ヤマト王権の始まりの国 7-1

第六章 倭国の統治権の移譲
一 邪馬台国王家の没落と畿内王家の興隆
 邪馬台国王家は邪馬台国の王位を自ら決めることはできなかった。男王の即位に対して抵抗を受け、魏の介入で壱與が女王になった。壱與はまだ十三歳で、統治者としての教育を受けていたか疑問である。王族が補佐したにしても、これでは倭の統治が十分にはできない。畿内王家の王は、倭の国造りを九州王家に任せることはできず、倭の統治は畿内王家が行うべきだと考えるようになったと思われる。邪馬台国や倭国には、畿内王家支持派が増えていっただろう。
 しかし、卑弥弓呼軍は撤退したまま、再介入はしなかった。軍事的に解決するのが畿内王権のやり方であったが、魏の張政と直接対決するわけにはいかず、傍観せざるを得なかったのである。
 壱與は魏に朝貢して魏との関係を強化しようとした。張政が帰国した後も魏が壱與の後ろ盾になっており、畿内王家は邪馬台国王家との対決を避けた。唯一の障害は魏と倭国とのつながりである。畿内王家の勢力を倭全体に広げれば、倭の統治権を実質的に得ることになる。魏は認めざるを得なくなるだろう。そういう決意で、中国・四国・近畿地方の国々はもちろんのこと、東方や北方の国々を支配下に置くことに力を注いでいった。魏が滅びようとしているとは夢にも思わなかっただろう。
 畿内では、軍事占領に始まり、国力強化を目指して中央集権政治が行われていた。都の場所は王が任意に選び、王族と豪族を介した支配という形態であった。軍の指揮は王族がとり、豪族は領地を治めて租税を納め労役を提供する。側近を王の居所に参詣させて指示をするという政治の仕方は変わらなかったが、倭国に倣って各地を監視するために役所を置き、官吏を配置したと考えられる。
 三世紀から四世紀にかけては、まず軍事力により各地の豪族に服属の約束をさせることがその内容であった。当初の軍の派遣は、王族を指揮官とする部隊が中心となっただろう。派遣先は倭国に属していない国と倭国に属する国の両方である。倭国への服属から畿内王権への服属へと変えさせることは倭国との軋轢を生むが、承知のうえだっただろう。
 服属は、相手に対して軍事的な圧力をかけ、あるいは武力を行使して主従関係を認めさせることである。そのうえで貢納を約束させることである。地方の先住豪族には都の王に謁見を命じることもその内容だっただろう。王は謁見した地方豪族に対して従うことを条件に治める地を与え、貢納すべきものを命じる。豪族らがこれを名誉と感じ忠誠を誓うなら服属は完了したと言ってよい。抵抗すれば殺害し、王族や臣下にその地を与えて治めさせる。
 畿内王権は王の先祖である神の信仰を基礎とする安定した社会を造るため、邪神信仰を禁止し、儀式を統一し、墓制も定めたと思われる。畿内には独特の文化ができていく。畿内が発展するにつれ、謁見に参上した地方の豪族らは都の規模や御殿など見たこともない文化を見て驚くことになる。地方豪族らは進んで畿内王権に従おうとしただろう。地方豪族を次々に従え、都詣でをさせ、王が地位を与えることで、諸国平定が進んでいく。
 以上は、狗奴国を邪馬台国の子国と考えた場合の推理である。敵対国と捉える立場では、狗奴国は邪馬台国が内部紛争で弱体化するのを期待して傍観していたと想像するのかもしれないが、狗奴国がその後どうなったかについては想像が及ばないようである。また、三世紀半ばに豪族連合政権のヤマト王権が成立したという説は、魏が滅んだ後に邪馬台国を滅ぼし、また、狗奴国も滅ぼしたと想像するのかもしれないが、倭随一の軍事強国になった経緯は明らかではない。「歴史の空白」は想像力(推理力)の貧困による人為的空白でもある。


二 畿内王家への倭国統治権の移譲
 二百六十六年、壱與は魏に対して朝貢を行おうとした。魏の状況について情報が伝わっておらず、様子を探ろうとしたのかもしれないが、壱與の国も不安定になっていたのかもしれない。その前年、魏は王位の禅譲によって滅び、西晋という国が成立していた。魏皇帝が西晋王に王位を禅譲したと知って西晋王に朝貢しようとしたのだろうが、それもできなかった。禅譲とあるが実態は降伏だったのではないかと思う。
 中国の後ろ盾を得ることができなくなったという情報は畿内王家の王に伝えられただろう。畿内王家は、九州王家から倭国の統治権を移譲させて倭の国々を支配下に置く機会だと判断したのではないか。
 九州王家は、西日本だけでなくその東方、北方の国を支配下に入れようとしている畿内王家の勢力に対抗することはできなかった。反対論はあっただろうが、畿内王家に倭すべての統治を委ねるのが妥当だと判断し、倭国の統治権を譲らざるを得ないと判断しただろう。ただし、方法はすぐには決まらなかったと思う。
 壱與は女王の地位を退き、表向きは譲位という形式をとろうとした可能性もあるが、王位継承資格がない者への譲位はありえないから、畿内王家の先順位となる王位継承者ら全てに継承資格を放棄させる必要がある。その場合は、遷宮・遷都を伴うことになるが、その場合は、邪馬台国からの王の系譜が続くはずである。
 むしろ、仮に譲位の話があったとしても畿内王家は邪馬台国の王位継承者になることを拒否したのではないかと思う。譲位ではなく統治権の移譲を求めたたから、遷宮や遷都という形式もなかった。魏に倣って禅譲という建前だったかもしれないが、実体は革命である。
 よって、ヤマトの先祖からの系譜は、畿内王家につながる系譜のみであり、畿内王家の初代から王の系譜が作られ、それ以前は神々の系譜という整理がされた。邪馬台国の王家の系譜はここで終わったのである。もっとも、系譜の整理は後世のことかもしれない。
 倭国の都が畿内に置かれたのは三世紀終わりころから四世紀初めころで、その準備は、先代の開化天皇のときに行われ、初代のヤマトの倭国王としての即位を崇神天皇の即位に合わせたのではないかと思われる。これが御肇国天皇と呼ばれた所以ではなかろうか。「御肇国」については、諡に関連して後に述べる。
 倭国に属する国々は、中国の支援を得られないと知ればほとんどは畿内王家に従ったと思われる。畿内王家への服属を拒否した国や勢力はいただろうが、後にヤマト王権が熊襲などと呼んで平定することになる。
 中国での邪馬台国と倭国の記録は途絶える。唯一、梁書倭伝に壱與の次は男王になったことが書かれており、女王統治が終わったことが分かる。次の男王はヤマトの倭国王のことではないかと思う。
 記紀には、崇神天皇が各地の平定のために軍を派遣し(四道将軍)、垂仁天皇の時代には朝鮮への派兵が行われ、景行天皇の時代には九州(熊襲など)の平定のために何度も派兵をして反乱を鎮め、出雲、吉備の反乱も抑えて西日本を平定し、東国の平定も進めた様子が書かれている。このことから、崇神天皇の時代が倭の王権の転機だと考えられる。


三 邪馬台国王家のその後
 邪馬台国の九州王家は消滅し、その王家の一族は畿内王家と通じていた者を除いて王族の資格を剝奪され追放された可能性がある。倭国の領土領民は畿内王家がすべてそのまま引き継いだのである。
 畿内に都をつくった後、邪馬台国の名をヤマト国に改めた。中国に対しては倭国、大倭国へと国号を変えていく。倭を統一し、倭国はヤマトノクニになり、中国の資料から邪馬台国の名は消え倭国になる。倭でもヤマダイの名は消え、「夜摩苔」にその名残があるだけとなった。 
 『旧唐書』倭国伝に、「日本国者倭国之別種也」、「倭国自悪其名不雅、改為日本」、「日本舊小国、併倭国之地」という記述がある。当時、日本国はヤマト王権の国であり、倭から大倭に国号を改めていたのを日本という国号にした。倭国の別種というのは、倭国という名であるが九州にあった倭国とは別という意味で、王統が変わったことを意味していると考えることができる。倭国の王権はクーデタのような形で変わったことになる。古くは小国だったが倭国の地を併合したという文の「小国」は、文字通り小さい国と読むのが一般的だろう。過去の国の成立関係を知らないため、小国に過ぎなかった国が倭国を併合するという結果だけを驚きを込めて記したという想像である。しかし、情報が伝わった当時は、コのナのクニ(狗奴国)のナを外したコのクニ(子国)という名だけが残っていて、子国のことを小国と訳した可能性もある。
 粱書倭伝には、壱與の次に男王が立ったことが書かれているが、壱與がどうなったのかは書かれていない。死亡による王位継承かもしれないが、そうだとすると四世紀に入ってからのことであろう。死亡の前に禅譲があったかもしれない。四世紀はヤマトの倭国になっていたと考えられるが、西晋への朝貢は行われず倭国や邪馬台国の情報は伝わっていなかったと思われる。


四 邪馬台国王家の記録の抹消とヤマト王権史の制作
⑴ 畿内王家がヤマトを名乗れば、畿内がヤマトの国と呼ばれるのは自然の成り行きだろう。ヤマト王家が倭の統治権を得れば、倭国もヤマト王家のクニ、ヤマトノクニになる。邪馬台国は王位継承権のない女王が就いた時代があったとして、その時代と系譜を正統のものでないとして消したのである。それによって、邪馬台国王家もその支配下の倭国も消された。
 歴史から抹消するには、記録も伝承も事績もあらゆる痕跡をも消す必要がある。国の名、人の名、事件、外交資料、物品、住居、墳墓に至るまで一切消され、あるいは変更された。しかし、伝承は容易に消えるものではない。別の公式記録を作ってそれに反する主張をした者を処罰するという方法も考えられただろう。前にも述べたが、これがヤマト王権史の編纂につながったのではないかと思う。


⑵ ヤマトの国のリアルな成立史は東征に始まる。ヤマトに国を造る前の邪馬台国と倭国を造った先祖の事績は国造りの力即ち神の物語とし、天の神から国造りの力を授けられた天の神の子孫が倭を治めるべきだとされた。その力が地上に降り、東征を行ったヤマトの国の始祖に引き継がれたとして、東征をヤマト(倭)の国造りの始まりとしたのである。天は統治者の力の源泉についての思想的表明と考えればよい。
 歴史書なら、ひたすら地上の物語を記し、さまざまな勢力や国々の戦いや建国の過程を時代に沿って書けばよいはずである。しかし、ヤマト王権は女王時代を否定的に書くのではなく歴史から消すことにした。歴史を消すといっても人々の間にその時代の伝承が残れば意味がない。却って混乱する。そこで、さまざまある伝承を正すと称して編纂し、それが正しい歴史だとして広めることで、伝承と記憶を抹消しようとしたのだろう。その先鞭をつけたのが古事記である。その内容には不満があったものと思われ、正史として日本書紀が編纂され、さらに続日本紀が編纂された。
 記紀は天皇家の国造りの歴史を記録することが目的であるが、過去を否定し新たに国を造り直すという革命を想定した物語ではない。倭の統治権力として正統性を示すには、過去に遡って先祖らの事績も記録に残し、それを引き継いだとする必要があった。そのために、国造りをしてきた先祖らの歴史を神々が行ってきたことの物語にし、天皇の権力が神から託されたとする物語を作ったのである。
 イザナギノミコトらの倭の国の基礎づくり、スサノヲノミコトやオホクニヌシノカミの国造り、天皇家の祖神への国譲りなど、倭の歴史は神々が行ってきたこととして記録され、ホノニニギノミコトやホヲリノミコトという地上に降りた後の神の物語も記録された。邪馬台国や倭国のことも神々に置き換えられていると考えるべきである。しかし、大王がいない時代と女王の時代は神がいない時代だとされて神の物語には記録されなかった。