ヤマト王権の始まりの国 3-3-1

五 邪馬台国畿内成立説の問題点


⑴ 邪馬台国とヤマトの名の由来をどう語るか
 ヤマタイ(ダイ)ノクニをヤマトノクニに変える理由があったのかどうか。例えば、王権の変更があったとか、名が凶だとされたとかの事情があったのか。
 国名を変えた事情がなく、元からヤマトだったという主張がされている。しかし、ヤマトという呼称に「邪馬臺」という字を当てたとは考えられない。
 古事記に、オホナムチノカミが倭(ヤマト)に行こうとしたことが書かれているが、これは後に付けられた地名を記したものと考えるべきである。「縄文時代の日本」を単に日本という言い方と同じである。


⑵ 時代をどう見るか
 倭国は男王の時代が八十年くらい続き、倭国が乱れた後、女王が共立された。女王共立は二世紀後半のことである。女王卑弥呼の都は邪馬台国にあった。邪馬台国の王が倭の国々を支配して倭国王を名乗っていたなら、邪馬台国は遅くとも一世紀中には成立していたと考えるべきだろう。畿内の遺跡からは一世紀にそういう国が成立した状況はうかがえない。
 一世紀頃の遺跡の発掘物を見る限り、畿内全体はさほど発展していたとは思われない。九州に倭奴国があったのは、九州が朝鮮半島に近く、文化が最も進んでいたからであろう。その倭奴国を破るほどの国が畿内にあったとは考えられない。


⑶ 魏志倭人伝の行程をどう説明するか
 魏志倭人伝を読む限り、不彌国までは陸路で九州内にあることは明らかである。投馬国は南へ水行二十日ということで方位からすれば南九州が想定される。邪馬台国の卑弥呼の居所まで南へ水行十日と陸行一月というのも、方位からすれば九州内にある。
 邪馬台国畿内成立説は、魏志倭人伝の邪馬台国の方位が南とあるのは東の間違いだという主張をしている。
 しかし、「倭人在帯方東南」の方位は正しい。対馬から壱岐へは「南渡一海千余里」とあるが、対馬のどこを起点にするかという問題を考慮しても、この方位もほぼ正しいと言える。その続きでそれぞれの国の方位が記述されている。邪馬台国だけ方位が間違っていて、南ではなく東の畿内にあるというのは考えられない。
 更に、行程から見てもおかしい。
 卑弥呼の「都する所」を東の畿内に想定した場合、北部九州から船で瀬戸内海を海岸沿いに東へ進み、十日かけて河内か摂津辺りまで進んだとしても、そこから陸行で奈良平野南東部まで一月もかかることはない。陸行というのが、道が無いところを行くという意味で生駒山を越えるにしても二、三日程度の行程である。
 そもそも、女王卑弥呼に中国や朝鮮の使者が謁見しようとすれば、瀬戸内海沿岸部、大阪、畿内は全て女王の支配下にあって警護に問題がない状態になっていなければならない。畿内田原本町の唐古・鍵に環濠集落が造られ、洪水で埋まり、人為的に埋め立てられても再掘削されたという状況から考えると、畿内南東部に都を造って安定した畿内支配ができていたとは思われない。伊都国に一大率を置く理由もない。


⑷ 邪馬台国の都
 邪馬台国畿内成立説には都の位置についていくつか説がある。有力なのは纏向を邪馬台国の都に想定した説だと言われている。纏向遺跡から発掘される物と年代から、邪馬台国の都があったと推定し、箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定している。
 遺跡からは有力な王や豪族の拠点があったことは推定できても、邪馬台国があったとする合理的な説明にはなっていない。副葬された三角縁神獣鏡は卑弥呼が生存中に下賜したものとは思われない。
 邪馬台国の成立場所は都の場所と成立時期とを併せて考える必要がある。「倭国王」をどう解釈し、「倭国」の男王の時代、「倭国」大乱、女王共立という流れの中で、大倭王や女王卑弥呼が居た邪馬台国はいつ頃、どこに成立したと考えるかということである。
 後漢書には「桓霊間倭国大乱更相攻伐暦年無主」とあり、桓帝の時代の百四十六から百六十八年の間に倭国大乱が起こり、霊帝の時代の百六十八から百八十九年の間に収まったとされている。魏志倭人伝には、「其国本亦以男子爲王住七八十年倭国乱相攻伐歴年」とある。「其国」は倭国のことである。倭国は七、八十年男子をもって王としていたが乱れ、王がいない状態となり(後漢書)、卑弥呼を女王に共立した。
 男王の時代は一世紀終り頃か二世紀初め頃からになるが、倭国の王の居場所は邪馬台国である。それが、畿内であったと想像するのは無理がある。
 一世紀は弥生時代後期である。畿内では、弥生時代中期から後期にかけての方形周溝墓が多く見られる。纏向遺跡にもその形式の墓がある。これを前方後円墳の方形部の原型だとする説があるが、前方後円墳は円墳部分に重点があり、両者のモチーフは全く異なる。方形周溝墓はヤマト王家の墳墓形式とは思われない。
 唐古・鍵遺跡は、縄文晩期から古墳時代へと続く遺跡であり、甕棺、土壙墓、銅鐸、銅鏃、環濠集落などの特徴がある。ここから発掘されたものがヤマト王権の時代にもすべて使われていたとする根拠はない。例えば銅鐸は三世紀には造られなくなったと言われているが、ここの発掘物にある。これが使われ続けたものか廃棄されたものかの判断によって文化についての評価は全く変わってくる。
 環濠集落跡は他にも見られ、弥生時代に戦いへの準備があったことはうかがわれるが、一、二世紀ころの畿内地域の遺跡に後のヤマト王権の文化の特徴を示すようなものは見当たらない。吉備の文化と通じるものはある。墳墓遺跡はほぼ方形周溝墓である。
 畿内で金属器の使用や墓制の変化も含めて文化的な転換が起きたのは三世紀のことである。銅鐸製造が消え、方形周溝墓も次第に造られなくなる。代わって周濠のある前方後円型の墳丘が現れる。しかし、王墓とは言えない。
 三世紀前半は卑弥呼が魏に朝貢したり狗奴国と争ったりしたころである。邪馬台国が畿内に成立していて三世紀に文化を変えたという事情はない。魏志倭人伝に記されている倭の文化状況は九州の様子だろう。畿内の文化的状況が変わったのは、畿内に邪馬台国に対抗するような別の国があって勢力を伸ばした結果ではないかと思われる。
 以上のとおり、畿内に邪馬台国が成立したとする根拠はない。


⑸ 倭国大乱は畿内から始まったのか
 畿内に邪馬台国が成立し、それがヤマト王権の国だと仮定した場合、倭国大乱をどう考えるのか。
 倭の国々が争い、卑弥呼を女王に共立したと考える立場では、争いの原因は何か。王位継承は特定の国の王家の問題であり、他国が介入すべきことではない。領土争いは当事国の争いであり倭国全体で争うことではない。倭の統治権を奪い合う争いなら、支配が変わるまで王はいるだろう。そのような争いが倭全体で起きたなら、卑弥呼を倭国の女王に共立して解決できるのか疑問である。
 倭国が「歴年無主」だったというのは、倭の国々を支配していた邪馬台国王がいない状態である。王位継承争いが起きて王位継承者が決まらず、王族、臣下、諸国の王を巻き込んで争いが長引いたと考えるのが妥当である。
 王位継承争いが発端であるなら、争いが始まった場所は、共立された女王がいた邪馬台国だと考えられる。
 邪馬台国が畿内に成立したとする説では、大乱前から畿内にヤマト国が成立していて、大乱も畿内で起きたことになる。しかし、この時期にヤマト王権の王位継承争いがあって女王が共立されたと考えることはできない。ヒミコに相当する名も残っていない。記紀に記録を残さないことの意味を考えるべきである。
 ヤマト王権に空位の時期があったというのは、仲哀天皇死後、その子が即位するまでというのがあるが、王位継承争いはない。神功皇后を卑弥呼に比定するのは時代を無視しているし、共立でもない。卑弥呼はヤマト王権の王ではないと考えるべきである。つまり、倭国大乱はヤマト王権が関わった事件ではないのである。
 また、畿内で大乱が起きて相攻伐したなら、二世紀後半の遺跡にその痕跡があるだろうが、そのような発掘成果は見られない。


⑹ 畿内で倭国の運営と統治はできない
 邪馬台国が畿内にあって、九州の国々が卑弥呼を女王に共立するということはあったのか。だれを王に立てるかは王家が決めるべきことで、九州の国々の王が邪馬台国の王を「共に立てる」ことはありえない。
 王家の中で王位継承争いをした当事者らが和睦して女王を共立したのであれば、畿内でもありうる。畿内に王権があったなら、九州の国々だけが詳しく魏志倭人伝に書かれているのは奇妙である。
 女王が畿内にいるなら、帯方郡からの使者が駐在する場所も畿内に設けるのが礼儀というものである。女王が畿内にいて、そこから遠く離れた九州の伊都国に駐在させられるのを魏が承知するかという問題もある。伊都国が外交使節の駐在場所であり、また一大率が置かれているのは、そこが統治の中心地だからである。一大率を置いて監視すべき北方の国というのは、本州であり、畿内の北方ではない。伊都国に人員を配置して外交と統治の拠点としたなら、畿内に王都を造って監視と命令をするのは極めて不合理である。


⑺ 九州に邪馬台国がなければどういう国があったのか
 邪馬台国畿内成立説では北部九州にはどういう国があったと考えるのか。北部九州の範囲として想定されるのは筑紫平野、福岡平野から北九州を回って大分県北部辺りまでである。
魏志倭人伝の末盧国から投馬国までのうち、北部九州に関係ありそうなのは末盧国、伊都国、奴国と不彌国であろう。投馬国は南にあるから除外される。
 伊都国は千戸程度の小国であり、北部九州全域を領地とする国ではない。しかし、政治・外交の拠点だったと考えられる。末盧国は西九州のほうであり、不彌国は小国である。奴国は二万余戸にとどまる。投馬国は五万余戸とされている。北部九州の国が末盧国、伊都国、奴国、不彌国だけだったなら、それらを合わせても投馬国より戸数が少ない。これはおかしい。伊都国、奴国、不彌国、奴国の他の有力な国があったと考えるべきである。それはやはり倭国最大勢力の邪馬台国だろう。