ヤマト王権の始まりの国 5-2

二 都(ミヤコ)造り
 古事記には、イハレヒコノミコトの「坐何地者平聞看天下之政猶思東行」という発言が書かれているから、東行は天下の政治をする最適の地を得る目的があったことが分かる。日本書紀には、「何不就而都之乎」とあり、ニギハヤヒノミコト(邇藝速日命、饒速日命)が飛び降りた地を都にすることが目的だと解釈できる。
 都(ツ)は王が居る城がある統治の中心地のことであるが、それが目的だったのであれば古事記と同じ趣旨になる。しかし、祭政一致による統治と、都をミヤコと呼ぶようになった理由を想像しながら、ミヤコを造るという言葉の意味を考える必要がある。


⑴ ミヤとは
 ミヤは神を祀り、神が来訪するとされる場所である。御神体が置かれることが多いが、神が鎮座し続けているわけではない。ミヤは「ミ」と「ヤ」の合成語ではないかと思う。
「ミ」は人に宿る見えない力(神)のことである。その力は先祖から引き継がれるとされ、祖神という意味になる。接頭語ではない。人は死んで神になるという思想は現代の神道にも残っているが、死ねば見えない力としてどこかにいるというのと同じである。ヤマト王権の王の先祖は天照大神だとされるが、天の力がヤマトに引き継がれてきたという思想である。
 「ヤ」は家、屋、舎という字が用いられるが、建物のことである。神は実体がないからこの世に現れたかどうかは見えない。現れたとしてもその場所は人々が知ることはできない。御神体という思想や沖縄の御嶽はそこに神や祖霊が現れるという信仰にもとづいているが、宮はその特別の建物を造り、そこに現れてもらうという願いが含まれている。造ればよいというものではなく、その建物内に祀ることにより現れてもらえるという信仰であり、祀るための建物がミヤである。
 祭政一致の統治の時代にあっては、ミヤ造りは国造りと一体である。王が祖神を祀るミヤは王の住む御殿でもある。その御殿のことを王宮という。そこで、ミヤに宮の字が当てられたのだろう。天皇が祀りごとをする建物は大宮と呼ばれた。
 古事記に「宮」が初登場するのは、スサノヲノミコトが須賀に宮を造ったという箇所である。どのような神を祀ったのかは分からない。御殿と訳されているが、宮は御殿と同じではない。古事記には書かれていないが、出雲の国にはスサノヲノミコトを祀る宮についての伝承があったかもしれない。
 スサノヲノミコトの子孫とされるオホクニヌシノカミはタケミカツチ(ヲ)ノカミ(建御雷神、建御雷男神、武甕槌神)に国譲りの条件として「天之御舎」を建てるよう求めたことになっている。「御舎」はミアラカと読まれているが、ミヤのことだと考えればよいと思う。倭の国を造ってきた出雲の神々を尊ぶよう求め、天の神に「御舎」を造ってそこで祀るよう求めたと考えるのが妥当かもしれない。
 これに対するタケミカツチノカミの同意が独断による単なる方便だったか、天照大神がこれを約束して造ったのかは分からない。「天之御舎」が天に造られるものであるなら、地上にいる人々にはそれが造られたかどうか分かるはずがない。
 出雲にオホヤシロ(大社)が造られてオホクニヌシノカミが祀られているが、これは力を封じ込めるために鎮座してもらうという目的だったのではないかと思う。その際、古事記の「天之御舎」の記述を参考にして巨大な社を造った可能性がある。


⑵ ミヤコとは
 ミヤコは、一般には、宮処のことだとされている。宮処を和風に読めばミヤトコロである。古事記や日本書紀にはミヤコは登場するがミヤトコロという言葉はない。万葉集には「大宮處」、「大宮所」という言葉が出てくる。これはオホミヤトコロと読む。大宮は王宮である。ミヤコは、「宮子」、「京」、「京都」、「京師」、「都」、「美也古」、「美夜古」、「弥夜古」、「弥夜故」、「美夜故」、「王都」、「皇都」の字が用いられていて、「宮處」の字は「大宮處」、「離宮處」の他にはない。「大宮處」、「離宮處」(「依興各思高圓離宮處作歌五首」)は、宮の跡地を見て当時を偲んで歌を詠んだもので、宮があったところということで「處」(トコロ)としたのだろう。
 古事記や日本書紀に登場する「處」の多くは「トコロ」と読むべきものが多い。「其處」はソコと読まれているがソノトコロとも読める。因みに「他處」はアダシトコロと読まれている。
 しかし、万葉集に出てくる「何處」という字はイヅク、イヅチと読まれている。古事記に出てくる「何地」も同じかもしれない。これから類推すると、宮處はミヤク、ミヤチと読むこともできる。
 他方、万葉集の「金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念」という歌に宮子という字が出てくる。この歌は額田王の歌だとされているが、天皇の歌だという説もある。この宮子は宮処の意味だとされている。秋の野の草を刈って葺いた建物に泊まったときに、宇治宮の地にある仮庵を思い出したことを詠んだものということになる。また、柿本人麻呂の歌の一部に「瀧之宮子波 見礼跡不飽可問」というのがある。この宮子は吉野宮がある地のことである。
 これらから判断すると、宮子と宮處は同じ意味のように見えるが、ミヤトコロに宮處の字を当て、ミヤクやミヤコには宮處ではなく宮子や宮古などの字を当てていたのではないかと思われる。
 トコロはコノトコロやソノトコロと言うように元々は限定された場所や時間を指し、クは一定範囲の地域や時間を画する言葉だったのではないかと思う。ミヤトコロは宮がある(あった)その場所を言い、ミヤクは宮の地域を区分した言い方である。従って、王宮を中心として一定地域を囲った場合は、ミヤクと呼ぶことになる。それがミヤコに変化したのだろう。「京」、「京都」、「京師」、「都」などは王都であるミヤクであろう。ミヤクの中に王宮の場所、オホミヤトコロがあるという関係になる。
 王が滞在する宇治宮、吉野宮などの離宮を中心とした地域が区分されているならその地域もミヤク、ミヤコである。しかし、王都を意味する字は使えない。よって、派生的に造られた宮という意味で宮子という字を用いたのではないかと思う。
 東征の目的は畿内に場所を得て宮を建てるのが目的で、土地の占領は手段にすぎない。高千穂の宮から派生した宮を造り、それを中心とした一定地域を囲うというのもミヤコ(宮子)造りである。宮を造り祭政一致の統治をするという意味では国造りである。ただし、高千穂宮の神を祀る宮をその地に造るのであれば、独立した別の国を造って別の神を祀ることにはならない。
 高千穂の宮と畿内の宮は、親子の関係のように造られ、先祖は同じである。宮子は地位的には一つ下の宮の意味になるが、宮の格付けが東征のときにあったのかは分からない。後に畿内に倭国の王権が移り、ヤマト王権の成立によって宮子は宮になり、その地域は「京」や「都」になり、王の別宮が宮子となる。


⑶ 王と宮の関係
 王は天の神の子孫であるという主張は王の先祖に天の神が降臨したという思想の別表現である。神の子孫である王の子は一人ではないが、国を造り治める王にその特別な力が引き継がれるという信仰であるから、子のうち神として崇められるのは王になった者と王になるべきであった者のみである。
 王は、王族の長として祖神を祀る主宰者となる。儀式は神官が主導し神との交信を行うものとされる。古事記には、神八井耳命が神沼河耳命(綏靖天皇)に王位に就くことを勧めた時、自分は「忌人」になると言ったと書かれている。忌人は祀りごとを行う者だと解釈されている。これは祀りごとの儀式を主宰する神官のことで、祖神を祀る者のことではない。
 宮が、王とその家族らが生活をし、政をする場所に置かれる場合は、王宮や王宮殿と呼ばれる。邸宅を造り、奴婢や使役を住まわせ、警護の兵を置く。当時は現場で政の指揮や視察を行うことがあっても、特定の執務場所を王宮外に造ることはなかったと思われる。臣下、神官、武将などは王宮に参上し、そこでさまざまな指示を受け、政治を行うことになる。緊急に豪族や武装部隊に指示を出すときは使いをやって召せばよい。
 臣下も王の親子に仕えることを通じて代々の王に仕えるようになる。統治に継続性、安定性を持たせるうえでも、王が変わっても臣は直ちには変わらない制度が必要になっていっただろう。
 妻が複数になると、王宮に王が常在していたかどうかは分からない。後には住居は別にしていた例がある。


⑷ 宮の名と場所
 王の子が成長して王と別に住んでいる場合は、その地は王権の支配が確立していたことになる。王の子が住んでいた場所で王位を継承するとともに祖神を祀ることとなれば、そこが次の王宮となる。別の場所に宮を造り移転することもあっただろう。
 臣下らは新たな宮の近くに転居する必要があったかもしれないが、新たな王に従わざるを得ない。私邸であれば次の王宮の場所は予測がついている。官僚制のように個々の王族から独立した臣の制度ができるまでは、特定の王族だけに仕える人的なつながりが重要である。王の臣下は王位継承者をよく知っており、そのまま新王を補佐し、支配下の豪族らが支援したのだろう。そうなると、王位継承者にとりいる豪族もいたかもしれない。
 王宮の移転が臣下や民の転居と新たな集落つくりをもたらしたならば、地域の発展には好都合である。
 宮の場所はその名から推理することになる。多くは地名が付されているからである。それによって王権の勢力がどのように広がっていったか、どういう目的でその地を選んだかを推理することができる。


⑸ 王に私生活なし?
 王宮は王が住み、先祖を祀る私邸から始まったが、王の職を行う公的な施設となる。臣下に指示をし、報告を聞く施設、臣下を集めて会議を行う場所、臣下が執務する場所、兵や下僕が生活する場所なども必要となり、王宮は一つの集落のように巨大になっていく。
 こうなると、王とその家族の私生活はかなり狭められ、私邸に住んでいるという感覚ではなくなるだろう。王宮内に私邸を造って画するしかない。
 その王宮を中心として周りには臣下や民が住む集落ができ、人や物資が移動する道路や水路も整備される。無秩序に人口が増え警備に支障がでると、王宮を中心とした地域を水路や壁などで区画し、人の流入を制限する必要がある。
 その区画はミヤコ(京)と呼ばれる。しかし、区画の周辺に人々が集まることを阻止できるわけではない。周辺も含めて集合的な地域ができ、ミヤコ(都)と呼ばれる。
 王は常に生活を管理され、世話という方法で監視され、私生活はない。王は神であるから祀られることを拒めず、常に人々に見られて崇められるものである。その存在を人と比べることは無意味であるという意識を持たなければならない。複数の妻がいても、全て公知のものであり、王宮に居る限り、妻らの私生活も誓約される。
 そのような王宮生活がいやなら、都の外に私邸を造るしかない。


三 遷宮はあったか
 遷宮は、宮を遷すことである。新たな宮を造って元の宮を廃し、神に新宮でのみ祀る。元の宮を廃止しない場合は本宮として残る。記紀においては、崇神天皇や垂仁天皇の時代には、天照大神は伊勢の宮に祀られていたことが分かるが、遷宮がされたという記述はない。先祖発祥の地、神が降臨した地は伝承が間違いだったとしない限り変わることはない。
 高千穂は倭国の王権を得るに至った一族の先祖の地であり、国を造り治める神を祀るべき場所である。先祖の地が変わることはないが、国を治める力の代名詞ともいうべき天の神を祀る場所は高千穂でなければならない理由はない。おそらく高千穂宮には、卑弥呼らも先祖に加えられて祀られていただろう。ヤマト王家にとって、高千穂宮において代々の亡き王を祀るわけにはいかない。むしろ、新たな王権には新たな神に相応しい祀り場所を定める必要があった。
 そこで、天照大神をヤマト王家の祖神とし、その神を祀るための新たな宮を、太陽が昇ってくる方向の先端の地である伊勢に造ったものと考えられる。これは高千穂宮を遷したものではない。
 天照大神を祀る宮を造ったのは、倭国の王位(統治権)の移譲があったからである。記紀において、崇神天皇や垂仁天皇の時代に伊勢の宮が登場したのはそういう背景があったと想像される。