ヤマト王権の始まりの国 6-1

季節来遊人

第六章 畿内での国造り


一 畿内発展の条件と契機

 奈良平野は広大で、縄文時代から集落ができ、紀元前五世紀頃には水田耕作も伝わり農耕集落ができていた。その広い平野で水田耕作をすればもっと早くから人口が増えて巨大集落が各地にできていただろう。弥生時代の遺跡からは、溝の跡が見つかっており、当時の人々が水利をどうするか考えていたことが分かる。環濠が埋まった跡から洪水が発生したこともあったようであるが、畿内の年間降水量は多くない。

 一集落や一地域のことだけを考えていた時代から畿内に国を造り治める時代になると、王や豪族がまず考えるべきことは、水田を広げ産業を発展させ、武力を強化することである。大規模墳墓を造ることではない。そのためには水を確保するのが第一条件となる。それにより開墾地に集落ができ、人口が増え、武器などの総合的な生産力の強化をもたらし、王権の勢力を伸ばして畿内、畿外へと支配を広げていくことが可能になる。

 年間降雨量が少ない地域にあっては、雨が多いときに水を溜めておいて、必要なときに使えるようにする。現在でも、奈良平野には溜め池が多いが、前方後円墳の周濠も溜め池に見える。前方後円墳を巨大墳丘墓としてみるのではなく、周濠に着目して、溜め池造りという実利的な理由で造られた可能性を検討する必要があると思う。

 また、周濠の中の人工山を墳墓として使った場合、山上に葬る際にスロープ式通路が造られ、それが撤去されて方形部として残されたことで、前方後円墳の形ができた可能性がある。ただし、円墳の傾斜、方形部の幅と高さと傾斜については造り方が変化していく。この墳墓形式が山上に葬る伝統的な葬送文化を持つヤマト王権に採り入れられ、全国にも広がっていったのだろう。

 結果として、弥生後期からの畿内の急速な発展が墳墓形式の変化と重なることになる。

これまで、墳墓形式の変化は、そういう形式の墳墓造りが目的だったという前提で論じられているが、まず溜め池造りが目的で、後に墳墓造りと一体化し目的が広がったのではないかと思う。全国には、溜め池を目的としたもの、墳墓目的で墳丘墓形式のみを模倣したもの、最初から両方を目的としたものがあってもおかしくはないが、先行する畿内はまず溜め池を考えたのではないかと思う。

 何がどう変わったかを比較するために、弥生時代の様子を想像してみる。


二 弥生時代の農耕集落の水利

⑴ 農耕集落の場所

 飲料水と魚貝、雑穀などの食糧が確保できる地域であれば縄文時代から集落ができていただろうが、縄文時代晩期から徐々に形成された農耕集落は水田耕作を中心としている。水田に必要な水を確保できることが農耕集落には必須である。集落の人口に見合った規模の水田は人口増加により広げなければならなくなる。水田の拡張に見合った水量が必要になる。

 通常の方法は水源から水路を造るなどして水を引くことである。水源は山から流れ出る大小の川や湧水などによる池沼である。弥生時代の早い時期から水利については様々な工夫と工事がされ、また、水田作りに適した土地に農耕集落がつくられたものと思われる。


① 山間部

 山から流れ出る水を、溝を作って導くか、小渓や谷川などから取水する。谷川の河床が低い場合は水位が高い上流から水路を引いてくるか、堰き止めをして水位を上げる。そのようにして水利を確保できた場所が水田適地となる。

 この方法は大掛かりな土木工事を必要としない。山麓部や山間部の平地に農耕集落ができるのは合理的であると言える。森林のある山には自然の恵みもあっただろうから、食糧的にも有利である。水田にも栄養分が流れ込む。しかし、水田にすることができる土地面積は限られ、開墾には労力を要する。

 川を堰き止めてダムを造る方法があるが、この時代に造られていたかどうかは分からない。仮にその知識があっても谷が広いと工事は無理だろう。狭いところに造っても大雨のときなど溜まる水量が多くなるとダムが決壊するおそれがあり、重要な時期に大被害が生じる。川の流れと別に小規模の池を造って水を溜めることは考えられたかもしれない。


② 平野部

 水利を考えずに、平野だから水田に適しているという考えは通用しない。平野部が広くても必要な時期に水が行き渡らない場所では水田耕作はできない。しかも、土が耕作に適していなければならない。

 湧水池周辺は湿地帯になっていた可能性が高く、そこから水路を引けば水田を広げることができるし、その近辺に集落をつくれば生活用水も確保できる。しかし、湧水量が少なければ、他の水利を考えなければならない。

 通常は川から水を引くことになる。水位より高い土地には堰き止めや水車などの揚水装置により水を引く工夫が必要となるが、この時代にそういうものがあったとは思われない。小規模の水田であれば、人力で水を上の水路や田に揚げていたかもしれない。

 川の水位より低い土地なら水を引くことができるが、水位が上がったときに川から水が溢れてこないようにする仕組みが必要である。川に土手を造ることになるが、川沿いに長く造らなければならず、大掛かりで広域的な工事になる。川からの水路は取水、堰き止め、排水を考えて造らなければならない。

 また、川沿いの水田は、川の水が溢れたときには破壊される恐れがある。流れが穏やかな場所では土砂が溜まって水位が上がるから洪水の危険性が増すため、川底を浚うか、土手を高くしていかなければならない。

 このような工事は統率力のある者の指揮のもとで共同作業により広く水田を作る場合でないと進められないだろう。

 平野部の農耕集落も自然の水利の良い場所につくられ、水が不足すると川の上流や谷川から水路を引いたり、川を付け替えたりして水田を維持、拡張してきたと考えられる。このような方法では、農耕集落はなかなか広がらず、条件のよい集落は大きくなるが、そうでない集落は小規模にとどまるだろう。小規模集落の周辺に広大な土地があっても耕作に適さず、他に利用価値もなければ他の集落がそのような土地を「併合」しようとは考えない。

 窮迫した人々や集落は、食糧を備蓄する集落を襲おうと考えるかもしれないが、防備を固めた集落を襲うのは困難である。小さい集落が互いに潰し合うという事態になりかねない。土地を放棄し耕作者や武人として大集落に使われる者が現れた可能性もある。


⑵ 新しい集落

 畿内の広大な土地を水田に変え、食糧を増産し、人口を増やし、国造りが行われるのはまだ先のことで、まずは地域的な食糧増産の問題がある。水路を引くことができない地域、水量が少ない地域、水争いにより水源を確保できなくなった地域で水田を作ることができないかということである。土地があっても水がない、又は水はあるが少ないという理由で荒れ地のままになっている土地を水田にしたいという願望はあっただろう。

 代替水源の一つが井戸を掘ることである。しかし、なだらかな地下水脈を利用した井戸は地下水脈が堰き止められない限り水位が上がるわけではない。地下の川から水を汲み上げるようなもので、井戸を大きくして池のようにしても変わりはない。水は地下水脈を流れていくだけで、労力に応じた水量しか汲み上げることができない。

 これでは、水不足の年に備えて水を溜めておきたいという期待はできない。自然の池沼を見て溜め池を造る考えが出てくるだろうが、湧水も山や谷などからの流れ込みもないところでは無理だと思ってしまうだろう。

 それでも、できる限りの水を集めて溜める池造りの発想は引き継がれ、いつだれがどのように造るかということになっていた。その実行が二世紀後半以降の大きな転機となる。


① 水を溜める方法

 まず、水が流れ込む池を掘ることである。自然の流水が集まり、溝を造って谷や川や遊水池から水を引いてくることができ、雨水が溜まる場所なら池を造ることが可能である。水田耕作に適した土壌も必要である。川の水を引きやすく大量の水が溢れるおそれがない場所は谷間に近い山裾である。そこに溜め池を造ればよい。

 川沿いに土手で囲んだ池を造り、そこに川の水を引くという方法があるが、堅固な土手を造り洪水対策がとられるようになってからのことだろう。

 平地で池を造る場合は、水路の水面と傾斜の関係で深く掘っても無意味である。小さな集落の人力と当時の道具で固い地中を掘り進めるのは困難でもある。雨水を集めることも考えるなら池の面積を広くしなければならない。よって、浅く広く掘ることになる。

 周濠式溜め池が広く浅く造られたのも以上の事情によるものと思われる。それによって巨大な盛り土ができ山のようになる。


② 周濠式の溜め池と集落造り

 周濠式の溜め池は、前方後円墳の一部分として扱われているが、周濠付きの前方後円墳が山裾の緩やかな傾斜地に集中して造られていたのは、溜め池を造るという目的があったからだと考えられる。ただし、方法は一つではなく周濠に土手や堰堤が必要になる場合がある。

周濠型の池を造る知識と技術はいつごろ奈良平野に広まったかは分からないが、後述する瀬田遺跡の円形周溝墓と言われているものは纏向型墳丘墓の原型ではないかと思う。だとすれば、二世紀中かもしれない。

 しかし、幅の広い環濠も溜め池として機能していた可能性がある。生活排水を環濠に流して栄養分のある泥土ができればそれを田に入れればよい。泥土に足を取られる状態は防備には役立つ。

 溜め池が造られると水田耕作が広がり、集落は大きくなる。道具の改良と多くの人力が揃えば巨大な池を掘ることができる。そういう場所には新しい集落がつくられていく。纏向には巨大な集落ができたと考えられる。

 大掛かりな工事を進めるには多くの労働力と統率者、監督者が必要である。奈良平野に広がっていったのは、国ができて発展していった過程と並行していたと考えられる。他方、王墓とは言えないものが多く、初期の古墳では吉備系の遺物が発掘されているから、溜め池造りは吉備人の知恵で吉備人の地域に始まったと考えられる。

 その成果を邪馬台国の畿内王家が喜び、奨励したと思われる。新しい集落を基礎にした都は、吉備人や先住民の労働力と後にヤマトと呼ぶ邪馬台国の権力によってつくられたのである。

 前方後円墳の始まりを以上のように考えると、時代の変化は前方後円墳の全国的広がりより前に起きたと言える、また、三世紀をもって方形周溝墓の築造は終わったと考えられるものの前方後円墳と重なる時期があり、前方後円墳が王墓形式となるのは三世紀終わりかr四世紀初め頃のことだと思われる。