ヤマト王権の始まりの国 9-2

四 初代から第十代天皇までの諡
⑴ 初代神武天皇
    倭風諡はカムヤマトイハレヒコ(古事記では「神倭伊波禮毘古」、日本書紀では「神日本磐余彦」)ノミコトである。元々の諡は若御毛沼命で、初代天皇としたときに新たな諡を贈ったのではないかと思う。
 神倭や神日本は美称でイハレは地名だという説がある。カムヤマトを「神々しいヤマト」とか「神聖なヤマト」と解釈するなら美称と言えなくもないが、神が造ったヤマトがイハレとどう結びつくのか。
 日本書紀に磐余という地名を名づけた由来が記されており、以前は「片居」又は「片立」だったが、皇軍が大戦さをして磯城八十梟帥を滅ぼしたことから磐余邑と名づけられたとされる。ヤマトの国を造る出発点となった地をイハレの地と名づけたなら分かるが、その地名を諡にしたとうのはどうなのだろうか。イハレヒコは「磐余という地の貴い男子」という意味になってしまう。これは天皇の諡らしくない。
 その地において最初の大きな戦いで勝ったことから後のヤマトの国造りの始まりという意味で「イハレ」の地と呼ばれた可能性はある。しかし、諡は地名ではなく功績を考慮した称号である。その功績とはヤマトの建国を始めたということである。
 そもそも、当時の人々にとって尊い祖霊とも神だいう考え方であった。記紀だけでなく万葉集の柿本人麻呂の歌を見ても、ヤマトは神が造った国だと信じられていたと思われる。よって、神を美称に用いるという考えは無かったと考えられる。神は存在すると信じられ、その「神のヤマト」、「神が支配するヤマト」、「神が治めるヤマト」という意味だったのではないかと思う。
 イハレを「謂はれ」つまり由来や始まりの意味だとして、これを始祖と読み替えれば、カムヤマトイハレヒコノミコトは「神が治めるヤマトの始祖である貴い男子であり、日の神の子孫」という意味に読むことができる。神武天皇が「始馭天下之天皇」(日本書紀)とも呼ばれていることとも合致する。
 では、なぜ日本書紀では「磐余」と記されたのか。日本書紀の諡は字に意味を持たせている。ヤマトの国造りが、磐のように強固で余りある軍事力を持って大戦さに勝ったことに始まったとして、「磐」と「余」を諡の字に採用したのではないだろうか。イハレは元からの諡であったから「磐余」をイハレと読ませることになる。倭を日本という字に変えてもヤマトと読ませるという発想と同じである。これによりイハレという土地の呼び名にも「磐余」の字を当てたのではないかと思われる。
 古事記では「伊波禮」となっている。これはイハレの万葉仮名そのままである。イハレという呼称が元からあって伊波禮の字を当てたのである。『帝紀』が文書記録であれば固有名詞は万葉仮名で記され、この字が使われた可能性がある。なぜイハレと呼ばれ「伊波禮」という字が相応しいと考えられたか。「伊波禮」という字をもとに推理をしてみる。
 「伊」の字はよく用いられており、祭政一致制のもとでの治める者の意味である。ハレは大きく広がるさまを示す古来の言葉に万葉仮名を当てたのではないかという想像である。深読みしすぎかもしれないが、カム・ヤマト・イ・ハレ・ヒコノミコトを「神が造ったヤマトの」、「統治者となって」、「(クニの恵沢)を広げた」、「貴い男子であり、日の神の子孫」という読み方をするのも物語としてはありうるのではないか。
 日本書紀の編者は圧倒的な武力で国造りを始めたことに重きを置いてそれに相応しい字にこだわり、古事記とは違う字にしたのではないかと思われる。「神武」という漢風諡は、その字からすると、日本書紀と同一路線のようである。
 天皇としての功績を考える場合は、「若御毛沼命」という名の由来のほうが重要である。若は新しいとか子どもという意味がある。御(ミ)は神に通じる言葉である。毛は毛上即ち地上に生えた穀物のことで、具体的には稲のことであろう。沼は濡れた場所即ち湿地で、水田となる土地である。新しく神の稲が育つ土地を得た王という意味の尊称ではないかと思われる。また、「豊御毛沼命」という名は、豊かに稲が実る土地を得たという意味になる。
 宮の名は「畝火之白檮原宮」(古事記)、「橿原宮」(日本書紀)である。即位のときに造られたことになっているが、宮を造って祖霊の教えに従って国造りをすることを誓って王に就任したことを祖霊に報告したものと思われる。これによって東征の目的が形のうえで達成されたことになる。宮の位置は畝傍山の樫の林が広がる場所だったかもしれない。


⑵ 第二代綏靖天皇
 王位継承前にタギシミミノミコトを殺害した物語があるが天皇としての事蹟は書かれていない。事蹟が書かれていないのは子国の王であったからだと思われる。
 倭風諡はカムヌマカハミミノミコト(神沼河耳命)、日本書紀ではカムヌナカハミミノスメラミコト(神淳名川耳天皇)となっており、微妙に違う。
 神沼河耳命は神武天皇の若御毛沼命、豊御毛沼命という名と同系の名である。沼は水田となる湿地で、河は水利に必須である。神沼河は、沼河を治める力を持った者という意味でその功績を讃える意味かもしれない。兄弟の八井命、八井耳命という名も、多くの灌漑用の井戸を掘ったことから贈られた名のように思われる。
 淳名川の淳はヌとは読まない。そのように読むなら沼河が元の呼び名を反映した字だと考えられる。川を篤く支配した功績に対して淳名川という字を贈ったとすれば、この読み方もヌマカハとすべきだろう。
 「耳」は記紀に共通した字であり、天忍穂耳命にも用いられている。ミミが実を見る、即ち実を結ぶということであれば、沼、河の治水を行い、稲を実らせたという水田作りの成功を想像させるものとなる。
 「綏靖」は安んじる、安泰にするという意味がある。
 軍事支配に続いて食糧増産、産業振興などにより豪族や民を安泰にさせて従える必要はあるから、二代目の天皇に相応しい名である。
 宮の名は「葛城高岡(丘)宮」である。
 葛城という名は、神武天皇が抵抗した土蜘蛛を葛で編んだ網で捕えたことに由来するというのが日本書紀から読み取れるが、捕らえるために網を作るというのは東征部隊の戦い方のように思われない。できあいのものを使った可能性はある。土着豪族が葛を編んでクモの巣のような網状の防御柵を造って周囲に巡らせていた可能性がある。その中にいる者を土蜘蛛と呼んだ可能性もある。その防御網を壊してそれを使って豪族を捕えたのかもしれない。葛網ではなく葛網の城が地名の由来だろう。
 その地を、後に三男の沼河耳命に治めさせていた結果、葛城邑の高岡に宮を造ったとされたのかもしれない。しかし、陵墓の位置を考えると、統治のための王宮殿は橿原に造られた可能性もある。
 綏靖天皇の立太子が十七歳だったとする記述はおかしい。タギシミミノミコトは神武天皇崩御後に日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命を殺そうとして逆に神沼河耳命に殺された。それにより日子八井命らは神沼河耳命に王位につくことを勧めたようになっている。立太子は神武天皇が生存中になるが、崩御後の王位継承順位の変更であれば、立太子のときは日子八井命が皇太子になったはずである。


⑶ 第三代安寧天皇
 同じく事蹟は書かれていない。
 綏靖天皇の第一子で、倭風諡はシキツヒコタマテミ(古事記では「師木津日子玉手見」、日本書紀では「磯城津彦玉手看天皇」)ノミコトである。
 この「師(シ)」は軍隊を意味する言葉であろう。日本書紀には「皇師」という言葉が出てくるが、皇軍という意味である。キが城の意味なら、シキは武装部隊が駐屯する囲われた場所ということになる。古くから環濠や柵を設けて武装部隊を置いて防衛する集落があった。それがシキと呼ばれ、そのような集落が多かった地域がシキムラと呼ばれたと考えられる。磯城郡は縄文時代晩期からの庵治、唐古、鍵、十六面、多などの集落が含まれる広い地域になるが、環濠集落もあった。
 「津」は港の意味があるが、磯城に港はない。川の港という意味であれば大和川沿いのどこかという推理もありうる。現在の川は流れが緩やかな場所では砂が堆積して底が上がっており、河川交通には利用できない箇所が多いが、当時は利用できたかもしれない。
 むしろ、ツは外来語の都そのままの読み方と意味だったという推理もありうる。伊都国をイツと呼ぶべきではないかと述べたのと同じである。統治の中心地であるが宮が置かれない場合はミヤコとは呼ばれず、ツと呼ばれたのではないかという推理である。統治の中心地は交通交易の関係で海沿いに造られることが多かっただろうから、ツに津(音読みでシン)の字を当てる選択もあったと考えられる。
 このように考えると、シキツは大和川沿いのシキの統治の中心地だった可能性があるが、長い川のどの辺りかは分からない。纏向などの大和川東側は初代または第二代天皇のときに勢力下に置かれて池造りや水田作りが広げられた可能性があり、第三代天皇のときに大和川西側も勢力下に置いたということであれば、シキツは大和川が東西に流れるどこかの地点かもしれない。
 シキツヒコの諡は磯城邑全体を平定し治めた功績によって与えられた可能性がある。「安寧」という漢風諡も平定と関係があるのではないかと思われる。
 タマテミという名は何を意味するか。日本書紀の「看」は見守るとか見張るという意味がある。現在の玉手という地域を指すのではなく、「玉」は田間、水田が広がる地域で、「手」は手に入れるという用法を考えると領有する意味が考えられる。磯城を治め、水田が広がる地域を領有して見守った天皇という意味かもしれない。
 第一子は王位を継承せず、第二子が王位を継いだとされる。第三子は師木津日子命(磯城津彦尊)という名である。元々の名であればシキツで生まれたことに因む名だろう。その地を実際に治めさせていた王子に贈った名なら諡ということになる。吉備津日子の例もあるから、後者かもしれない。王の諡と第三子の諡が重なっているのは、第三子の功績の大きさを物語るものかもしれない。師木津日子命の孫に孝霊天皇の妃となった意富夜麻登玖邇阿禮比賣命がいる。
 宮の名は「片塩浮穴(孔)宮」である。安寧天皇は磯城の中心地ではなく後方の大和高田の片塩に王宮があったことになる。
 ウキアナの穴、孔というのは横穴、洞穴のことだと思われる。山の中腹に洞穴があったことからその特徴を宮の名にしたのかもしれない。
 宮は軍事戦略上、伝統的に山の上に造られていたと思われ、片塩の宮も平野を望める山の上に造られたと思われる。葛城から見て、広大な平野の中で畝傍山との間に山が見えるとしたら、現在の片塩町の北西にある小山である。
 安寧天皇の第一子は王位を継承していない。第二子が第四代懿徳天皇となったとされている。