ヤマト王権の始まりの国 2-2

三 狗奴国は畿内にあった


⑴ 邪馬台国子国の成立場所
 邪馬台国が東方拡大の一環として子国を造ったなら、安芸、吉備、針間(播磨)、畿内、近江、尾張などが考えられるが、安芸、吉備、針間(播磨)には既に国があって、倭国成立後に従えていたと思われる。畿内にヤマトという国があってそれを平定したなら、ヤマトが後の倭国になることはない。畿内は広大でまとまった国はできていなかった可能性がある。だとすれば、畿内進攻は国を服属させるのではなく新たな国を造ることになる。記紀の東征物語はこれを反映している可能性がある。
 当時の地形を考えれば、広い平野がある畿内が国造りの拠点に最も適していると考えられただろう。大阪湾は内陸に入り込んで河内平野はまだ形成されていなかった可能性がある。農耕集落がそれなりにあって国造りの拠点とするのに相応しい地として畿内は知られていたと思われるが、集落が分散し国としてまとまっていないことが不思議に思われていたかもしれない。その理由は水利にあったと考えられる。
 では、拘(狗)奴国の位置は、魏志倭人伝や後漢書から推理できるだろうか。


⑵ 奴国の南
 魏志倭人伝では狗奴国は周辺国として紹介されている奴国の南にあるとされる。
 ところが、奴国は二つ出てくるため混乱がある。
 一つは、伊都国の次に紹介されている奴国である。官名も戸数も行程も書かれている。倭奴国の名残かもしれない。この奴国までが女王の境界だというのはおかしい。その次には東の不彌国が書かれ、南には水行二十日の位置にある投馬国、水行十日、陸行一月の位置にある邪馬台国のことが書かれている。南に狗奴国があるとは書かれていない。よって、この奴国の南に狗奴国があるという解釈はとれない。
 もう一つの奴国は、「その他の周辺国」として二十一の国が紹介された中の最後の国である。女王の境界の尽きるところである。周辺国は遠く離れていて国の詳細は分からないとされている。よって、名は同じであるが先の奴国とは別の国である。しかも、遠く離れているというのは九州地内ではないと思われる。狗奴国はその南にある。
 ところが、「其南」を邪馬台国の南のことだと解釈する説がある。女王国の北に周辺国があってその国々の説明があり、女王国の南に狗奴国があるという読み方をする。周辺国は詳細は分からないとしながら狗奴国については王や官の名が記され、卑弥呼と攻撃し合ったということで、周辺国とは違うと考えるのであろう。狗奴国が隣接国で漢の時代から争っていたのを「素不和」と考えるのかもしれない。しかし、卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合ったからといって隣接していることにはならない。後漢書の記述では東に海を渡ったところに拘奴国があるとされているから、女王国の南と読むのは妥当ではない。
 介入した張政は狗奴国がどこにあってどういう王がいるかは分かっていたはずである。その国の王への対応をした様子がないのは隣接する敵対国ではないからだと思う。


⑵ 後漢書の記述と信用性
 後漢書には、倭国大乱と女王共立に続いて、女王国から東に海を渡ること千余里に狗奴国があり、皆倭種であるが女王に属さない(「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」)と書かれている。これは明帝の時代のことではなく、その後の後漢書などで追記されたものである。
 魏志倭人伝は、倭国大乱と女王共立に続いて、東に海を千余里渡ると倭種の国がある(「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」)という記述で、国の名は書いていない。
 魏志倭人伝は古い後漢書などを参考にしていると考えられるが、東に海を千余里渡ったところにあるのは「狗奴国」のことではないと解釈して国名を外し「復有國」で済ませたのではないかと思う。他方、范曄は古い後漢書などに従ってそのまま書いたのであろう。「東度海千餘里至拘奴國」は范曄の間違いだと言われるが、古い後漢書や東観漢記などにどう書いてあったかが重要である。
 「復有國皆倭種」という記述は何を意味するか。「復」は、別のとか別にという意味で、「倭種」というのは、倭の国に分類される国の意味だと考えられる。韓に三種有りとして、馬韓、弁韓、辰韓の三国に分類されるのと同じである。「皆」というのは、他の国々を想定して、これもという意味合いに捉えればよいのではないかと思う。「拘奴国」は複数の国の集合体と考える主張があるかもしれないが、王と長官がいることから一国であると考えるべきである。
 つまり、「復有國皆倭種」」は、(女王国は)別に国を有しておりこれも倭国に含まれるという意味に読むのである。邪馬台国の別の国、子国のことである。これを狗奴国と書くには女王国からの距離が違うため躊躇したのであろう。
問題は「千余里」という距離である。
 これは中国側が直接調査した距離だとは考えられない。使訳は日単位の移動を報告し、それを中国側から見た行程に変えたのであろう。使訳はどのように伝えたのだろうか。
 楽浪郡から朝鮮半島を海路で南下した後、対馬、壱岐などを経て、九州に渡ることになる。対馬まで一日、そこから壱岐まで一日、そこから九州本土までおそらく一日としたと思われる。実際の距離はみな異なるのに一律に千余里としたのは、船で渡海する場合、一日の行程を「千余里」とみなしたものと思われる。
 ただし、後漢書には単に「萬二千里」とあるだけである。倭の使訳は倭国から楽浪郡まで船で十二日かかったという説明をしただけで、漢はそれを一万二千里とだけ記録したものと思われる。
 陸路では、徒歩での一日は日中の移動距離を想定して百里(約四十キロメートル)とみなしたと考えられる。陸沿いに進む場合の距離は、陸路や陸行の距離と大きく違ってはならないから、陸路・陸行に準じた距離が表示された可能性があるが、後漢書には水行という言葉はない。
 魏志倭人伝では、海路、陸路の測り方は後漢書を踏襲していると思われるが、水行、陸行という距離の測り方が加わっている。
 では、九州から畿内まで、どのような距離の見立てだったのか。
 渡海で千余里とあるから海路一日だということになるが、九州から畿内まで船で一日の距離ではない。手漕ぎの船で日中進んで四国の愛媛辺りまでが一日の距離である。
 しかし、九州から畿内までの海路は陸路沿いである。陸路で五百キロメートル以上あり、軍の派遣などの実績から陸路の所要日数が十日余りだと分かっていたと思われる。陸路一日百里計算なら千余里の距離ということになる。
 狗奴国成立後に倭国が朝貢した際、使訳が陸沿いに船で東に進んだところにその国があると説明した場合、舟であろうと徒歩であろうと、千余里の距離は同じでなければならない。
後漢書の狗奴国の記述は追記された部分であり、新たな情報によって書かれたものと思われる。しかし、魏志倭人伝では海路1日の距離を千余里とする計算にしたため狗奴国の位置だと考えることができなかったものと思われる。