第六章 倭国の統治権の移譲 一 邪馬台国王家の没落と畿内王家の興隆 邪馬台国王家は邪馬台国の王位を自ら決めることはできなかった。男王の即位に対して抵抗を受け、魏の介入で壱與が女王になった。壱與はまだ十三歳で、統治者としての教育を受けていたか疑問である。王族が補佐したにしても、これでは倭の統治が十... 続きをみる
2018年10月のブログ記事
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二 卑弥呼と卑弥弓呼の「相攻撃」 「相攻撃」は、三国志魏書の他の箇所にも出てくる。武力で攻撃し合うことである。 卑弥呼が畿内を攻撃する場合は、九州から派兵するか、服属国に攻撃させるかということになる。派兵するには、九州の国々の動向が気になる。卑弥弓呼は攻撃されることを予想して畿内の防備を固めて... 続きをみる
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第五章 東征の後 一 畿内での国造り 東征を成功させたなら、直ちに復命してそのことを報告しなければならないが、記紀は本国を登場させないから復命もない。宮が無かった畿内に宮の施設を造ったなら、祖神もその宮で祀ることを報告したはずであるが、その記述はない。高千穂宮との関係も不明である。 畿内で造っ... 続きをみる
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⑶ 漢鏡の地域分布と邪馬台国位置論争 北部九州がクニ造りの中心だったことはこれまで調査された漢鏡の分布からも推測できる。漢鏡は渡来人が伝えたもの、朝貢によって受け取ったもの、輸入したもの、倭で造られたものがある。 四期漢鏡と言われているものは弥生時代中期から後期にかけて、北部九州、中国地方、近... 続きをみる
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六 邪馬台国物語 ⑴ 邪馬台国の始祖の地 高千穂は思想的に天と結ぶために考えられた天降りの地で、そこが邪馬台国勢力の始祖が住んでいた地と考えるべきではないという意見が一般的であろう。そういう地に国を造るのは無理だという理由もある。 この主張は邪馬台国畿内成立説の理由づけにもなるが、魏志倭人伝の... 続きをみる
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五 邪馬台国畿内成立説の問題点 ⑴ 邪馬台国とヤマトの名の由来をどう語るか ヤマタイ(ダイ)ノクニをヤマトノクニに変える理由があったのかどうか。例えば、王権の変更があったとか、名が凶だとされたとかの事情があったのか。 国名を変えた事情がなく、元からヤマトだったという主張がされている。しかし、ヤ... 続きをみる
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二 都(ミヤコ)造り 古事記には、イハレヒコノミコトの「坐何地者平聞看天下之政猶思東行」という発言が書かれているから、東行は天下の政治をする最適の地を得る目的があったことが分かる。日本書紀には、「何不就而都之乎」とあり、ニギハヤヒノミコト(邇藝速日命、饒速日命)が飛び降りた地を都にすることが目的... 続きをみる
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第四章 ヤマト建国 一 ヤマト王権成立の由来 ⑴ 邪馬台国と東方平定 邪馬台国が九州の国々を従えて倭国を築いた国造りの思想はそこで終わらない。「倭の王になる意志」がある限り、本州や四国の国々を従えようと考えるだろう。地理的には東方への出征となる。軍派遣は一度だけではないはずである。倭国大乱の... 続きをみる
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五 女王共立 ⑴ なぜ女王共立という解決をしたのか 倭国大乱を収めるためである。 その発端が王位継承争いで、それぞれに支援する王族、豪族らがいて争いが長引いて王がいない状態が続き、倭国の混乱が極まったときの窮余の解決策であったと思われる。 通常は先王の指名がなく兄と弟が王位を争う場合である。... 続きをみる
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第三章 倭国 一 大乱前の倭国はどのようにして成立したか ⑴ 倭国の成立とその意味 倭は倭人が住む地域の名であり、倭国は倭の地域の一つにまとまった国の名である。そのまとまり方は連合形態から統一国家までいろいろあり一定ではない。 後漢書の倭国王帥升等の朝貢や倭国大乱の記述に現れる倭国はどうい... 続きをみる
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(2-4に統合)
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五 拘(狗)奴国の成立時期 後漢書に拘奴国が登場するのは漢の時代に拘奴国があったからだと考えられる。つまり、漢が滅ぶ二二〇年より前に成立していた。そのどれくらい前かは、拘奴国がどういう国かという想定によるが、これまでは素性も含めて不明とされていただろう。 拘(狗)奴国を邪馬台国の子国と考える説... 続きをみる
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二 「狗奴国」という国名 前置きがかなり長くなったが、「狗奴国」は倭でどういう呼び方がされていて、なぜ「狗奴」という字が用いられたかという問題を考えてみる。これを考えるにあたっては、当時の倭の各地の勢力関係と狗奴国の位置、その後狗奴国はどうなったかなどの倭の歴史を考えながらどのような国かを想像す... 続きをみる
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副題 「狗奴国=邪馬台国の子国=ヤマト王権」仮説 原稿番号 序章 疑問の始まり 1 一 倭女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼 二 倭の国の王権 ⑴ 国とは ... 続きをみる