ヤマト王権の始まりの国 9-4

⑺ 第七代孝霊天皇
 孝安天皇の第二子で、倭風諡はオホヤマトネコヒコフトニ(古事記では「大倭根子日子賦斗邇」、日本書紀では「大日本根子彦太瓊」)ノミコトという。
 オホヤマトの意味やこの名が贈られた時期は第四代天皇と同じ推理になる。
 根子は何か。美称だという説があるが根拠は不明である。根を張った樹木というような解釈する向きもあるが、「根」はルーツとするという意味で、「子」は子孫という意味ではないかと思う。
 この想像から、「根子」にはヤマト王家の正統性に関わる主張が潜んでいるのではないかと思われてくる。オホヤマトのネのコのヒコは、偉大なヤマトの先祖(始祖)からの子孫である男子、つまり、正統な継承者という意味である。
 フトニの意味は不明であるが、日本書紀の「太瓊」は大きな玉、偉大な輝かしいものという意味を想像させる。そのような諡が贈られたのは、畿内のヤマト王家が倭国を統治すべきだと主張したからかもしれない。
 宮は「黒田廬戸宮」で、田原本町黒田にあったとされる。それまでと場所に変化がある。廬は小屋ではなく軍営地のことである。戸は門のことだろうか。磯城一帯の防衛のためにそこに陣地を築き、その中に宮を造ったのかもしれない。そうだとすると、女王や魏との緊張関係が残っていて、畿内王家は軍事的勢力拡大を進めていた時代の王だった可能性がある。
 兄に大吉備諸進命がおり、子に大吉備津日子命(日本書紀では吉備津彦命)と若日子建吉備津日子命(日本書紀では稚武彦命)がいる。いずれも官名だと考えられるが、これらは畿内の王家にとって吉備が重要な地で勢力下に置こうとしたことがうかがえる。孝霊天皇の時代に「卑弥呼と卑弥弓呼の相攻撃」があったとすれば、吉備国が卑弥呼側について畿内で反乱を起こすことがないように吉備を従え、かつ、卑弥呼を攻めるために軍を進めたかもしれない。
 孝霊天皇の妃「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(古事記)・倭國香媛(日本書紀)」、子「夜麻登登母母曾毘賣命(古事記)・倭迹々日百襲姫命(日本書紀)」、「倭飛羽矢若屋比賣(古事記)・倭迹々稚屋姫命(日本書紀)」の名も、孝霊天皇の諡と関係があるように思われる。


⑻ 第八代孝元天皇
 孝霊天皇の第一子で、倭風諡はオホヤマトネコヒコクニクル(古事記では「大倭根子日子國玖琉」、日本書紀では「大日本根子彦國牽」)ノミコトである。
 クニクルは出雲の国引き神話の「国来」のように、手繰り寄せる、巻き取るという意味かもしれない。ヤマトの始祖からの正統の子孫が、国を来させたとか国を引っ張ってきたという意味になる。「牽」という字はまさにそうであろう。魏が滅んだ後、倭国女王壱與に対して倭国の統治権を移すよう求めたのではないかという推理と重なってくる。
 古事記によれば、考元天皇のときに大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は播磨のヒ川の先にイワイベ(忌部又は斎部)をおいて播磨を道の入り口とし、吉備国を言向和したとしている。本来、吉備は同盟勢力であり、東征には吉備兵も参加し、畿内には吉備勢力もいる。
 吉備平定の理由は何か。卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合った際に、吉備国が卑弥呼側について畿内でも反乱を起こされるおそれがあるからそれを抑えるためという推理と、女王卑弥呼が死んで男王が立ち国中誅殺し合ったときのことだという推理と、壱與が女王に就いて吉備で女王派が反乱を起こしたという推理が考えられる。壱與の時代に入ってのことではないかと思う。どちらにしてもこの頃は邪馬台国の子国を脱して狗奴国という呼称も消滅したと思われる。
 宮の「軽之堺原宮」(古事記)、「境原宮」(日本書紀)は同じである。牟佐坐神社の東側川向いにあったとされている。
 在位期間は短かったようであるが、先王の在位が長かったとすればおかしくはない。剣池の中岡に葬ったというのは新しい方式である。自分の墳墓として指定したとすれば、その地に周濠式の溜め池を造らせ、橿原一帯の水田を広げただけでなく、死後守護するという気持ちがあったのかもしれない。
 ところで、第五代から第八代まで「孝」の字が漢風諡に用いられている。これは何を意味するのだろうか。孝は親に子が仕えることを示す字である。子国の時代の王だったことを示す字かもしれない。しかし、それは和風諡の「大倭」、「大日本」とそぐわない。親は祖のことであり、邪馬台国の祖神に忠実であったことを讃える意味が込められたのではないかと思われる。当時の倭国は女王統治で、邪馬台国は東方・北方を平定して倭を統一することに消極的で、それが祖神の思想に反しているという主張をしたことを讃えて諡にしたのではないかと想像される。


⑼ 第九代開化天皇
 孝元天皇の第三子である。倭風諡はワカヤマトネコヒコオホヒヒ(古事記では「若倭根子日子大毘毘」、日本書紀では「稚日本根子彦大日々」)ノミコトである。
 ワカを新しいという意味にとらえれば、ワカヤマトのネのコは新生ヤマトの始祖からの正統の子孫という意味になりうる。「開化」という漢風諡は新生ヤマトを想像させるが、これから発展する、成熟するということだろう。
 オホヒヒノミコトは日を重ねているが、偉大な日の神の日之御子という意味ではないかと思う。女王壱與に対し王権の継承を認めさせたことで、偉大な日の神の王権を畿内のヤマトに統一させることに成功した功績を示すものという想像もできる。
 倭国の統治権の移譲は、次王のときにされたと思われる。
 宮は「春日伊邪河宮(古事記)・春日率川宮(日本書紀)」である。字は違うが同じ宮だろう。春日は地名である。
 「率川」はイサガワと読まれて地名になっている。その読み方が通常ではないのは磐余と同じで、功績を字にして呼び方は従来どおりにしたというものかもしれない。場所は、川を率いるという字の感じから治水事業が行ったところだと推理するのが妥当かもしれない。
 奈良平野北部は既にヤマト王家が支配していたと考えられる。いつ頃から支配していたかは明らかではないが、山城、大津、彦根方面から東方・北方へと勢力を広げるうえで畿内の拠点になる。とくに彦根の鉄器製造所の支配、運営は経済、軍事両面にわたって重要だったと思われる。


⑽ 第十代崇神天皇
 倭風諡はミマキイリヒコイニエ(古事記では「御眞木入日子印惠」、日本書紀では「御間城入彦五十瓊」)ノミコトである。第五代天皇は「御眞津」の名があり、キとツの違いはあるが「御眞」は同じ意味だと思われる。津は都と同義で、城は城柵で囲まれた宮殿を指すのではないかと思う。
 これについて任那のミマと同じだとする説があるが、字からすれば、ミマキは神の真の城、又は神の間のある城と読むこともでき、神殿を想像させる。始祖からの正統性の意味も含まれている。ミマキイリというのは、大王となって神を祀る宮殿に入ったという意味だろうか。「崇神」という漢風諡もこれと関係があると思われる。
 イニエノミコトの意味はよく分からないが重要な意味があるはずである。日本書紀のほうは読み方より字に意味がある。瓊は玉(ギョク)であり、五十の国を治める大王を示すものではないだろうか。五十というのは実数ではなく、倭の小国の数を表現したもので、倭国の王という意味ではなかろうか。
 崇神天皇は、古事記では「所知初國之御眞木天皇」とも呼ばれ、日本書紀では「御肇国天皇」とも呼ばれている。初や肇は国を形容しており、どちらも始まりという意味である。御肇国は神が興した国とも読める。畿内王家が倭国の王権を継承したときの天皇が崇神天皇であったので、初国の天皇とか御肇国天皇と呼ばれたのではないかと想像される。国は畿内のヤマトノクニではなく倭国である。
 ところが、古事記には「爾天下太平人民富榮於是初令貢男弓端之調女手末之調故稱其御世謂所知初國之御眞木天皇也」とあり、日本書紀にはさまざまな功績が書かれたうえで「天下大平矣故稱謂御肇國天皇也」とある。初國や御肇国の諡の由来が天下を豊かにし太平にした功績に対するもののように読める。しかし、天下を太平にし、産業を発展させ、人々を豊かにさせたという功績は崇神天皇だけではない。
 国家体制を初めて整えたという意味だとする見解があるが、神武天皇が倭国を造ったという前提であろう。日本書紀には、神武天皇を「始馭天下之天皇」としているから、天下を倭国のことだと考えるのかもしれない。しかし、この諡には国の字は出てこない。古事記にはこのような別名はない。
 始馭天下之天皇は、後世において神武天皇を初代天皇とした際に、倭国を支配したヤマトの始祖という意味で言われた名だと思われる。諡の候補だったかもしれない。ところが、神武天皇を倭国の初代大王としたため、崇神天皇は第十代となり、「所知初國之御眞木天皇」、「御肇国天皇」の意味づけを変えて記録に残したのではないかと思われる。
 「師木水垣宮」(古事記)、「磯城瑞籬宮」(日本書紀)は同じものである。宮の場所は磯城であるが、磯城は極めて広く、特定は困難である。「水垣」は環濠や周濠のことかもしれない。天理市渋谷にあったとされている。