ヤマト王権の始まりの国 3-3-2

六 豪族連合政権説の問題点


⑴ 邪馬台国畿内成立説との関係
 豪族連合政権は邪馬台国畿内成立説とどういう関係になるのかという問題である。豪族連合政権のヤマト王権と畿内にできた邪馬台国のヤマト王権を結びつけようとする試みがあるが、支配・統治の体制を考えると、それは無理であろう。邪馬台国畿内成立説と豪族連合政権説の問題点が出てくるだけである。
 女王卑弥呼は邪馬台国に都を置き、伊都国に一大率を置いて諸国を監視していた。畿内に邪馬台国が成立し、その王が有力豪族と連合してヤマト王権をつくり倭の諸国を監視するということになるのか。その有力豪族とは諸国の王ではなく、邪馬台国王の臣下として諸国の支配に参加するのか。いずれにしても対等の「連合」は存在しない。
 邪馬台国王と有力豪族が連合政権を構成し、邪馬台国王が倭国の王になったというにとどめ、諸国を監視する一大率の存在を無視するのはおかしなことである。魏志倭人伝の記述にあるような一大率は畿内には置かれていないが、倭国というレベルで考えるなら無視してはならない。


⑵ 「連合」の曖昧さ
 王権とは王制の権力であり、王という一人の支配・統治者による統治体制である。連合の意味は異なる勢力がある目的のために対等関係で合同することである。連合は構成員が対等の関係で決定に参加する形態である。組織が大きくなると、構成員の参加を保障するための決定システムが必要となり、あたかも上下関係があるように見える。しかし、二、三世紀頃に、広域権力に民主主義的な決定システムがあったとは思われない。せいぜい王や豪族の合議による。
 連合政権が王と有力豪族の対等の立場での政権なら、王制と相容れない。それぞれに小国を持つ豪族が王に服属し対等関係ではなく支配関係をもった国の連合体であれば、連合政権とは言えない。豪族が決定権を持たず臣下として輔弼するだけならおよそ連合ではない。
その合議体の最終決定権限と執行権限が特定の豪族の家系の者に委ねられ、その地位が世襲されるのであれば連合ではない。
 連合は合意によるものである。畿内に環濠集落など防衛集落がある状況で連合ができていたとは言えないだろう。しかも、国としてまとまることの意味は、武力による強制、領土領民の確定と防衛、国力の強化のための領民の育成を統治者が行うことにある。これを豪族の合意によって決め、執行者を指名していたなら豪族連合政権だと認めてよい。しかし、そういう体制が具体的に説明され証明されたわけではない。
 畿内に散在する複数のムラの豪族が合意のうえで合同して王を立てて、その王にすべてのムラが従うという必要性があったとか、畿内の有力な豪族らが互いに手を結び、連合して政権を造る必要性があったとの具体的な説明も証明もない。
 畿内に王権が成立するほどであれば、河内や淀川水域は海運に必要不可欠であり、早々に支配下に置いていたと考えられる。大陸から建国思想が入ってきていたなら、覇権主義、帝国主義の国造りが進められただろう。王や豪族の間で協定をすることはあっても、豪族連合政権を造るという発想はなかったと思われる。


⑶ 「連合」説の根拠
 豪族連合政権説は、前方後円墳など墳墓形式や埋葬法などが統一されたことをもって広域的に同一文化をもった政権が成立したとする。
 前方後円墳様式を「連合」の根拠にするなら、方形周溝墓という同一の墳墓形式が畿内のみならず東北にまで広がっていたことをどう考えるのだろうか。文化は権力の性格を判断する要素になるが、文化だけをもって権力の成立の根拠とすることはできない。
 方形周溝墓を造って先祖を祀っていた豪族が、連合政権に参加したからといって、方形周溝墓を廃止して新たに前方後円墳様式の墳墓を造る理由にはならない。政権に参加しない非有力豪族も方形周溝墓を止めたのなら別の理由である。方形周溝墓への水路を利用して周濠式の溜め池を掘り、その中岡を墳墓にして改葬したか、強制的に廃止させられたか、新しい文化をとり入れる気風があったかのどれかであろう。
 方形周溝墓に代わる墳墓形式の統一は一斉に行われたのではない。一世紀くらい併存した時代があるのは「連合」が広がったからではなく、新たな葬送形式や文化をもたらした勢力が台頭して方形周溝墓を造る文化を持っていた人々が新しい文化をとり入れ、徐々に変わっていったからだと考えるのが妥当ではないかと思う。
 なお、王宮が畿内の各地に移ったことをもって、畿内で豪族連合政権が成立したという主張がある。しかし、これは根拠にはならない。宮は王の祖霊を祀るところであり、祀りごとをどこで行うかは王の意思による。宮殿の規模や婚姻の形態とも関係するが、通常は居所で祀りごとをするだろう。よって、臣下が謁見して指揮を仰ぐ場所は、宮のある王の居所になる。王宮が移るのは、居所が変わるからである。
 豪族も同様で、自ら定めた場所で祖霊を祀るだろうが、その祀り方は先祖から受け継いだもので、他の豪族らと協議して統一するようなものではない。王墓が各地にあるのもそれぞれの王又は王位継承者の意向にもとづくものであろうから、豪族連合の根拠にはならない。豪族の墓はそれぞれの伝統に則ったものになるだろう。


⑷ 連合に加わった豪族は?
 連合に加わった豪族というのがどこの豪族のことか、諸説あって明らかでない。漢に朝貢していた三十ケ国にはそれぞれ王がいたとされるが、その王ならば地方の有力豪族という言い方はやめるべきである。
 豪族連合を考えるなら、王の出身氏族とその他の「有力氏族」が考えられる。三世紀初め頃まで、当時の豪族はどこかの地域を領有し、ヤマト王の出身氏族も畿内のどこかを領有していたことになる。
 奈良平野西部の葛城、生駒辺りは河内、瀬戸内海につながる重要地域であり、その地の豪族は連合するより支配することを考えるだろう。
 縄文時代から集落を形成し、環濠も造って防衛している中央部や南東部の豪族は互いに干渉しないようにしたかもしれないが、そこにどういう豪族がいたか不明である。ヤマト王権を構成する豪族なら記紀に記されていてもおかしくなないが、記紀は豪族連合政権説ではない。
 奈良平野の東部には後に三輪君となる豪族がいたと思われる。ヤマト王権にとって重要な地域であるが、吉備の遺物が発見されているから、吉備系の豪族の可能性もある。
 穂積臣と物部連となる豪族はニギハヤヒノミコトの子孫を名乗っている。大乱前の倭国の時代に畿内に進攻した部隊の子孫だと言いたいのかもしれないが、穂積氏は山辺郡の出身だとされており、関係性は不明である。物部氏は後にヤマト王権の軍事部門に携わっていた。この二豪族が元々どこを治めていたか不明である。
 武内宿禰の子孫を名乗る豪族は後世の豪族ということになる。
 豪族が分からないまま連合政権を造ったというのでは虚構でしかない。


⑸ 「連合」の目的
 複数の豪族が合同して一つの権力組織をつくるには、それを必要とするきっかけがあるはずである。これには各豪族の治める土地と豪族の関係を考えなければならないが、そもそも豪族の名も場所も分からない。従って連合の地域的範囲も分からず、目的を探ることもできない。
 交易や交流には連合政権は必要なく、提携で足る。
 農耕集落にとって水利は重要であるが、それぞれの水利系での問題であり、畿内全体で争ったり合意したりするものではない。例えば大和川の水量が減り、下流域で水不足が生じた場合、上流域の農耕集落も水が不足気味であっても水争いをせずに何らかの合意ができるだろうか。連合政権ができていれば争いは起こらないというものではない。
 水路、溜め池などが広く作られる前、水利の悪い不毛の土地が多かったなら、集落は水利のよい場所を選んで広く分散していたかもしれない。分散した集落の豪族が連合する目的は考えづらい。
 野盗の類への防衛であればムラやクニごとの対応になる。あるいは近隣のムラ同士が互いに支援して撃退することは考えられる。これらは地域限定になる。ムラやクニにとって、広域的に連合しても支援を得られないなら、必要性を感じないだろう。
 考えられるのは、武力による強制力を統一させる必要がある場合である。強制力を持たなければ政権として意味がない。
 一つは畿内内部の争いを止め、広域的に単一秩序をつくる場合であるが、三世紀前半に畿内で広く争いが起きて講和、連合へと進んだような事件は見当たらない。
倭国大乱をそれらの契機となった事件として見る向きがあるかもしれないが、豪族連合政権成立と目されている時代と違う。女王を共立したことをもって連合政権だというのかもしれないが、女王が諸国を服属させ、一大率を置いて諸国を監視する体制は連合政権ではない。
 もう一つは外部から畿内を脅かすような大掛かりな侵略があり、それに対して防衛する場合である。当時の戦争は、相手の王と王族を捕らえ、又は殺害することで目的を達するということが多かっただろうから、畿内防衛は王と王族を守ることが主眼となる。都の防衛が主であり、必ずしも畿内全体を防備することにはならない。豪族連合政権が政権の長の防備をし、豪族とその集落を防備するのはそれぞれの豪族に任せるということなら王制の場合と同じである。畿内防衛は連合政権として行うのではなく、各豪族が軍を持ち、それぞれの地で防衛することになるだろう。しかし、三世紀前半に畿内が大掛かりな侵攻を受けたという形跡はない。
 三世紀中頃は、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼が相攻撃した時期である。卑弥呼は死に、後に壱與が女王となる。邪馬台国も倭国もこれより以前に成立している。この事件により豪族連合政権ができるはずはない。


⑹ 世襲制
 豪族の中には領地と武力を持ち、王族を支援して王位争いに加わったものがあるが、豪族そのものが王になろうとした事例はこの時代には見当たらない。豪族はあくまでも臣下という立場を超えることはなく、王の姻戚関係になることで地位と利益を得ようした。
 豪族合議制のもとに王がその決定に従うというものであれば豪族連合政権と言えるだろうが、豪族は建議や進言などをするが決定権は王だけにあるというのであれば、豪族連合政権と呼ぶべきものではない。しかも、豪族が地方の国の王のことであれば、中央王権に関わるのは無理である。
 世襲は先代の全てをそのまま引き継いで替わることである。各一族内部の問題で、その血筋の者が順位に従って継承する私的なものであるが、継承の対象には地位もある。地位は公的私的の区別なく継承されるが、公的社会的な地位が世襲には重要である。豪族の場合、ムラやクニを治める地位は私的な財産の延長である。その子孫が財産の継承に伴って治める地位も継承することは当然の規範のごとく考えられていたと思われる。
 しかし、王位という国を治める地位は、王家の財産の継承に伴いその管理運営をするという意味での地位ではなく、それを超えた国に関わる独立した地位である。国の財産は王家の財産と同じではない。領土領民も軍も王家の私的な財産ではなく、命令し強制する権限と地位が継承の対象となる。その権限と地位は公的なもので、建前としては私的に勝手な使い方をすることは許されない。
 王位を世襲としたことで、豪族間での王位の交代可能性はなくなり、王は豪族らの上に立つものになる。その権力は臣下の関わり方の違いはあるが中央集権制になっていく。これを王と豪族の連合政権と呼ぶのはおかしい。
 邪馬台国の王の地位は世襲制であっただろう。王権に関わる豪族も世襲である。王と豪族の連合ではなく、豪族が輔弼する王制だったと考えられる。


⑺ 豪族連合政権の成立時期
 地域的には、畿内、畿内と周辺国、倭全体という広がりにおいて、どの段階で連合政権が成立したと言っているのか、諸説あってはっきりしない。
 元々の豪族連合政権の成立時期は三世紀が想定されているが、魏志倭人伝の国々のどれに当たるのか、あるいは含まれていないのか不明である。その時期に畿内に豪族連合政権のヤマト王権ができたとするのは、倭国の状況から見てかなり遅れている。
 邪馬台国をヤマト国と呼んでヤマト王権の国だとするなら、ヤマト王権は倭国成立前の遅くとも一世紀までには成立していることになるだろう。それを豪族連合政権とする根拠はない。
 女王卑弥呼の共立をもって連合政権成立とするなら、二世紀中になるだろう。しかし、女王の統治は、前述したように「連合」体制ではない。
 倭国大乱の前の倭国は、魏志倭人伝などによれば、九州にあったと考えるしかない。伊都国に一大率を置いて各国を取り締まったのは、そこが倭国王権の統治の拠点であったと考えるべきだろう。