ヤマト王権の始まりの国 3-2-3

⑶ 漢鏡の地域分布と邪馬台国の位置
 北部九州がクニ造りの中心だったことはこれまで調査された漢鏡の分布からも推測できる。漢鏡は渡来人が伝えたもの、朝貢によって受け取ったもの、輸入したもの、倭で造られたものがある。
 四期漢鏡と言われているものは弥生時代中期から後期にかけて、北部九州、中国地方、近畿地方へと広がっている。西日本に交易圏が形成されていたことがうかがえる。倭の三十国が後漢に朝貢して受領したり、倭奴国が倭の国々を統合していく過程で小国の王に授けたりした可能性もある。
 弥生後期、倭奴国の時代には五期漢鏡が広まったようである。四期漢鏡よりも分布範囲が広がり、畿内にも伝わって、銅鐸、甕棺とともに発見されている。この時期の畿内の漢鏡は邪馬台国のものではないと考えられる。
 二世紀前半の六期漢鏡は北部九州に集中している。倭国が成立した後の頃で、倭国大乱を経て卑弥呼共立に至る時代の前である。畿内に一部が伝わっているのは、倭国が畿内に進攻して領地を得たのかもしれない。
 倭国大乱後、七期漢鏡が広まる。北部九州では、三世紀初頭に六期、七期漢鏡の破砕が行われた。二百二十年に漢が滅んだことと関係しているかもしれない。倭国や邪馬台国が魏への忠誠を示すために漢鏡を破砕したのか、漢への服属が無くなったことによる破砕か、宗教的な意味があったのか、謎である。中国地方、畿内、洛南などでは破砕はされず、九州の中部、南部で漢鏡そのものがほとんど発見されていないのは、漢鏡が与えられる事情がなかったからだろう。
 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から拝領したものだけではない。日本で製造されたものがあるとされている。畿内で大量に発見されたり、東日本で発見されたりするのは四世紀の古墳がほとんどであり、卑弥呼死亡から相当経っている。ヤマト奈良王家が王権を継承した後、九州から持ち帰ったものや日本で製造したものを豪族らに下賜した可能性がある。従って、漢鏡の製造年代から古墳の築造時期を判断することはできない。
 一つの古墳から銅鏡が大量に発見されるのはどういう意味があるのかは分からない。何か功績をあげるごとに下賜されて数が増え、その功績を讃えるため全部を副葬品にしたのかもしれない。
 これらの漢鏡の分布と時代からは、倭国成立前に邪馬台国が畿内に成立していたとする根拠は見いだせない。