ヤマト王権の始まりの国 3-2-1

二 邪馬台国の位置


⑴ 邪馬台国と狗奴国とヤマト王権の国
 邪馬台国と狗奴国という名は中国の史料から消えた。中国の史料には倭国はその後も登場するがヤマトと読める字はない。日本でも倭国がいつヤマトの国になったのか明確ではない。
 倭奴国から倭国への移行は覇権争いの結果である。その覇権争いに勝って倭国を造ったのは邪馬台国である。百七年に登場する「倭国」は倭の中の一国ではなく、倭の国々が広域的に統合した状態を一つの国としたものである。このことは第三章で述べる。
 邪馬台国畿内成立説では、畿内の邪馬台国の王が倭の国々を従えてヤマト王権の倭国を造ったということになるだろう。倭国大乱も、狗奴国王と不和で攻撃し合ったことも、女王が死んだのもヤマト王権での出来事になる。
 豪族連合のヤマト王権が三世紀に畿内で成立したと考える説では、九州の邪馬台国を滅ぼして倭国の統治権を得たという推理になると思われるが、九州の豪族も連合政権に加わったという説がある。しかし、有力な豪族の連合という言い方そのものが虚構であり、どのように西日本全体で合意が形成されていったのか理解できない。狗奴国とはどうなったのかも分からない。三世紀半ばには、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼が相攻撃し、結果として卑弥呼が死んだ出来事があった。そういう時期に九州を含めた豪族連合が成立するとは考えられない。
 これまで邪馬台国とヤマト王権の国の関係は論じられてきたが、狗奴国のことは無視されるに等しかった。しかし、狗奴国と卑弥弓呼の力を考えると、三つの国の関係を考えて位置も推理していくのが妥当ではないかと思う。
 ヤマト王権は畿内に成立したという前提で、組み合わせは次のイ説からホ説になる。


イ説 邪馬台国と狗奴国とヤマト王権はみな別の国だと考えるもの。
 邪馬台国の位置については九州説、出雲説、吉備説、四国説などがある。東征は否定される。狗奴国については東海地方に想定する説と熊野に想定する説などがある。邪馬台国は九州説が妥当であるが、九州から東に海を渡ると狗奴国があり、ヤマト王権の国もある。奴国の南に位置するという狗奴国の位置関係は全く定まらない。ヤマト王権の国を挟んで女王卑弥呼と攻撃し合ったわけではないだろう。


ロ説 邪馬台国とヤマト王権は同じで狗奴国が別の国だと考えるもの。
 邪馬台国畿内成立説、邪馬台国東遷説はこの立場になる。
東遷説は九州の邪馬台国が東遷してヤマト王権になったとする説であるが、東遷の時期、経過、九州の領地の帰趨などの問題がある。
 この説では、邪馬台国王の系譜とヤマト王権の系譜は一致するはずである。邪馬台国の成立と倭国の成立が同時ということはないだろうから、邪馬台国王、倭国王、天皇がどういう対応関係になるかを説明しなければならない。卑弥呼や壱與がどの天皇に相当するのか説明は無理である。
 狗奴国は畿外のどこかにあって邪馬台国に滅ぼされたことになるが、女王卑弥呼のときは逆の立場ではなかったか。


ハ説 ヤマト王権と狗奴国が同じで邪馬台国が別の国だと考えるもの。
 邪馬台国は九州に位置するが、邪馬台国による東征は否定される。狗奴国の王卑弥弓呼がヤマト王権の王で邪馬台国が別の国なら敵対関係にあったということになるかもしれない。後に滅ぼされたことにもなる。狗奴国が豪族連合政権の国とは言えない。
 邪馬台国が九州に位置し、東征は行っていないなら、ヤマト王権が東征を建国の物語にした理由が分からなくなる。
 これを架空の物語だと言わずに、九州のどこかにいた勢力が畿内に進出して国を造ったとする説がある。その一つが、熊本辺りにあった狗奴国が邪馬台国を滅ぼして北部九州を支配するとともに奈良に移動してヤマト王権になったという説である。
 しかし、倭国が最後の朝貢をしたのは二百六十六年であるから邪馬台国が滅んだのはその後でなければならない。この説には無理がある。
 そこで、邪馬台国の台頭に圧迫されて東へと移動し、畿内に国を造ったという説が考えられる。邪馬台国とは対立関係にあり、後にヤマト王権が邪馬台国を従えたことになる。対立する国なら名を隠す必要はないはずである。


ニ説 狗奴国は邪馬台国の別国(同族の国)でヤマト王権が別の国だと考えるもの。
 邪馬台国=狗奴国という説は見当たらないが、狗奴国を邪馬台国の別国とする説がある。狗奴国は畿外のどこかにあって位置は明らかにならない。九州から東に海を渡って畿内ではない地域ということになる。
 邪馬台国、狗奴国、倭国に属する国々を相手にヤマト王権が戦って勝ったのだろうか。そのような力を畿内でどうやって得たのか、疑問がある。女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼の不和と相攻撃という内紛に乗じたなら、魏志倭人伝に何らかの記述があるだろう。それとも邪馬台国、狗奴国、倭国に属する国々と合意して豪族連合政権を広げたと考えるのだろうか。


ホ説 狗奴国は邪馬台国の別国(子国)として畿内に成立し、後に狗奴国王が邪馬台国王家 から倭国の王位を移譲させヤマト王権が統治する倭国になったと考えるもの
 序章に掲げた仮説である。邪馬台国、狗奴国、ヤマト王権は始祖を同じくする同族で、倭国の王権は同族内で継承されたものと考える。
 九州の邪馬台国の東征によって畿内に狗奴国が成立し、後にその王卑弥弓呼が女王卑弥呼との不和により攻撃し合うまでになり、ついには邪馬台国王に倭国の王位を移譲させて倭国を統治するようになったという流れになる。この過程で狗奴国はヤマトノクニを名乗ることとなる。