ヤマト王権の始まりの国 9-5

四 系譜が意味するもの
 天皇の系譜を偽って記録することは、天皇家に対する不敬であり大罪である。天皇の系譜に架空の天皇を書き込むことは許されることではなかったと思う。ただし、天皇王権の正統性を示すために系譜を正しく記録するという説明で美化したものは認められただろう。古事記と日本書紀とで記述が違う部分が多々あるが、古事記は不要な部分、不十分な箇所があると思われたのかもしれない。
 王権の系譜には神に由来するものが多い。神が存在するかどうかは何を「神」と言うかにかかっている。人の姿で現れて行動する神というのは架空のものである。神話はそういうふうに見えるためフィクションという扱いを受ける。
 しかし、アニミズムのように「神」は物象を生じさせ動かす見えない特別の力のことだと考えればどうだろうか。自然環境、物、動植物などが引き起こす災害などの様々な現象を見て、その力をカミと呼んだのが始まりなら、カミという力は存在する。それが人の尋常ではない力にも当てはめられれば、人の中にもカミがいると考えられるようになるだろう。このカミと言う言葉は非常に便利である。分からないことはカミの仕業にすればよい。貴い力も善い力も悪い力も災いをもたらす力も幸をもたらす力も特別なものは全てカミである。
 他方、生命の力はタマ(魂)と言われ、全ての生き物に宿り死によって体から抜け出るという信仰がある。タマには霊という字も当てられる。これは特別の力ではない。祖霊を神と呼ぶのに相応しいのは、生前に特別の力を持っていた先祖の霊に対してである。祖霊崇拝は、単に先祖の霊を崇拝するのではなく、先祖が持っていた特別の力を神霊として崇拝することである。従って、この崇拝は先祖から特別の地位、名声、財産などを引き継いだことの感謝と守護の願いと子孫への継承の誓約が一体となる。
 統治者である王には国を造り治める力が宿る。その力は神であり、万人に備わるものではなく、王になるべき者のみに継承され、神の名が与えられる。魂や霊は継承されることはない。
 現代では物象を生じさせ動かす見えない力は科学的に解明されてきており、天皇に神が宿るという発想は一つの信仰として扱われているが、当時は、神が王に宿ることで王は神になるという思想は最も重要なことであった。代々の王は系譜によって示され、世襲が当然のこととなる。
 王の系譜は国を治める神(力)の継承である。神(力)の継承が王権の正統性なのである。神が引き継がれなければ王権を名乗っても正統性はない。逆に神の力を引き継いだと認められた王には正統性がある。この論法は天帝に認められたとして革命やクーデタを正当化する口実にもなる。
 従って、正統の王位継承には神の系譜がつながっていることが必要である。神の系譜を遡れば倭の国造りの神の誕生にたどり着く。その神は国を造ろうとした始祖の力でもある。一族の先祖から継承した王位であれば一族の神の系譜となる。しかし、他の部族などが造った国を奪ったときは、奪ったときからの国造り物語にするか、それとも最初の国造りから始めてその王位を得たことを神によって正統性を示す物語にするか選択できる。先祖の事績について伝承があることが多いが、他の勢力の伝承は聞き取りができなければ曖昧になる。古い物語ほど創作性は強くなる。
 記紀は後者の形式の物語であり、正統性の根拠となる神を天と天の神とした。国を歴史的にも一体化させるにはこの方法のほうがよい。これが記紀の構成に反映され、神代の物語と天皇家の始祖の建国物語に分かれているが、冒頭に天と天の神が登場し、倭の国造りの最初から天皇家の始祖の建国までを指揮したとして二つをつなげ、日本開闢に遡らせて正統性があるとする王権を描いたのである。日本開闢に遡るのは王権の成立ではなく正統性である。

ヤマト王権の始まりの国 1-3

狗奴国=邪馬台国子国=ヤマト仮説


 そういう疑問から導き出したのが、次の仮説である。
① 狗奴国は、九州に成立した邪馬台国が三世紀前後頃に東方平定のために畿内に領地を得て造った子国である。
② 狗奴国王卑弥弓呼は、ヒミコ(卑弥呼)の子分に相当する地位名である。
③ 卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合ったのは王族内の争いであり、卑弥呼の死後、邪馬台国は勢力が衰えた。畿内の子国は勢力を強め、王家はヤマトを称した。
④ 卑弥弓呼は邪馬台国の王から倭国の王権を譲り受けた。これにより、ヒノミコとかオホキミ(大王)と呼ばれた。倭はヤマトと呼ばれるようになった。
⑤ 後に天皇という称号となり、子国時代の王にも遡って諡が贈られた。


 子国というのは、本国(親国)の畿内領地を王が直接統治せず、王族にその地に永住させて先祖を祀らせ統治をさせた国という意味である。それを国と呼ぶのはおかしいという意見はあるかもしれないが、国とは何かという考え方の問題でもある。
 クニは君、郡に由来し、境界で画された一定地域を指す言葉として使われたと考えられる。ムラは境界によって画する概念ではないが、境界で画する地域になればクニ(君、郡)と呼ばれることにもなる。クニは領地の大小に関係なく成立する。
 境界は支配領域を明確にするためである。そこには支配する者がいて、支配を維持するための武力などの手段も持っている。その支配者がクニヌシであり、統治をするのが王である。オホクニヌシは国々の王を支配するが、個々の国を統治する王ではない。
 このように考えると、クニの本質は支配者の登場にある。主は支配者のことだとすれば、クニヌシは継続的に一定地域(領地)とその地域にいる人々(領民)を支配する者だと言える。支配は、武力などの強制力によって従わせることである。そのための組織も必要になる。しかし、支配するだけでは被支配者らは離反する。彼らを民とし、その利益になるよう治めることが必要になる。それによって支配者は統治者たる王になれる。
 武力で王を降伏させた場合、その王を国から排除する場合と、引き続きその国を統治させる場合がある。併合か服属関係かという違いもある。占領地域を占領軍の国に併合させた場合は占領軍の王が支配し、官を用いて統治するのが一般的だろうが、別の王族に宮を造らせ統治を任せることも考えられる。この場合、その領地と領民を治める王がおり、外形上は独立した国の王と同じである。ただし、親国の領地を治める子国の王という立場になる。親国の王がヒミコ(卑弥呼)と呼ばれれば子国の王はヒミコのコ(卑弥弓呼)と呼ばれ、先祖を祀るミヤ(宮)がミヤのコとして造られるのもおかしくはない。
 以上に加えて、卑弥呼と卑弥弓呼の不和・相攻撃とその後の経過を想像し、邪馬台国の倭国からヤマトの倭国への連続性という推理から遡って、狗奴国は畿内に成立した邪馬台国子国ではないかという仮説を考えたのである。後漢書も魏志倭人伝も狗奴国(拘奴国)を特別視しているのは、倭の権力に重要な位置を占めていたからではないかと思われる。
 ところが、「不属女王」、「狗奴」、「素不和」、「相攻撃」などの文言から、狗奴国王は女王卑弥呼と敵対関係にあって戦った相手だったから王の名が知られていたと考えられているようである。しかし、後漢書には「雖皆倭種而不属女王」とあるだけで敵対関係としているわけではない。不和と相攻撃の時代でもない。拘奴国の名と位置が具体的に記されていることのほうが不思議である。魏志倭人伝と併せて読むと、拘奴国を侏儒国らと同列の扱いをする読み方は妥当でない。
 ということで、この仮説を掘り下げて検討してみようと思う。既に結論の一部は書いてしまったが、例えば次のような論点がある。
① 狗奴国(拘奴国)とはどういう国か。倭ではどう呼ばれ、どういう意味だったのか。
② 卑弥弓呼、狗古智卑狗は、倭ではどう呼ばれ、どういう意味だったのか。
③ 狗奴国(拘奴国)は女王国より東へ海を千余里渡ったところにあるというのはどこのことか。その距離をどう考えるか。
④ 狗奴国(拘奴国)はいつ頃どのようにして成立したのか。
⑤ 「雖皆倭種而不属女王」とはどういう意味か。
⑥ 卑弥呼と卑弥弓呼は「素不和」であり、「相攻撃」したのはなぜか。
⑦ 魏志倭人伝や後漢書の記述は虚構なのか。
⑧ 狗奴国(拘奴国)は、その後どうなったのか。


 他方、「記紀」をどう読むかという問題もある。詳しくは『記紀をどう読むか』に譲るが、本稿に直接関係するのは東征物語からである。畿内に子国を造る過程が東征と重なるが、東征物語は子国の建設ではない。しかし、いきなりヤマトの倭国を造ったとは考えられず、最初は地域的な国である。そこから勢力を広げていくというのが歴史の流れであるが、そういう記述は崇神天皇以後の物語にある。
 それならば、神武天皇が即位したというのはどこの国の王のことか。これこそ地域的な国のことで、子国の建設ではないのかという問題意識につながる。
 記紀には、邪馬台国も卑弥呼も壱與も国や人の名としては登場しない。大きな勢力を持った国であったならその国の神が神話に現れてもいいはずである。これらは天皇の権力の歴史から抹殺されたのではないかという疑問がある。邪馬台国の時代は歴史的にはヤマトの倭国になる前の時代であり、東征は天皇の王権への転換の始まりでもある。成立史としては最も重要な部分であるはずで、なぜそれを不完全な東征物語としたのか、天皇が記紀を史書として位置づけて編纂させたのであれば、なぜ神話のような記述にしたのかも考えるべきだろう。
 仮説は証明されなければ想像にとどまる。傍証にとどまる証拠資料を積み重ねても真実に近づくのは難しい。それでも合理的な物語を考えてみる意味はあると思う。

ヤマト王権の始まりの国 3-3-2

六 豪族連合政権説の問題点


⑴ 邪馬台国畿内成立説との関係
 豪族連合政権は邪馬台国畿内成立説とどういう関係になるのかという問題である。豪族連合政権のヤマト王権と畿内にできた邪馬台国のヤマト王権を結びつけようとする試みがあるが、支配・統治の体制を考えると、それは無理であろう。邪馬台国畿内成立説と豪族連合政権説の問題点が出てくるだけである。
 女王卑弥呼は邪馬台国に都を置き、伊都国に一大率を置いて諸国を監視していた。畿内に邪馬台国が成立し、その王が有力豪族と連合してヤマト王権をつくり倭の諸国を監視するということになるのか。その有力豪族とは諸国の王ではなく、邪馬台国王の臣下として諸国の支配に参加するのか。いずれにしても対等の「連合」は存在しない。
 邪馬台国王と有力豪族が連合政権を構成し、邪馬台国王が倭国の王になったというにとどめ、諸国を監視する一大率の存在を無視するのはおかしなことである。魏志倭人伝の記述にあるような一大率は畿内には置かれていないが、倭国というレベルで考えるなら無視してはならない。


⑵ 「連合」の曖昧さ
 王権とは王制の権力であり、王という一人の支配・統治者による統治体制である。連合の意味は異なる勢力がある目的のために対等関係で合同することである。連合は構成員が対等の関係で決定に参加する形態である。組織が大きくなると、構成員の参加を保障するための決定システムが必要となり、あたかも上下関係があるように見える。しかし、二、三世紀頃に、広域権力に民主主義的な決定システムがあったとは思われない。せいぜい王や豪族の合議による。
 連合政権が王と有力豪族の対等の立場での政権なら、王制と相容れない。それぞれに小国を持つ豪族が王に服属し対等関係ではなく支配関係をもった国の連合体であれば、連合政権とは言えない。豪族が決定権を持たず臣下として輔弼するだけならおよそ連合ではない。
その合議体の最終決定権限と執行権限が特定の豪族の家系の者に委ねられ、その地位が世襲されるのであれば連合ではない。
 連合は合意によるものである。畿内に環濠集落など防衛集落がある状況で連合ができていたとは言えないだろう。しかも、国としてまとまることの意味は、武力による強制、領土領民の確定と防衛、国力の強化のための領民の育成を統治者が行うことにある。これを豪族の合意によって決め、執行者を指名していたなら豪族連合政権だと認めてよい。しかし、そういう体制が具体的に説明され証明されたわけではない。
 畿内に散在する複数のムラの豪族が合意のうえで合同して王を立てて、その王にすべてのムラが従うという必要性があったとか、畿内の有力な豪族らが互いに手を結び、連合して政権を造る必要性があったとの具体的な説明も証明もない。
 畿内に王権が成立するほどであれば、河内や淀川水域は海運に必要不可欠であり、早々に支配下に置いていたと考えられる。大陸から建国思想が入ってきていたなら、覇権主義、帝国主義の国造りが進められただろう。王や豪族の間で協定をすることはあっても、豪族連合政権を造るという発想はなかったと思われる。


⑶ 「連合」説の根拠
 豪族連合政権説は、前方後円墳など墳墓形式や埋葬法などが統一されたことをもって広域的に同一文化をもった政権が成立したとする。
 前方後円墳様式を「連合」の根拠にするなら、方形周溝墓という同一の墳墓形式が畿内のみならず東北にまで広がっていたことをどう考えるのだろうか。文化は権力の性格を判断する要素になるが、文化だけをもって権力の成立の根拠とすることはできない。
 方形周溝墓を造って先祖を祀っていた豪族が、連合政権に参加したからといって、方形周溝墓を廃止して新たに前方後円墳様式の墳墓を造る理由にはならない。政権に参加しない非有力豪族も方形周溝墓を止めたのなら別の理由である。方形周溝墓への水路を利用して周濠式の溜め池を掘り、その中岡を墳墓にして改葬したか、強制的に廃止させられたか、新しい文化をとり入れる気風があったかのどれかであろう。
 方形周溝墓に代わる墳墓形式の統一は一斉に行われたのではない。一世紀くらい併存した時代があるのは「連合」が広がったからではなく、新たな葬送形式や文化をもたらした勢力が台頭して方形周溝墓を造る文化を持っていた人々が新しい文化をとり入れ、徐々に変わっていったからだと考えるのが妥当ではないかと思う。
 なお、王宮が畿内の各地に移ったことをもって、畿内で豪族連合政権が成立したという主張がある。しかし、これは根拠にはならない。宮は王の祖霊を祀るところであり、祀りごとをどこで行うかは王の意思による。宮殿の規模や婚姻の形態とも関係するが、通常は居所で祀りごとをするだろう。よって、臣下が謁見して指揮を仰ぐ場所は、宮のある王の居所になる。王宮が移るのは、居所が変わるからである。
 豪族も同様で、自ら定めた場所で祖霊を祀るだろうが、その祀り方は先祖から受け継いだもので、他の豪族らと協議して統一するようなものではない。王墓が各地にあるのもそれぞれの王又は王位継承者の意向にもとづくものであろうから、豪族連合の根拠にはならない。豪族の墓はそれぞれの伝統に則ったものになるだろう。


⑷ 連合に加わった豪族は?
 連合に加わった豪族というのがどこの豪族のことか、諸説あって明らかでない。漢に朝貢していた三十ケ国にはそれぞれ王がいたとされるが、その王ならば地方の有力豪族という言い方はやめるべきである。
 豪族連合を考えるなら、王の出身氏族とその他の「有力氏族」が考えられる。三世紀初め頃まで、当時の豪族はどこかの地域を領有し、ヤマト王の出身氏族も畿内のどこかを領有していたことになる。
 奈良平野西部の葛城、生駒辺りは河内、瀬戸内海につながる重要地域であり、その地の豪族は連合するより支配することを考えるだろう。
 縄文時代から集落を形成し、環濠も造って防衛している中央部や南東部の豪族は互いに干渉しないようにしたかもしれないが、そこにどういう豪族がいたか不明である。ヤマト王権を構成する豪族なら記紀に記されていてもおかしくなないが、記紀は豪族連合政権説ではない。
 奈良平野の東部には後に三輪君となる豪族がいたと思われる。ヤマト王権にとって重要な地域であるが、吉備の遺物が発見されているから、吉備系の豪族の可能性もある。
 穂積臣と物部連となる豪族はニギハヤヒノミコトの子孫を名乗っている。大乱前の倭国の時代に畿内に進攻した部隊の子孫だと言いたいのかもしれないが、穂積氏は山辺郡の出身だとされており、関係性は不明である。物部氏は後にヤマト王権の軍事部門に携わっていた。この二豪族が元々どこを治めていたか不明である。
 武内宿禰の子孫を名乗る豪族は後世の豪族ということになる。
 豪族が分からないまま連合政権を造ったというのでは虚構でしかない。


⑸ 「連合」の目的
 複数の豪族が合同して一つの権力組織をつくるには、それを必要とするきっかけがあるはずである。これには各豪族の治める土地と豪族の関係を考えなければならないが、そもそも豪族の名も場所も分からない。従って連合の地域的範囲も分からず、目的を探ることもできない。
 交易や交流には連合政権は必要なく、提携で足る。
 農耕集落にとって水利は重要であるが、それぞれの水利系での問題であり、畿内全体で争ったり合意したりするものではない。例えば大和川の水量が減り、下流域で水不足が生じた場合、上流域の農耕集落も水が不足気味であっても水争いをせずに何らかの合意ができるだろうか。連合政権ができていれば争いは起こらないというものではない。
 水路、溜め池などが広く作られる前、水利の悪い不毛の土地が多かったなら、集落は水利のよい場所を選んで広く分散していたかもしれない。分散した集落の豪族が連合する目的は考えづらい。
 野盗の類への防衛であればムラやクニごとの対応になる。あるいは近隣のムラ同士が互いに支援して撃退することは考えられる。これらは地域限定になる。ムラやクニにとって、広域的に連合しても支援を得られないなら、必要性を感じないだろう。
 考えられるのは、武力による強制力を統一させる必要がある場合である。強制力を持たなければ政権として意味がない。
 一つは畿内内部の争いを止め、広域的に単一秩序をつくる場合であるが、三世紀前半に畿内で広く争いが起きて講和、連合へと進んだような事件は見当たらない。
倭国大乱をそれらの契機となった事件として見る向きがあるかもしれないが、豪族連合政権成立と目されている時代と違う。女王を共立したことをもって連合政権だというのかもしれないが、女王が諸国を服属させ、一大率を置いて諸国を監視する体制は連合政権ではない。
 もう一つは外部から畿内を脅かすような大掛かりな侵略があり、それに対して防衛する場合である。当時の戦争は、相手の王と王族を捕らえ、又は殺害することで目的を達するということが多かっただろうから、畿内防衛は王と王族を守ることが主眼となる。都の防衛が主であり、必ずしも畿内全体を防備することにはならない。豪族連合政権が政権の長の防備をし、豪族とその集落を防備するのはそれぞれの豪族に任せるということなら王制の場合と同じである。畿内防衛は連合政権として行うのではなく、各豪族が軍を持ち、それぞれの地で防衛することになるだろう。しかし、三世紀前半に畿内が大掛かりな侵攻を受けたという形跡はない。
 三世紀中頃は、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼が相攻撃した時期である。卑弥呼は死に、後に壱與が女王となる。邪馬台国も倭国もこれより以前に成立している。この事件により豪族連合政権ができるはずはない。


⑹ 世襲制
 豪族の中には領地と武力を持ち、王族を支援して王位争いに加わったものがあるが、豪族そのものが王になろうとした事例はこの時代には見当たらない。豪族はあくまでも臣下という立場を超えることはなく、王の姻戚関係になることで地位と利益を得ようした。
 豪族合議制のもとに王がその決定に従うというものであれば豪族連合政権と言えるだろうが、豪族は建議や進言などをするが決定権は王だけにあるというのであれば、豪族連合政権と呼ぶべきものではない。しかも、豪族が地方の国の王のことであれば、中央王権に関わるのは無理である。
 世襲は先代の全てをそのまま引き継いで替わることである。各一族内部の問題で、その血筋の者が順位に従って継承する私的なものであるが、継承の対象には地位もある。地位は公的私的の区別なく継承されるが、公的社会的な地位が世襲には重要である。豪族の場合、ムラやクニを治める地位は私的な財産の延長である。その子孫が財産の継承に伴って治める地位も継承することは当然の規範のごとく考えられていたと思われる。
 しかし、王位という国を治める地位は、王家の財産の継承に伴いその管理運営をするという意味での地位ではなく、それを超えた国に関わる独立した地位である。国の財産は王家の財産と同じではない。領土領民も軍も王家の私的な財産ではなく、命令し強制する権限と地位が継承の対象となる。その権限と地位は公的なもので、建前としては私的に勝手な使い方をすることは許されない。
 王位を世襲としたことで、豪族間での王位の交代可能性はなくなり、王は豪族らの上に立つものになる。その権力は臣下の関わり方の違いはあるが中央集権制になっていく。これを王と豪族の連合政権と呼ぶのはおかしい。
 邪馬台国の王の地位は世襲制であっただろう。王権に関わる豪族も世襲である。王と豪族の連合ではなく、豪族が輔弼する王制だったと考えられる。


⑺ 豪族連合政権の成立時期
 地域的には、畿内、畿内と周辺国、倭全体という広がりにおいて、どの段階で連合政権が成立したと言っているのか、諸説あってはっきりしない。
 元々の豪族連合政権の成立時期は三世紀が想定されているが、魏志倭人伝の国々のどれに当たるのか、あるいは含まれていないのか不明である。その時期に畿内に豪族連合政権のヤマト王権ができたとするのは、倭国の状況から見てかなり遅れている。
 邪馬台国をヤマト国と呼んでヤマト王権の国だとするなら、ヤマト王権は倭国成立前の遅くとも一世紀までには成立していることになるだろう。それを豪族連合政権とする根拠はない。
 女王卑弥呼の共立をもって連合政権成立とするなら、二世紀中になるだろう。しかし、女王の統治は、前述したように「連合」体制ではない。
 倭国大乱の前の倭国は、魏志倭人伝などによれば、九州にあったと考えるしかない。伊都国に一大率を置いて各国を取り締まったのは、そこが倭国王権の統治の拠点であったと考えるべきだろう。