ヤマト王権の始まりの国 9-1

第九章 初期天皇


一 記紀の初期天皇の系譜は正しいか
 記紀には、天皇の子と王位継承者が書かれており、系譜はいずれも先王の子としてつながっている。しかし、古事記と日本書紀は死亡年齢がかなり異なっており、長命過ぎて明らかにおかしいものがある。
 このことから、記紀の天皇の系譜そのものがおかしいと考えるべきだろうか。


⑴ 欠史八代説
 ヤマト王権の始まりの国の初期の天皇について、欠史十三代説や欠史八代説がある。欠史八代説が多いそうであるが、この説は記紀に事績が記されていない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の天皇は実在しなかったという説である。
 しかし、神武天皇は事蹟が書かれているから実在したというのであれば、第十代天皇との間に八代の天皇を入れた理由は何なのか。
 イハレヒコノミコトは畿内に宮を造り即位したとされるが、東征と橿原宮を造って即位するまでの物語は書かれているものの、古事記には大王(天皇)としての事績は書かれていない。東征が架空だと言うのであれば、神武天皇の実在は疑わしいと主張すべきだろう。もっとも、日本書紀には即位後に論功行賞、巡幸等を行ったように書かれている。これは子国の王であっても行うことができる。国の名づけというのも疑問があり、後世になって神武天皇を初代天皇としたことで、国の名付け親のようにしたのだろう。
 以後第九代天皇まで出自や即位までの事柄は書かれているが大王としての事績が書かれていない。神武天皇同様、倭国の大王ではなかったからだと思う。本国の命令にもとづいて行ったことは大王の事蹟にはならない。第七代孝霊天皇のときに吉備を平定したことの事蹟が書かれているが、本国の命令ではなく畿内の王家が自ら行ったから載せたものと考えられる。妻子と王位継承が書かれているのは子国の王として実在していたからだと考えることができる。
 第七代孝霊天皇以降、妻子の数が増えているのを考えると、その頃には畿内王家の勢力はかなり強くなり、大人数の王族を支える経済的基盤と各地の豪族とのつながりができて、軍事的にも王族や姻族の男子を中心に強化されていたのではないかと思う。
 第十代崇神天皇において邪馬台国王家から倭国の王権を移譲させて初代の倭国王となった。
 記紀は地上社会の歴史に忠実な記録ではない。神の歴史という論理で物語を構成したものであるが、東征以後は天皇家の成立と事績を綴ったものと考えられる。この天皇家は倭国の統治権を得る前の畿内王家に含めているため、その時代は倭国の天皇ではなかったという意味では実在しなかったと言える。天皇としての欠史という意味では、初代から第九代までがそうであり、欠史八代というのはおかしい。
 神武天皇から開化天皇までは倭国の大王ではなかったから、その称号が贈られることはない。しかし、畿内に邪馬台国の子国、後の別名ヤマトノクニを造り、それが発展し倭国の王権を築くに至った歴史を振り返って、ヤマトノクニの建国に遡って、歴代の王に天皇の称号のある諡を贈ったものと考えられる。天皇という称号は倭国の大王と同じ意味ではないと考えればよい。
 天皇という漢風諡、和風諡は飛鳥時代に始まったと言われている。存命中の王はオホキミ、ヒノミコ、スメラミコトなどと呼ばれていたかもしれない。先祖らはミコトの称号で呼ばれていただろう。それまでにも和風諡のような名があったが実名だったと考えられている。
 その後、国号は倭から大倭、日本へと変わり、日本書紀の諡にもそれが反映されている。古事記も同じ呼び名であるから字を変えただけかもしれない。


⑵ 天皇の在位期間の記述
 古事記と日本書紀とで天皇の死亡年齢は異なるが、どちらも異常なものがある。日本書紀は在位期間や死亡年齢はある程度書いてあるが、死亡年齢も在位期間も明らかに長過ぎるものがある。
 神武天皇は四十五歳で東征を決意し、五十一歳のとき即位して七十六年間在位し、百二十七歳で死亡したことになっている。この死亡年齢はありえない。十五歳で太子に立てられたというのもおかしい。
 綏靖天皇は、神武天皇四十二年、同天皇九十三歳のときに、十七歳で皇太子に立てられた計算になるが、神武天皇が七十六歳のときに生まれたことになる。しかし、タギシミミノミコト暗殺事件からすると、立太子というのはおかしい。
 安寧天皇は、綏靖天皇二十五年、同天皇七十六歳のときに、二十一歳で皇太子に立てられた。綏靖天皇が五十五歳のときに生まれたことになる。即位が立太子前の十九歳というのはありえず、計算上の即位年齢は二十九歳である。在位三十八年で、六十七歳で死亡したことになる。日本書紀は死亡を五十七歳のときとしている。
 懿徳天皇は、日本書紀では安寧天皇十一年、同天皇三十歳のときに、十六歳で皇太子に立てられた。安寧天皇十四歳のときの子になる。計算上は安寧天皇が二十四歳のときの子で、即位の五年前に生まれたことになる。立太子から二十七年後の四十三歳で即位し、七十七歳で死亡した。
 孝昭天皇は、懿徳天皇二十二年、同天皇六十五歳のときに、十八歳で皇太子に立てられた。懿徳天皇四十七歳のときに生まれたことになる。孝昭天皇は三十歳で即位した。在位八十三年、百十三歳で死亡したとされている。この数字は異常である。
 孝安天皇は、孝昭天皇六十八年、同天皇九十八歳のときに、二十歳で皇太子に立てられ、三十五歳で即位した計算になる。孝昭天皇七十八歳のときに生まれ、在位百二年、百二十七歳で死亡したとされている。これらの数字も異常である。
 孝霊天皇は、孝安天皇七十六年、同天皇百十一歳のときに、二十六歳で皇太子に立てられたとされ、五十二歳で即位した計算になる。孝安天皇八十五歳のときに生まれ、在位七十六年、百二十八歳で死亡というのも異常である。
 これらは、即位の時期を過去に遡らせるものであるが、そのようにした理由は、消した歴史を埋め合わせるためだと考えられる。それも女王時代だけを消すのではなく、その理由となった倭国大乱を消し、倭国そのものを消すのである。そして、地上の倭国はイハレヒコノミコトが造ったヤマトの倭国だけだとする。時代としては、ヤマト(倭)国の成立を倭国の成立のときにまで遡らせる考え方になる。さらに邪馬台国の建国のとき、あるいは朝鮮での建国のときに遡らせようとしたかもしれない。
 このようにして、邪馬台国や倭国の王の歴史などは神の物語にしてしまう。元々の倭国成立時に遡って初代天皇の即位時期とすればよいのである。倭国成立がどれくらい前だったかは、おそらく、女王を含めて代々の倭国王の在位期間は伝承や記録にもとづいて逆算できたと思われる。
 しかし、これは理屈であって、数字を入れるだけなら倭国成立時に遡る必要はない。何百年も前に遡らせればよいのである。


⑶ 在位期間の修正
 では、初代天皇からどの天皇までの在位年数をどれだけ膨らませていくか。初代から第九代天皇までの在位期間だけを膨らませると、前後の違いが目立つかもしれない。歴史の改竄を疑われるのを回避するには、後の天皇の在位期間も膨らませ、過去を倭国成立よりもっと前に遡らせて「ありえない数字」にするのがよい。「神の年齢」の表現であって改竄ではないと説明するのである。
 膨らませ方は、実際の在位年数に加算をするだけである。実際の在位年数は、当時は記録があったのかもしれないが分からない。加算の方法としては乗法が考えられる。推定するには、子国が成立し倭国の統治権を移譲させるまでの推定期間とそれに相当する記紀の合計在位年数との比較だけでは足りない。第十六代仁徳天皇まで死亡年齢の異常があり、その時代までを推定して比較する必要がある。
 問題は、膨らませ方に法則があったかどうかである。これが分かれば、おおよその実際の在位期間を推定することができる。実際の在位期間は、子国の王が実働部隊を率いる立場であったことを前提に考える必要があり、短期であっても異常とは言えないかもしれない。
子国の王の就任を初代天皇の即位に置き換える場合は、東征の成功からになる。それを倭国成立の頃に遡らせ、さらに適当な数字の倍数に遡らせる。倭国成立を一〇〇年頃と想定し、初代天皇から第十三代成務天皇までの在位年数を日本書紀の三分の一を四捨五入した数字とする。そして、東征の成功を二〇〇年頃と想定し、更にその二分の一を四捨五入した数字とする。ほぼ六分の一である。
 仮に記録や伝承があれば、それをほぼ六倍に膨らませたと想像することになる。掛け算ができなくても同じ数字を六回足せばよい。
 しかし、単純にそのようにするだけでは推古天皇即位五九二年や継体天皇即位五〇七年から遡った数字と合わない。在位年数を膨らませる法則は見いだせないが、辻褄合わせはできる。その方法は次のとおりである。
 第十四代仲哀天皇から神功皇后を含めて第十六代仁徳天皇までの在位年数を日本書紀では三回足した数字としたと想像する。
 第十七代履中天皇から第三十三代推古天皇までは日本書記の在位年数そのままとする。崩御と即位の年は西暦では同じであることが多いが、厳密に行うと第二十七代継体天皇の即位から推古天皇即位までの年数は一年合わない。よって、これについては崩御の月を考慮しながら微調整する。
 このようにして推古天皇即位から遡っていくと、下表のようになり、神武天皇即位は一九〇年代前半、崇神天皇即位は二九〇年前後頃となる。孝元天皇の崩御は三世紀後半後期頃となり、古墳の築造時期には反しない。
 (下表) 省略


 四 王と宮の名
⑴ 宮の名の由来をどう推理するか
 ミヤコを造った頃の宮の名は筑紫岡田宮,安芸多祁理宮、吉備高嶋宮と同様に、そこの地名によるのが通常だっただろう。地名というものは名づけられてしまえば、昔からその名だったかのように思われることが多い。地名の歴史を知らないときはそうなる。現在までに地名が変えられたところは極めて多いが、過去の文献に出てくる地名が現在のどこに当たるのか不明な場合もある。例えば「阿岐國之多祁理宮」のタキリの地名は残っていない。また、古い地名はいつ付けられたのか分からないことが多い。
 おおよその地域が分かっても、地点特定は難しい。そのため、宮がどこにあったかを確定するのは難儀である。
 記紀では名は同じでも字が違うことが多い。書き方も違う。古事記では「坐〇〇宮」と記述されているが、日本書紀では「都〇〇。是謂〇〇宮。」、「遷都〇〇(地)。是謂〇〇宮。」、「更都於〇〇。是謂〇〇宮。」などの書き方になっている。都の後にある名は地名である。従って、古事記の書き方は先に地名が書かれ、次に宮の特徴などによる名が書かれているものと思われる。宮名(号)が地点特定に役立つ場合がある。日本書紀の都は王宮殿のある場所を示すものだろう。


⑵ 王の敬称の由来をどう推理するか
 王族の名には特徴がある。男子の名の主なパターンは、〇〇ヒコノミコト、〇〇ノミコト、〇〇ヒコ〇〇ノミコトである。女子の場合は〇〇ヒメノミコトである。
① ヒコ(彦)は現在では男子のことを意味するが、かつては男子の尊称とも言われた。 古事記には日子、比古、毘古の字が用いられている。(毘は呉音ではビと読むが、本書では「ヒ」に統一している。)ヒメは、比賣、毘賣のみで日賣はない。万葉集の柿本人麻呂の歌に「日女」が登場するが、ヒルメと読まれている。
 イザナミノミコトが生んだ神々にヒコ、ヒメが出てくるのは、尊称というわけではないだろうが、日神の子孫を称する王族の尊称として日子、日女と言ったのかもしれない。天皇の和風諡にも日子、毘古、彦が付けられている。第十五代応神天皇以降の天皇には日子の字はない。
② ミコトも、イザナギノミコトの禊の際に生まれた底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、月讀命、建速須佐之男命からすれば、神の別名の呼び方のようである。これらのミコトも王族の尊称というわけではない。
 しかし、人にミコトの名を付ける場合は、神の子孫であるという意味の尊称であると思われる。従って、性別を問わない。「命」という字が使われたのは神から託された者という意味だろうか。日本書紀では、註にあるように尊と命の字が使い分けられている。ニニギノミコトは「天津彦彦火瓊瓊杵尊」である。大己貴は神だったり命だったりする。神と尊が併用されている場合もあり、分かりにくい。
③ よって、ヒコのミコトと呼ばれるときは、日の神の子孫の男子という尊称だと考えてよいのではないかと思う。ヒメのミコトは日の神の子孫の女子である。
 天皇についてはヒノミコという呼び方がある。古事記に「多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美(高光るヒノミコ、八隅知しわが大王)・・・」という歌がある。日の神子(御子)という意味であろう。万葉集では「日之皇子」、「日之御子」が登場する。
  
⑶ 諡
 〇〇ヒコ〇〇ノミコトなどは諡だとされている。そうであるなら、ヒコとミコトのそれぞれの前に記された名の意味を推理することで、その王の生まれや誕生場所、業績などを想像することができるのではないかと思う。第二代から第九代までは実在しない天皇であるという説が多いが、古代の王権に関わる者たちが諡を考える場合、その王が実在しなかったという前提で考えることはしないだろう。子国時代の王に諡を贈った王は先祖に敬意を払って名を考えたはずである。