ヤマト王権の始まりの国 8-1

第八章 古墳


一 纏向古墳群
⑴ 纏向型古墳
 纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳、纏向勝山古墳、ホケノ山古墳がある。帆立貝型古墳には茅原大墓古墳がある。地域的には、大和川と東部の山に挟まれた纏向、箸中、茅原の一帯である。纏向遺跡には大型建物跡が見られるが、三世紀後半以降のものである。集落そのものは二世紀末ころから造られ、石塚古墳の溜め池が造られたことをきっかけに、その地が発展していったものと考えられる。
 吉備系の物が埋葬されていたことから考えると、その地域の開墾に吉備系の豪族が関わっていたと考えられる。その豪族がヤマト王権の水田開発の中心となって、三世紀には溜め池を増やし、纏向遺跡の一帯に大集落をつくっていた可能性がある。
 纏向型・帆立貝型墳墓に附属する池が大きいのは、墳丘墓を造るために土を掘った結果ではない。その逆で、瀬田よりも大きい池を造ることを目的として広く掘った土を内側に盛り上げたものではないかと思われる。溜め池は水田作りに必須であるから労働意欲もわく。纏向地域は沖積平野の扇状地であり、当時の表層部は掘りやすかった可能性がある。池は浅くても広く掘るほうがよいから、巨大になったのである。
 溜め池の築造が目的なら、墳墓発掘物の製造年代よりいくらか古いと考えられるから、三世紀初めの発掘物は二世紀終り頃の溜め池築造に、中頃の発掘物は前半の溜め池築造に読み換えるべきかもしれない。
 三世紀初め頃に造られたとされる石塚古墳は、全長九十六メートルで、円墳部の直径は約六十四メートルで墳丘は楕円型、方形部は長さ約三十二メートル、幅約三十四メートル。くびれ部の幅十五メートル余り、周濠は幅約二十メートルである。瀬田の円形周溝墓と比べて長さで三倍余りの規模である。面積では十倍くらいになる。円形の周濠式とした場合、降雨面積という点では通常の穴掘り式の池の約一・六倍となる。
 この規模になると地面に円を描くのは大変である。紐(縄)を使ったり人を真っ直ぐに並べさせて手をつながせたりして、端を一点に固定させて孤を描きながら一周させるというのは難しくなってくる。別の測量方法があったのかは分からない。
 ホケノ山古墳は纏向の南、箸墓古墳の東側の緩やかな傾斜地にあり、全長約八十メートル、円墳部の直径は約五十五メートルで高さは八・五メートル、方形部の長さ約二十メートルで高さは三・五メートル、周濠幅は十・五メートルと小規模である。傾斜地では大きい周濠を掘ることはできなかったのだろう。
 三世紀中頃に造られたとされる矢塚古墳は、全長約九十六メートル、円墳部の直径は約六十四メートルと五十六メートルの楕円型、高さは五メートル、方形部は長さ三十二メートル、周濠は幅十七メートル余り、深さ約〇・六メートルである。石塚古墳と規模はほぼ同じである。
 三世紀に造られたとされる勝山古墳は、全長約百十五メートル、円墳部の直径は約七十メートル、高さ約七メートル、方形部は長さ約四十五メートル、くびれ部幅二十六メートル、周濠は幅約二十五メートルである。石塚、矢塚古墳より規模は大きい。円形の中岡周濠式とした場合、降雨面積という点では通常の穴掘り式の池の一・五倍余りとなる。方形部の長さに対する高さの割合は矢塚古墳とほぼ同じである。
 東田大塚古墳は、三世紀後半に造られた前方後円墳だとされている。発掘調査の結果では、全長約百二十メートル、円墳部の直径は約六十八メートル、高さは約九メートルで、方形部の長さは約五十メートル、周濠は幅約二十一メートル、深さ一・三メートルであったとされている。纏向勝山古墳と比べると、円墳部の径が約二メートル小さく、方形部は約五メートル長い。これは円墳部の高さが約二メートル高くなっていることと無関係ではあるまい。ただし、方形部の長さに対する高さの割合はやや大きくなっている。
 溜め池としての容積は、深さによるが、一つで三千から四千立方メートルくらいにはなったのではないかと思う。水田に高さ五センチメートル程度の水を張る場合、六、七ヘクタールくらいを潤すことができる。


⑵ 周濠式池造りの工事方法
 瀬田の場合とほぼ同様だろう。作業用の陸橋部分を残して外周から内側へ、又は内周から外側へと掘り進んでいき、中央部に掘り上げた土を固めながら積み上げていく。周濠の規模が大きくなると大量の土が出てくるため、中に高く盛って固める必要がある。陸橋部分は幅を広くしスロープをつけるが、中岡が高くなればなるほどスロープ状の通路は陸橋から陸側に延ばして長く幅広く造ることになる。そのために多くの土が要るから、結果として周濠の陸橋側を広げることとなる。外周部には土手を造って池の水位を上げたかもしれない。
 この方法は土の処理が楽で、合理的で作業ははかどる。ただし、外部からの雨水の流れ込みを阻止しないようにしなければならない。
 池には取水口と排水口が必要で、それぞれ水路とつなぐ必要がある。豪雨対策も必要で、取水口から流れの速い水が大量に押し寄せないようにする必要がある。大量に水が流れ込めば速い水流によって中岡も削られる。纏向型古墳は平地にあり、規模はあまり大きいものではなかったから、そこまでの心配はなかっただろう。
 周濠式の広大な池が完成したときは、人々は歓喜しただろう。そこに水が溜まったときは、当時としては大掛かりな水田づくりができると確信したに違いない。工事を計画し指揮した者は讃えられる。


⑶ 墳墓造り
 やがてその功労者である豪族が死に、墳丘の上に葬ろうとしたならどういうことになるか。
 墳墓の本体は円墳部である。横穴式ではなく墳頂に縦穴を掘って石棺を組み立て、遺体を置くという形式だった。
 スロープ状の通路を整備して墳頂まで石を運んで棺を造り、遺体を運ぶ。遺体は木棺に入れて運んだかもしれない。溜め池目的の盛り土ならその状態のままでよいが、墳丘墓の形は塚(円墳)だったと考えられる。そこで、スロープ状の通路の土を削り取って、円墳部の形を整え、削った土は陸橋部に盛り上げる。もう一つの塚にならないように形を変えるか均して台状にする。過渡期には、これは外とつながっていて、溝が造られる程度であっただろう。
 墳墓造りの労力は相当なものだっただろうが、人々は感謝の気持ちを込めて作業をしただろう。
 ホケノ山古墳は三世紀中頃の墳墓だとされるが、その発掘物は纏向のものと異なり、素環頭太刀、鉄剣、銅鏡などの埋葬品がある。時期的には卑弥呼と卑弥弓呼が相攻撃した頃である。将軍クラスの王族又は豪族の墓かもしれない。


二 箸墓古墳


⑴ 墳墓目的で築造されたのか
 箸墓古墳はホケノ山古墳の西側にあり、三世紀中頃から後半頃に造られた墓だとされる。しかし、ヤマト王権の創建前期か創建期に王墓又はそれに準じる墓として造られたものか疑問がある。
 日本書紀では崇神天皇の代に箸墓を造ったとしており、四世紀前後頃と思われる。日本書紀に「日也人作夜也神作」とあるのは、先に造られていた墳丘があり、それを墓に造り変えたと読むこともできる。四世紀説なら、古くから造られた周濠と墳丘を墓に利用したと考えることもできる。
 箸墓古墳にも隣接して巨大な池がある。箸中の一帯を水田とするために巨大な溜め池を造ろうとしたのだろう。北部と西部の水田に対して高さがあり、溜め池の適地である。しかし、現在の池がその当時造られていたとは思われない。部分調査の結果では、当時の池は墳墓の周囲を巡らせる周濠式だと言われている。
 纏向と同様の周濠式の掘削が考えられたとすれば、円形の周濠を掘り、中に掘った土を盛ることになる。作業用の陸橋が残され、作業用のスロープ状通路が作られる。そのために周濠を掘り広げることになるだろうが、陸橋の両横を掘り広げた可能性もある。その際、地形を考慮しないと溜め池造りとしては失敗する。
 最初から墳墓を造る目的であれば、どれだけの量の土が必要となるか。周濠を掘った土でそれを賄うのは到底無理ではないかと思う。他から土を運んだか、小山があってそれを利用したかもしれない。いう墳頂までのスロープ状通路を付ける計画だったのではないかと思われる。築造当時の地形が発掘成果により明らかにならなければ、予想図を描くことはできない。
 現在の地形は南東から北西に向かって緩やかに下る斜面である。南東から東にかけての一帯が土砂によって高くなったという証拠が必要であるが、周濠が重要であれば流れ込んだ土砂を取り除くだろうから、元から傾斜があった可能性がある。
 大きい周濠を掘るには傾斜地は適さない。傾斜がわずかであっても周濠が巨大になればなるほど両端の高低差は広がる。全長二百八十メートル近くもあって高低差が三、四メートルなら見かけはほぼ平地のように見えるかもしれないが、実際に水を溜めようとすれば、三、四メートル低い側にそれだけの高さの土手を造り、高い側の濠を深く掘る必要がある。陸橋側に池を広げようとすると高低差はもっと大きくなる。纏向では水深一メートルに満たない周濠だったが、傾斜地ではとんでもない工事になってしまう。
 くびれ部と円形の中岡の東側の高低差がほとんどなかった可能性もあり、円形の周濠を造るだけなら問題はなかったかもしれない。しかし、スロープのある通路を造るために西側を掘って、一つの周濠としてつなげたとすれば、作業用だろうと葬送用だろうと、上記のような問題が起きる。これを防止するには、円形部の周濠と方形部の周濠を別々にするしかない。
 崇神天皇陵や景行天皇陵は堰堤で分割して周濠が造られている。崇神天皇陵は一見して傾斜地と分かる場所にあり、円形の中岡と周濠を造った際にも堰堤で分割され、後に方形部の周濠を別に掘ったような形になっている。箸墓古墳にその方法がとられているのか分からない。「渡り堤」があったという想像がされているが、証拠はない。むしろ、巨大な連続した周濠を造ろうとしたが傾斜のため周濠に水が十分に溜まらないことが分かり、円墳部側の周濠を深く掘るとか、隣に別の池を掘るとか、堰堤で段差をつけた周濠を外側に掘って元の周濠を埋めるとか、いろいろと計画の変更が考えられたのではないかと思われる。しかし、うまくいったとは思われない。現在は、北側に箸中大池と呼ばれる池があるだけで、周濠跡は見えない。大池が造られた時期は分からないが、周濠が溜め池として機能していなかった可能性がある。
 仮に溜め池造りとしては失敗でも、人工山を墳墓にすることはできる。日本書紀に、昼には人が作り、夜には神が作ったとあるのは、先祖が先に巨大な丘を造っていて、それに手を加えて墳墓にしたという意味ではないだろうか。
 石は葺石で、斜面が崩れないように敷いたのだろう。方形部は完全な台状ではなく、くびれ部の高さは低くなっていて墳頂までのスロープは一部残っている。方形部の前部がせり上がる形の前方後円墳は他にも見られる。方形部はくびれ部にいくほど法面の傾斜がきつくなっており、それが関係しているのかもしれないが、方形部墳頂に何かを予定していたのかもしれない。三世紀後半以降に造られたとされる西殿塚古墳は方形部が高くなっているだけでなく台状の盛り土(方形壇)がある。近くの東殿塚古墳は、西殿塚古墳と堰堤でつながっているように見える。方形部は長い独特の形である。いずれも王墓ではないが、形には何か意味があったのだろう。
 バチ形でカーブがあるのは、雨や溝の水流で徐々に削られたためかもしれない。斜面が石で覆われているのは、雨水により斜面が削り取られて池を埋めてしまうのを防ぐためではないかと思う。
 気になるのは、くびれ部の大きな溝である。西殿塚古墳にも東殿塚古墳にも似たような跡が見られるから何か意味があるものと思われるが、周濠造り失敗の印にしたわけではないだろう。不明である。


⑵ 被葬者
 墳墓と考えられているが、被葬者は不明である。記紀にはここに天皇を葬った記述はない。王墓であればそのことを書かないはずはない。箸墓古墳が造られた時代は三世紀中頃だったとされているが、その頃に前方後円型の墳丘墓を造って天皇を葬る風習も制度もなかった。三世紀中頃は卑弥呼が死んだ時期であることから、それと関連付けて卑弥呼又は壱與の墓だという主張がある。しかし、天皇の墓ではない。天皇とは違う王の墓というのも考えられない。
 そもそも墳墓の築造時期を埋葬されていた土器の製造時期と同じとする発想がおかしい。土器が三世紀中頃に作られたものであっても、埋葬は製造より後であるから墳墓築造時期は断定できない。例えば二十歳のときに使っていた剣や土器が、六十歳で死んだときに副葬されたとする。この場合は四十年ものタイムラグがある。埴輪の場合は副葬品として急遽造った可能性はあるが、生前に持っていた飾り物などを並べたのかもしれない。生前使用していた物を副葬したのではなく、副葬のために製造したという証拠がなければ判断はできない。
土器片が池から見つかったなら埋葬品と断定することもできない。池に捨てられた廃棄物かもしれない。
 被葬者は、副葬品に吉備のものがあるから、埋葬されたのは王族と姻戚関係にあった吉備系の豪族か王族の妻になった吉備系豪族の娘かもしれない。日本書紀には孝霊天皇の子ヤマトトモモソヒメノミコト(倭迹々日百襲姫命、古事記では夜麻登登母母曽毘賣命)の墓として造られたとされている。母親の意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(古事記)、倭國香媛(日本書紀)は安寧天皇の第三子の孫にあたる。初期天皇の在位年数を修正すれば、崇神天皇の時代に神事を行っていた可能性はある。


三 山麓の前方後円墳
 三世紀後半から前方後円墳が造られる。
 黒塚古墳や中山大塚古墳の墳墓は池を大きくして中の盛り土と外との陸橋部分が長くなったような形である。円形の墳丘の上は台状で、竪穴式の石室がある。中山大塚古墳には池の跡が見られるが、周濠は明らかではない。これらも三輪山山麓にあり、元々は水利のためと考えたほうがよいだろう。黒塚古墳や中山大塚古墳ともに三百年前後頃の墳墓で鉄剣や銅鏡が発掘されている。銅鏡は功績に対する褒美として与えられたものかもしれない。中山大塚古墳では特殊器台が見つかっており、吉備系の豪族の墓かもしれず、あるいは吉備平定に関係した王族の墓かもしれない。
 三世紀後半と思われるが、劔池の中岡(前方後円墳)を孝元天皇陵としたとされている。しかし、周濠は斜面に造られて十分な機能は果たせなかったと思われる。墳墓としては墳丘の形に着目されたと考えられる。
 四世紀初め頃の築造と言われる桜井茶臼山古墳も同様のコンセプトで造られたものと思われるが、緩やかな斜面に造られていて、池または周濠の様子が分からない。方形部が南の山側に向いており、メスリ山古墳は方形部の幅が更に広くなっているが、これも池または周濠の様子が分からない。池または周濠があった当時の陸上部分がどうなっていたかが問題である。これらからも鉄剣、鉄刀などの武器が発掘されている。四世紀は武器が埋葬された前方後円墳墓がいくつもあり、東の山裾の墳丘墓に葬られたのは、軍を率いた王族や豪族の可能性がある。
 この時期に山麓に造られた小規模の古墳は、傾斜のために周濠造りに難点がある。そのため巨大なものは造られていない。貯水量が十分でないため、低地側の周濠幅を大きくすることも考えられたが、傾斜のため限度がある。数を増やせばよいということだったのかもしれないが、岡も増えることになる。墳墓に使うには塚の形が重要であり、孝元天皇陵に倣って中岡を利用したものと思われる。
 四世紀前半に築造されたと言われている崇神天皇陵は、傾斜地でありながら周濠に堰堤を設けて分割する方法がとられたことで大規模にすることができた。これは四世紀後半の景行天皇陵だけでなく、佐紀の前方後円墳にも見られる。
 当時の大王(天皇)にとって、農業用水の確保は最重要課題であり、溜め池を造るだけでなく雨乞いの儀式も行われたと想像される。龍神を呼び降雨を祈願する儀式には龍を思わせるような剣などの作り物が用いられた可能性がある。