ヤマト王権の始まりの国 2-3

五 狗奴国と卑弥弓呼
 狗奴国の王の名は卑弥弓呼である。後漢書にはない。
 字は「卑弥呼」に「弓」の字が入っただけである。一字挿入だけの違いは偶然のこととは思えない。卑弥呼を連想するような言い方も字の選び方も、卑弥呼と似た地位にあると想像される。中国側が卑弥呼に対して卑弥弓呼という字を当てたのは関係がある人物ないし地位だったからではないかと思う。
 よって、これをコナクニの王ヒミココと読むなら、この二つの名はコという言葉によって関係づけられていると考えることができる。また、コがヒミコとヒミココを分ける言葉になる。コは子の意味だと考えれば、本国と子国の関係になり、両国の王の関係がヒミコとヒミココという称号に表れていることになる。
 それだけでなく、子国王が本国の王と共通する祖神を祀るなら同族であり、子国のミヤ(宮)は本国のミヤのコという関係になる。
 ところが、卑弥弓呼は「ヒミクコ」と読まれることが多い。名の意味を推理することは放棄されているのだろうか。ヒミクコと読むのは、「弓」は呉音で「ク」と読むからである。しかし、「呼」も呉音ではクと読む。「呼」をコと読むなら、なぜ「弓」だけ呉音のままに「ク」と読むのか理解できない。
 考察の順序としては漢字の読み方ではなく倭でどう呼ばれていたか、どういう意味があるのかを考えるのが先である。ク音とコ音のどちらにも聞こえるような発音がされていれば、漢字もその発音に近いものが選ばれただろう。口をあまり開けずにヒミココと発音した場合、ヒミククのように聞こえた可能性がある。弓や呼の字を当てたのはそういう理由かもしれない。
 以上に対して、「卑弓弥呼」(ヒコミコ、彦御子)説というのがある。卑弥呼をヒメミコと読み、卑弥呼を女王、卑弓弥呼を男王として天皇と同等の地位を想定しているが、勝手に名前を変えるべきではないし、天皇はヒノミコ(日之皇子)と呼ばれている。
 邪馬台国が王を日の神の子孫だとしてヒミコと呼んだと考えることができるならば、ヒミココはヒミコのコであろう。卑弥弓呼は、神の子孫から枝分かれした子孫である王の地位を示す言葉となる。そう考えれば、ヒミココが治める狗奴国は、ヒミコの国から枝分かれした子国であるという推理と重なってくる。
 では、卑弥弓呼という字が用いられたのはなぜだと考えるか。
 狗奴国の王なら卑弥狗呼や卑弥呼狗でもよかったという意見があるかもしれない。しかし、王の地位名に狗という字を用いるわけにはいかなかったのだろう。
 ヒミココを卑弥呼呼と書けばよいかもしれないが、同字を重ねるのは避けられた。実際上も誤字と思われるかもしれず、良くない。他に「コ」に代わる漢字として「弓」を使ったのだろう。男王は武人であるから、武器の「弓」の字を用いる意味があったとも言える。卑弥呼弓と書くと卑弥呼の弓になって紛らわしい。卑弥弓呼という表記に落ち着いたのだろう。ただし、これは憶測である。


六 拘(狗)奴国の素性と成立時期
 後漢書に拘奴国が登場するのは漢の時代に拘奴国が成立していたからだと考えられる。つまり、漢が滅ぶ二二〇年より前に成立していた。そのどれくらい前かは、拘奴国がどういう国かという想像による。
 後漢書には女王卑弥呼を共立した記事の次に拘奴国のことが書かれている。しかも、東に海を渡ること千余里のところにあると書かれている。
 拘(狗)奴国を邪馬台国の子国と考える説では、九州を中心に支配する国々の総称である倭国ができ、卑弥呼が女王に共立された後に邪馬台国が東征を再開し、畿内に領地を得て子国を造ったと考える。従って、後漢書の記載順序と一致する。
 東征も理由がある。邪馬台国が九州の国々を従えて倭国をつくったなら、その意思と勢いでさらに東方へと勢力を広げ、安芸、吉備、播磨、河内、畿内へと平定していくだろう。ところが倭国大乱で王がいない時代には東方平定は中断する。女王共立により国情が安定すれば再開というのは当然考えられる。
 記紀の東征物語は史実性を疑う箇所はいろいろあるが、天皇家と国の成立に関わる物語を全くの架空の物語にするとは思われない。イハレヒコノミコトの東征が成功したのは、大乱前の東征により邪馬台国軍の子孫が畿内で生活していて東征軍が来たと聞いて集結したからだと考えられる。東征については後に述べるが、この成功によって邪馬台国王から畿内の領地を治めるよう命じられ、王家をつくり、王家の名をヤマトと称したのではないかと思う。ヤマト王家が治めるのは邪馬台国の領地である子国であるが、畿内を発展させた王家を尊びヤマトノクニと呼ばれるようになったのではないかと思う。
 このように考えると、子国の成立は倭国大乱と女王共立の時期から推定することになる。
『後漢書』には、桓帝(在位百四十六年から百六十八年)と霊帝の間(在位百六十八年から 百八十九年)に倭国大乱があったとある。女王共立は霊帝の時代に入った百六十八年以降となる。
 『三国史記』新羅本紀第二には、阿達羅尼師今の二十年(百七十三年)に倭の女王卑弥呼の使者が訪れたことが書かれている。
 『梁書』倭伝には、光和年間(百七十八年から百八十四年)の間に卑弥呼が共立されたことが書かれている。
 時期が曖昧なのは、卑弥呼がすぐには漢に朝貢せず、女王共立の時期が記録にとどめられなかったからだろう。総合的に判断して、女王共立の時期を百七十年代から百八十年代前半ころと推理した。その後に東征を行い、畿内を平定したと考えられる。
 従って、拘(狗)奴国の成立時期は百八十年代後半以降であると思われる。よって、漢が卑弥呼や拘奴国を知っていても時期的な問題はない。


七 女王に属さずとは
 倭種であるという意味を考えれば、倭国に含まれるが、女王には服属していないという意味になる。
 不属を不和と関連づけて、王同士が争っている敵対国は不属の国だという論理が考えられるが、他にも敵対関係にある国はあっただろう。不和というのは、和するべき関係にあるが和さない状態を言う。服属せよ、降伏せよと言われて拒否しているというのは、抵抗や抗拒であって不和とは言わない。同族の王同士の対立という内部問題であると考えるのが妥当である。
 邪馬台国が畿内に造った子国であれば、邪馬台国の一部であり、女王に服属することはない。
 卑弥呼は邪馬台国の王である。邪馬台国に卑弥呼がいる都があるというのはその国の王だからである。邪馬台国が倭国に服属するというのはありえない。拘奴国が邪馬台国の子国であるなら国としては一体であり、卑弥弓呼が卑弥呼に服属することにもならない。
 奴国が女王の境界の尽きるところというのは、その国までが女王の支配が及ぶ範囲だという意味で、支配被支配の関係にない王族の国は、境界内外とか属不属の問題ではない。拘奴国は支配が及ばず、服属もしていないことを説明するために不属と書いたのだろう。
 この拘奴国の卑弥弓呼は卑弥呼と相攻撃し、卑弥呼を死に追いやる。それほどの力を得たのは、畿内の発展によるものである。これについては、後に述べる。