ヤマト王権の始まりの国 5-1

第四章 ヤマト建国
一 ヤマト王権成立の由来
⑴ 邪馬台国と東方平定  
 邪馬台国が九州の国々を従えて倭国を築いた国造りの思想はそこで終わらない。「倭の王になる意志」がある限り、本州や四国の国々を従えようと考えるだろう。地理的には東方への出征となる。軍派遣は一度だけではないはずである。倭国大乱の前から、東方へと軍を派遣し、進攻拠点を東に移しながら中国、四国、近畿、北陸などの王や豪族を服属させようとしていたと考えられる。
 まず勢力を示して従わせようとし、それを拒否する国の王や豪族がいれば征討軍を送って戦うことになる。いずれにしても軍を出征させる。この出征は王沢即ち王の恵みを広く及ばせるという理由づけがされるが、これは後付けの物語かもしれない。
 国造りには、王に忠実な臣下と軍とそれらを支える富と武器、それを生産する民が必要である。その基本は水稲耕作を中心とした食糧生産である。東方に新たな国を造る場合も同じである。治水や植林、水田開墾など、それぞれの土地に合った生産基盤作りも必要となる。そのためには民を従え、未開拓地には民を入植させなければならない。これは邪馬台国に限ったことではない。吉備系の文化の遺物があるのは、吉備を支配し、畿内に進出した勢力が農耕民などを吉備から入植させたからだと考えられる。
 卑弥呼の時代に一大率を置いて諸国を監視していたとあるが、各国の王を倭国に服属させ続け、拒否すれば反乱だとみなして征討するためだったのだろう。よって、倭国成立のときからそういう制度があったと考えられる。倭奴国の時代にもあったかもしれない。一大率は伊都国に置かれたが、征討の主力は邪馬台国の軍だと考えられる。倭国に属する国が広がれば監視範囲も広がる。東方征討は監視を兼ねることにもなる。
 しかし、倭国大乱が起きたことで東方征討は畿内で中断したと思われる。その間、出征軍は占領地に住み着いて農耕を行いながら兵力を維持し、その地の統治を行いつつ本国の命令を待っていたかもしれない。
  
⑵ 女王時代の東方平定
 倭国大乱は邪馬台国の支配に対する反乱に始まる倭の内乱ではない。女王卑弥呼を共立し、九州の邪馬台国や倭国の内部が落ち着くと、東方平定のための出征が再開されたと考えられる。
 卑弥呼がどのような考えを持っていたにせよ、邪馬台国の王族の中には畿内を拠点にして東の国を平定すべきだという意見はあったはずである。過去に畿内に派遣された部隊があったが征討作戦が止まっていたなら、尚更、改めて軍を送ってその地に東方拡大の拠点を築くべきだということになる。
 その拠点を邪馬台国の第二の都にし、それより東方、北方を治めさせるという構想があったか、あるいは、畿内を平定した結果、そのような構想が生れたか、いずれにしても九州から距離があるため、統治の拠点造りが考えられたと思われる。ミヤコ造りは新たな地に祖神を祀る施設を造るとともに統治の拠点とすることである。祀る役目は子孫である王族が担う。ヒミコノコ又はヒノミコノコ(卑弥弓呼)となって祀りごと(祭政)をするのである。政治的には子国の王である。
 これが、邪馬台国が東方平定のために畿内を占領し、邪馬台国の子国を造ったという仮説である。しかし、邪馬台国子国仮説は、記紀の東征物語とは異なる。
 出発地は博多湾のどこかが想定される。王命により出発したと考えられる。王宮殿があったとすれば伊都国かもしれない。北九州の岡水門(湊)で補給をし、関門海峡の潮を見ながらその流れと地形を良く知る漁師を水先案内人にした。その後の経過は記紀の東征物語を参考にするしかないが、この物語におかしいところがあることは後に述べる。
 また、東征によって畿内に独立国ができたのではなく、いわば邪馬台国の別国、邪馬台国子国の成立にとどまる。子国は本国の一部であり、占領軍がいきなり新たな国を造って独立したわけではない。復命して、畿内に宮を造って統治をするとともに引き続き東方征討を進めよとの命令を受けたものと思われる。それによって畿内に王家が成立した。この王家はヤマトを名乗り、その国はヤマトの国と呼ばれるようになった。この王家が後に倭国の統治権を得ることになる。


⑶ 出発の時期
 古事記は出発の時期を記しておらず、架空かどうかを論じる対象にならない。日本書紀は甲寅の年に出発し、辛酉の年に神武天皇が即位したとしている。年号が使われていた時代ではないと思われるが、その辛酉の年を想定して逆算する考え方がある。
 辛酉の年は六十年ごとに周ってくるので、三〇一年、二四一年、一八一年などの考え方になる。三〇一年即位説は崇神天皇と神武天皇の即位を同一とすることになるが、根拠がない。二四一年即位説は、女王卑弥呼が魏に朝貢する前に東征に出発したことになるが、倭国大乱が治まってかなり経っており時期が遅いように思う。一八一年即位説は、東征出発が大乱中になる可能性がある。
 もし何らかの革命的な出来事があった場合に辛酉という年号が使われたとするなら、西暦年を導く根拠にはならない。
 西暦年を推理するなら、倭国成立や大乱の時期を基準にするしかない。
 九州内で大乱があったとすれば軍事力はそれに向けられ、その最中に「東征」が行われることはないだろう。王がいない時代が続いたなら、軍の出動を許可または命令する最高指揮官がいない。王がいないのに乗じて、船、食糧、武器、兵の調達をして出港するわけにはいかない。
 大乱前に東征が行われたと仮定した場合、邪馬台国・倭国の王がいない状態が続く中で、東征部隊は畿内に自立した国を造ったということになるかもしれない。しかし、古事記が行宮滞在期間を延ばした理由が分からなくなる。また、女王が共立されたとき、畿内の国との関係はどうなるのか。畿内の国は女王を認めず服さなかったために不和になったという推論をするのか。畿内に国を造ったばかりのときに本国に抵抗したとは思われない。
 よって、「東征」開始は、大乱が終わり、卑弥呼が女王に共立され、倭国が安定した後の百七十年代終わり頃から百八十年前半頃と考えるのが妥当だろう。畿内に邪馬台国子国が成立したのは、百八十年代後半から百九十年代前半頃のことと考えられる。


⑷ 東征と吉備の役割
 畿内での国造りを考えると吉備の位置づけが重要である。
 吉備は早くから文化を持ち、クニ造りをしていたと思われる。出雲と淡路島の銅鐸が同じ鋳型から造られたというつながりを考えれば、吉備も出雲とつながっていたと考えられる。畿内南部の瀬田遺跡や纏向古墳の遺物に吉備系のものがあるなど、倭国の時代の前から畿内と吉備は交易があり、吉備から移住した人々が集落をつくり、一勢力を築いていた可能性がある。
 邪馬台国が倭国を統治するようになって、吉備も倭国に属するようになったと思われる。邪馬台国は畿内にも進出して一部地域を占領して国を造り、吉備勢力も邪馬台国に従うようになっていただろう。
 そういう状況で東方征討が再開されたと考えれば、その作戦において吉備は重要になる。
吉備は畿内に近く、畿内での国造りに必要な人材と物資を調達しやすい。東征部隊は吉備の協力を得るために立ち寄ったと想像できる。当時は、児島は島であり、海岸線は現在よりずっと内陸側にあったから、船で立ち寄るには寄港場所を選ぶ必要があっただろう。
 ここで補給をし、吉備から何度か進攻を試みたがうまくいかなかった可能性もある。それを踏まえて畿内の状況を偵察し進攻作戦を考えたとすれば、そのための時間もかかった可能性はある。吉備で兵を集めるには足りず、邪馬台国に援軍を要請したかもしれない。舟を増やすにしても製造には時間がかかる。
 記紀の東征物語が最後の成功につながった進攻だけを書いているとすれば、吉備に三年というのは足止めの期間が含まれている。


⑸ 畿内にできた国
 東方平定の拠点として畿内に造られた国は邪馬台国の子国であり、中国の史料に狗奴国という名で登場する国である。本国王から任命、派遣された長官が領地を治めればよいとも考えられるが、王族である東征軍の将に領地を治めさせる場合、臣下の地位である長官というわけにはいかないだろう。本国の王より格下であり、長官よりは格上であるということで、子国の王という任命の仕方がされたのではないかと思う。領地は邪馬台国のものであるが、実質的には子国の領地と同様になり、子国王を通して本国王が支配するという形になる。
 当時の本国王は女王卑弥呼であり、子国王は男王卑弥弓呼であった。その間に不和が生じ、倭国の政変へと発展していくきっかけとなる。それには子国が畿内で勢力を強めることができたという背景があった。