の張政が介入した後に死んでいる。自死だとすれば、権力への執着と自尊心が強い性格のようにも見える。
 壱與は倭の王に立てられたが、自ら権力を行使することのない「名ばかり女王」だったと思われる。実権は邪馬台国王ヒノミコが握っていただろう。