ヤマト王権の始まりの国 3-4

六 邪馬台国物語


⑴ 邪馬台国の始祖の地
 高千穂は思想的に天と結ぶために考えられた天降りの地で、そこが邪馬台国勢力の始祖が住んでいた地と考えるべきではないという意見が一般的であろう。そういう地に国を造るのは無理だという理由もある。
 この主張は邪馬台国畿内成立説の理由づけにもなるが、魏志倭人伝の行程を否定することにもなる。
 魏志倭人伝にもとづき邪馬台国九州成立説をとるなら、女王卑弥呼の都までの行程も考慮しなければならない。消去法では山岳地が考えられる。
 もちろん、そういう地で強大な国を造るのは無理である。その地に固定して考えるのではなく、平地へと勢力範囲を広げていったことも想定しなければならない。
 短期間で国を造り、又は国を奪うのは自然発生的な国造りではない。邪馬台国が倭奴国から倭の統治権を奪って国造りを始めたとしたら、そういう勢力拡大の目的をもった邪馬台国造りをしていたと考えられる。邪馬台国勢力の発祥の地、国造りの地、倭国の統治権を奪い本拠地とした地は同じではないと考えるべきだろう。
 これには、邪馬台国の始祖がどういう由来の人々かを併せて考える必要がある。その想像が最も重要である。
 邪馬台国九州成立説に立って考えると、邪馬台国勢力の始祖の地と国造りの地については、つぎのような場所が想像される。


① 高千穂説
 水行十日、陸行一月という行程から、九州の山岳地で、現在の高千穂町辺りか霧島のどこかに邪馬台国の始祖が住み着いた可能性が高い。その山の特徴から高千穂と呼んだものと思われる。そこに先祖を祀る宮を造り、女王卑弥呼が宗教的儀式をする都にもなった。
 古事記には、高千穂の地を「向韓国眞来通笠沙之御前而朝日直刺國夕日之日照國」という記述がある。笠沙を経由して韓国に行けるかのような書き方で、朝鮮半島から渡来し、南九州に上陸して高千穂に到達したルートがあったことを示している。
 しかし、ここで強力な国を造るのは無理である。
② 北部九州説
 倭奴国が支配する北部九州に邪馬台国の始祖が密かに住み着いたという想像は、邪馬台国への行程から考えて除外される。北部九州への進出は倭奴国から統治権を奪った後であろう。倭奴国と戦う過程で北西側を支配したかもしれない。
③ 宮崎説
 水行十日で九州南西部に上陸した可能性があるが、平地に進出して国造りをした場所としては、九州南東部が考えられる。倭奴国の支配が及んでいなかった可能性がある。西都には台地状の土地があり、国名の元になったかもしれない。天皇の日向への行幸、西洲宮という命名、西都という名は、畿内から見て九州を西洲(西ノ島)とし、西の都をする重要な地であったことを想像させる。日向は東征の出発地とされている。
 高千穂は霧島が考えられるが、水行十日陸行一月の行程には合わない。国造りのために下りた地という想定は可能である。


⑵ 邪馬台国の始祖の由来
 山岳地に住み、平地に下りて国を造り、倭奴国と戦い倭の統治権を奪うというのは、普通の山岳人にはない。その地で国を再建するとか、新たな国を造ろうとかの意思を持った集団がいたなら、ありうることである。しかも、そういう集団が山岳地に住むのは、戦いに敗れて逃げてきた場合である。
 この集団の出自は九州の国だったのか、朝鮮半島だったのか。歴史を遡って考えてみる必要がある。
 百七年に倭国王帥升が朝貢したが、倭国が成立したのはその少し前かもしれない。五十七年には倭奴国王が朝貢して金印を授かっている。衛氏朝鮮が滅んだ紀元前百八年の後に三十国が朝貢し、それ以前には百余の国ができていた。
 朝貢をするという知識があり、衛氏朝鮮が滅んだことで朝貢をしたのであれば、それらの国には渡来人が関わり、情報ももたらしたと考えられる。倭において国造りを主導したのは渡来人だったと考えられる。
 金属製の武器などが朝鮮から持ち込まれ、渡来系の国が互いに戦い、一世紀前半に倭奴国が広域的に国々をまとめ、その統治権を邪馬台国が奪う過程は全て武力によっていた可能性がある。
 この戦いは九州が中心で、敗れた勢力が山岳地に逃れた可能性はある。渡来系でその後も朝鮮との交易を続けて九州南部で勢力を回復していったという想像である。この想像では、山岳地に逃れた時期は紀元前後頃になるかもしれない。九州内で追討を避けるためには、早々に平地に下りて国造りをするというわけにはいかず、一世紀中に倭奴国と戦える勢力になれるのか疑問である。
 そこで、朝鮮での戦いに敗れた渡来人が倭に逃げてきた可能性を考えてみる。衛氏朝鮮が滅ぼされ、支配者層に属する者たちが漢の軍の追討を恐れて倭に逃げたが、倭の国々も漢を怖れて受け入れを拒否したため、九州の山奥に逃れたという可能性である。
 朝鮮半島から見て倭は身近なところで、政変などで南に逃げ、倭に渡ることもあったと思われる。日本書紀の一書に、スサノヲノミコトが新羅に降臨してある場所にいたが、粘土の船を造って倭に渡ったという記述がある。倭に渡ることは生死をかけて戦うより安易な方法だったのだろう。
 その子孫が倭で国を再興させようとして、山地でムラ造りを始め、平地にも進出して邪馬台国を造った。渡来人の子孫であれば朝鮮の同族と交易し、武器やその原料を揃えることも可能である。それが国造りへと発展させる条件をもたらしたと想像もできる。


⑶ 平地への進出
 国造りには、食糧や道具生産などの産業を基礎とし、民全体を秩序という一つの仕組みにまとめていくとともに、それらを守るために武力を維持、強化、行使することが必要である。
 山地では、人口は少なく、狩猟採取の生活様式が残っている。山間地は平地が少ない。水利のよいところで水田を作るにしても小規模で生産力は低い。集落は分散し、一つの秩序に組み込んで強制するのも支障がある。
 そのため、倭奴国の勢力が及ばない山間地や中山間地に下りていき、集落の用心棒となったり、食糧の「徴収」をしたり、宗教的な力を利用して食糧を得た可能性がある。
 進出先は生産力が高く人口が多く、朝鮮半島との交易も可能な地域に広がる。
 邪馬台国が勢力を伸ばしたのは武力による。武力は将兵と武器から構成されるから、将兵を増やすには人口を増やし、人口を増やすには食糧生産を増やさなければならない。武器は殺傷力が強く大量に調達できるものがよく、朝鮮半島から入手する。そういう条件に適った地を選んだと思われる。
 倭奴国の勢力を考えれば、九州の南部、南東部、東部が考えられる。九州南部の火山灰の多い土地では水田耕作はできず、西部は平地が少ない。そこで、東部での国造りとなる。
 いずれにしても朝鮮半島との交易は北部九州が最適地であり、その地を奪おうとする勢力は多かったと思われる。

ヤマト王権の始まりの国 3-3-1

五 邪馬台国畿内成立説の問題点


⑴ 邪馬台国とヤマトの名の由来をどう語るか
 ヤマタイ(ダイ)ノクニをヤマトノクニに変える理由があったのかどうか。例えば、王権の変更があったとか、名が凶だとされたとかの事情があったのか。
 国名を変えた事情がなく、元からヤマトだったという主張がされている。しかし、ヤマトという呼称に「邪馬臺」という字を当てたとは考えられない。
 古事記に、オホナムチノカミが倭(ヤマト)に行こうとしたことが書かれているが、これは後に付けられた地名を記したものと考えるべきである。「縄文時代の日本」を単に日本という言い方と同じである。


⑵ 時代をどう見るか
 倭国は男王の時代が八十年くらい続き、倭国が乱れた後、女王が共立された。女王共立は二世紀後半のことである。女王卑弥呼の都は邪馬台国にあった。邪馬台国の王が倭の国々を支配して倭国王を名乗っていたなら、邪馬台国は遅くとも一世紀中には成立していたと考えるべきだろう。畿内の遺跡からは一世紀にそういう国が成立した状況はうかがえない。
 一世紀頃の遺跡の発掘物を見る限り、畿内全体はさほど発展していたとは思われない。九州に倭奴国があったのは、九州が朝鮮半島に近く、文化が最も進んでいたからであろう。その倭奴国を破るほどの国が畿内にあったとは考えられない。


⑶ 魏志倭人伝の行程をどう説明するか
 魏志倭人伝を読む限り、不彌国までは陸路で九州内にあることは明らかである。投馬国は南へ水行二十日ということで方位からすれば南九州が想定される。邪馬台国の卑弥呼の居所まで南へ水行十日と陸行一月というのも、方位からすれば九州内にある。
 邪馬台国畿内成立説は、魏志倭人伝の邪馬台国の方位が南とあるのは東の間違いだという主張をしている。
 しかし、「倭人在帯方東南」の方位は正しい。対馬から壱岐へは「南渡一海千余里」とあるが、対馬のどこを起点にするかという問題を考慮しても、この方位もほぼ正しいと言える。その続きでそれぞれの国の方位が記述されている。邪馬台国だけ方位が間違っていて、南ではなく東の畿内にあるというのは考えられない。
 更に、行程から見てもおかしい。
 卑弥呼の「都する所」を東の畿内に想定した場合、北部九州から船で瀬戸内海を海岸沿いに東へ進み、十日かけて河内か摂津辺りまで進んだとしても、そこから陸行で奈良平野南東部まで一月もかかることはない。陸行というのが、道が無いところを行くという意味で生駒山を越えるにしても二、三日程度の行程である。
 そもそも、女王卑弥呼に中国や朝鮮の使者が謁見しようとすれば、瀬戸内海沿岸部、大阪、畿内は全て女王の支配下にあって警護に問題がない状態になっていなければならない。畿内田原本町の唐古・鍵に環濠集落が造られ、洪水で埋まり、人為的に埋め立てられても再掘削されたという状況から考えると、畿内南東部に都を造って安定した畿内支配ができていたとは思われない。伊都国に一大率を置く理由もない。


⑷ 邪馬台国の都
 邪馬台国畿内成立説には都の位置についていくつか説がある。有力なのは纏向を邪馬台国の都に想定した説だと言われている。纏向遺跡から発掘される物と年代から、邪馬台国の都があったと推定し、箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定している。
 遺跡からは有力な王や豪族の拠点があったことは推定できても、邪馬台国があったとする合理的な説明にはなっていない。副葬された三角縁神獣鏡は卑弥呼が生存中に下賜したものとは思われない。
 邪馬台国の成立場所は都の場所と成立時期とを併せて考える必要がある。「倭国王」をどう解釈し、「倭国」の男王の時代、「倭国」大乱、女王共立という流れの中で、大倭王や女王卑弥呼が居た邪馬台国はいつ頃、どこに成立したと考えるかということである。
 後漢書には「桓霊間倭国大乱更相攻伐暦年無主」とあり、桓帝の時代の百四十六から百六十八年の間に倭国大乱が起こり、霊帝の時代の百六十八から百八十九年の間に収まったとされている。魏志倭人伝には、「其国本亦以男子爲王住七八十年倭国乱相攻伐歴年」とある。「其国」は倭国のことである。倭国は七、八十年男子をもって王としていたが乱れ、王がいない状態となり(後漢書)、卑弥呼を女王に共立した。
 男王の時代は一世紀終り頃か二世紀初め頃からになるが、倭国の王の居場所は邪馬台国である。それが、畿内であったと想像するのは無理がある。
 一世紀は弥生時代後期である。畿内では、弥生時代中期から後期にかけての方形周溝墓が多く見られる。纏向遺跡にもその形式の墓がある。これを前方後円墳の方形部の原型だとする説があるが、前方後円墳は円墳部分に重点があり、両者のモチーフは全く異なる。方形周溝墓はヤマト王家の墳墓形式とは思われない。
 唐古・鍵遺跡は、縄文晩期から古墳時代へと続く遺跡であり、甕棺、土壙墓、銅鐸、銅鏃、環濠集落などの特徴がある。ここから発掘されたものがヤマト王権の時代にもすべて使われていたとする根拠はない。例えば銅鐸は三世紀には造られなくなったと言われているが、ここの発掘物にある。これが使われ続けたものか廃棄されたものかの判断によって文化についての評価は全く変わってくる。
 環濠集落跡は他にも見られ、弥生時代に戦いへの準備があったことはうかがわれるが、一、二世紀ころの畿内地域の遺跡に後のヤマト王権の文化の特徴を示すようなものは見当たらない。吉備の文化と通じるものはある。墳墓遺跡はほぼ方形周溝墓である。
 畿内で金属器の使用や墓制の変化も含めて文化的な転換が起きたのは三世紀のことである。銅鐸製造が消え、方形周溝墓も次第に造られなくなる。代わって周濠のある前方後円型の墳丘が現れる。しかし、王墓とは言えない。
 三世紀前半は卑弥呼が魏に朝貢したり狗奴国と争ったりしたころである。邪馬台国が畿内に成立していて三世紀に文化を変えたという事情はない。魏志倭人伝に記されている倭の文化状況は九州の様子だろう。畿内の文化的状況が変わったのは、畿内に邪馬台国に対抗するような別の国があって勢力を伸ばした結果ではないかと思われる。
 以上のとおり、畿内に邪馬台国が成立したとする根拠はない。


⑸ 倭国大乱は畿内から始まったのか
 畿内に邪馬台国が成立し、それがヤマト王権の国だと仮定した場合、倭国大乱をどう考えるのか。
 倭の国々が争い、卑弥呼を女王に共立したと考える立場では、争いの原因は何か。王位継承は特定の国の王家の問題であり、他国が介入すべきことではない。領土争いは当事国の争いであり倭国全体で争うことではない。倭の統治権を奪い合う争いなら、支配が変わるまで王はいるだろう。そのような争いが倭全体で起きたなら、卑弥呼を倭国の女王に共立して解決できるのか疑問である。
 倭国が「歴年無主」だったというのは、倭の国々を支配していた邪馬台国王がいない状態である。王位継承争いが起きて王位継承者が決まらず、王族、臣下、諸国の王を巻き込んで争いが長引いたと考えるのが妥当である。
 王位継承争いが発端であるなら、争いが始まった場所は、共立された女王がいた邪馬台国だと考えられる。
 邪馬台国が畿内に成立したとする説では、大乱前から畿内にヤマト国が成立していて、大乱も畿内で起きたことになる。しかし、この時期にヤマト王権の王位継承争いがあって女王が共立されたと考えることはできない。ヒミコに相当する名も残っていない。記紀に記録を残さないことの意味を考えるべきである。
 ヤマト王権に空位の時期があったというのは、仲哀天皇死後、その子が即位するまでというのがあるが、王位継承争いはない。神功皇后を卑弥呼に比定するのは時代を無視しているし、共立でもない。卑弥呼はヤマト王権の王ではないと考えるべきである。つまり、倭国大乱はヤマト王権が関わった事件ではないのである。
 また、畿内で大乱が起きて相攻伐したなら、二世紀後半の遺跡にその痕跡があるだろうが、そのような発掘成果は見られない。


⑹ 畿内で倭国の運営と統治はできない
 邪馬台国が畿内にあって、九州の国々が卑弥呼を女王に共立するということはあったのか。だれを王に立てるかは王家が決めるべきことで、九州の国々の王が邪馬台国の王を「共に立てる」ことはありえない。
 王家の中で王位継承争いをした当事者らが和睦して女王を共立したのであれば、畿内でもありうる。畿内に王権があったなら、九州の国々だけが詳しく魏志倭人伝に書かれているのは奇妙である。
 女王が畿内にいるなら、帯方郡からの使者が駐在する場所も畿内に設けるのが礼儀というものである。女王が畿内にいて、そこから遠く離れた九州の伊都国に駐在させられるのを魏が承知するかという問題もある。伊都国が外交使節の駐在場所であり、また一大率が置かれているのは、そこが統治の中心地だからである。一大率を置いて監視すべき北方の国というのは、本州であり、畿内の北方ではない。伊都国に人員を配置して外交と統治の拠点としたなら、畿内に王都を造って監視と命令をするのは極めて不合理である。


⑺ 九州に邪馬台国がなければどういう国があったのか
 邪馬台国畿内成立説では北部九州にはどういう国があったと考えるのか。北部九州の範囲として想定されるのは筑紫平野、福岡平野から北九州を回って大分県北部辺りまでである。
魏志倭人伝の末盧国から投馬国までのうち、北部九州に関係ありそうなのは末盧国、伊都国、奴国と不彌国であろう。投馬国は南にあるから除外される。
 伊都国は千戸程度の小国であり、北部九州全域を領地とする国ではない。しかし、政治・外交の拠点だったと考えられる。末盧国は西九州のほうであり、不彌国は小国である。奴国は二万余戸にとどまる。投馬国は五万余戸とされている。北部九州の国が末盧国、伊都国、奴国、不彌国だけだったなら、それらを合わせても投馬国より戸数が少ない。これはおかしい。伊都国、奴国、不彌国、奴国の他の有力な国があったと考えるべきである。それはやはり倭国最大勢力の邪馬台国だろう。

ヤマト王権の始まりの国 5-2

二 都(ミヤコ)造り
 古事記には、イハレヒコノミコトの「坐何地者平聞看天下之政猶思東行」という発言が書かれているから、東行は天下の政治をする最適の地を得る目的があったことが分かる。日本書紀には、「何不就而都之乎」とあり、ニギハヤヒノミコト(邇藝速日命、饒速日命)が飛び降りた地を都にすることが目的だと解釈できる。
 都(ツ)は王が居る城がある統治の中心地のことであるが、それが目的だったのであれば古事記と同じ趣旨になる。しかし、祭政一致による統治と、都をミヤコと呼ぶようになった理由を想像しながら、ミヤコを造るという言葉の意味を考える必要がある。


⑴ ミヤとは
 ミヤは神を祀り、神が来訪するとされる場所である。御神体が置かれることが多いが、神が鎮座し続けているわけではない。ミヤは「ミ」と「ヤ」の合成語ではないかと思う。
「ミ」は人に宿る見えない力(神)のことである。その力は先祖から引き継がれるとされ、祖神という意味になる。接頭語ではない。人は死んで神になるという思想は現代の神道にも残っているが、死ねば見えない力としてどこかにいるというのと同じである。ヤマト王権の王の先祖は天照大神だとされるが、天の力がヤマトに引き継がれてきたという思想である。
 「ヤ」は家、屋、舎という字が用いられるが、建物のことである。神は実体がないからこの世に現れたかどうかは見えない。現れたとしてもその場所は人々が知ることはできない。御神体という思想や沖縄の御嶽はそこに神や祖霊が現れるという信仰にもとづいているが、宮はその特別の建物を造り、そこに現れてもらうという願いが含まれている。造ればよいというものではなく、その建物内に祀ることにより現れてもらえるという信仰であり、祀るための建物がミヤである。
 祭政一致の統治の時代にあっては、ミヤ造りは国造りと一体である。王が祖神を祀るミヤは王の住む御殿でもある。その御殿のことを王宮という。そこで、ミヤに宮の字が当てられたのだろう。天皇が祀りごとをする建物は大宮と呼ばれた。
 古事記に「宮」が初登場するのは、スサノヲノミコトが須賀に宮を造ったという箇所である。どのような神を祀ったのかは分からない。御殿と訳されているが、宮は御殿と同じではない。古事記には書かれていないが、出雲の国にはスサノヲノミコトを祀る宮についての伝承があったかもしれない。
 スサノヲノミコトの子孫とされるオホクニヌシノカミはタケミカツチ(ヲ)ノカミ(建御雷神、建御雷男神、武甕槌神)に国譲りの条件として「天之御舎」を建てるよう求めたことになっている。「御舎」はミアラカと読まれているが、ミヤのことだと考えればよいと思う。倭の国を造ってきた出雲の神々を尊ぶよう求め、天の神に「御舎」を造ってそこで祀るよう求めたと考えるのが妥当かもしれない。
 これに対するタケミカツチノカミの同意が独断による単なる方便だったか、天照大神がこれを約束して造ったのかは分からない。「天之御舎」が天に造られるものであるなら、地上にいる人々にはそれが造られたかどうか分かるはずがない。
 出雲にオホヤシロ(大社)が造られてオホクニヌシノカミが祀られているが、これは力を封じ込めるために鎮座してもらうという目的だったのではないかと思う。その際、古事記の「天之御舎」の記述を参考にして巨大な社を造った可能性がある。


⑵ ミヤコとは
 ミヤコは、一般には、宮処のことだとされている。宮処を和風に読めばミヤトコロである。古事記や日本書紀にはミヤコは登場するがミヤトコロという言葉はない。万葉集には「大宮處」、「大宮所」という言葉が出てくる。これはオホミヤトコロと読む。大宮は王宮である。ミヤコは、「宮子」、「京」、「京都」、「京師」、「都」、「美也古」、「美夜古」、「弥夜古」、「弥夜故」、「美夜故」、「王都」、「皇都」の字が用いられていて、「宮處」の字は「大宮處」、「離宮處」の他にはない。「大宮處」、「離宮處」(「依興各思高圓離宮處作歌五首」)は、宮の跡地を見て当時を偲んで歌を詠んだもので、宮があったところということで「處」(トコロ)としたのだろう。
 古事記や日本書紀に登場する「處」の多くは「トコロ」と読むべきものが多い。「其處」はソコと読まれているがソノトコロとも読める。因みに「他處」はアダシトコロと読まれている。
 しかし、万葉集に出てくる「何處」という字はイヅク、イヅチと読まれている。古事記に出てくる「何地」も同じかもしれない。これから類推すると、宮處はミヤク、ミヤチと読むこともできる。
 他方、万葉集の「金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念」という歌に宮子という字が出てくる。この歌は額田王の歌だとされているが、天皇の歌だという説もある。この宮子は宮処の意味だとされている。秋の野の草を刈って葺いた建物に泊まったときに、宇治宮の地にある仮庵を思い出したことを詠んだものということになる。また、柿本人麻呂の歌の一部に「瀧之宮子波 見礼跡不飽可問」というのがある。この宮子は吉野宮がある地のことである。
 これらから判断すると、宮子と宮處は同じ意味のように見えるが、ミヤトコロに宮處の字を当て、ミヤクやミヤコには宮處ではなく宮子や宮古などの字を当てていたのではないかと思われる。
 トコロはコノトコロやソノトコロと言うように元々は限定された場所や時間を指し、クは一定範囲の地域や時間を画する言葉だったのではないかと思う。ミヤトコロは宮がある(あった)その場所を言い、ミヤクは宮の地域を区分した言い方である。従って、王宮を中心として一定地域を囲った場合は、ミヤクと呼ぶことになる。それがミヤコに変化したのだろう。「京」、「京都」、「京師」、「都」などは王都であるミヤクであろう。ミヤクの中に王宮の場所、オホミヤトコロがあるという関係になる。
 王が滞在する宇治宮、吉野宮などの離宮を中心とした地域が区分されているならその地域もミヤク、ミヤコである。しかし、王都を意味する字は使えない。よって、派生的に造られた宮という意味で宮子という字を用いたのではないかと思う。
 東征の目的は畿内に場所を得て宮を建てるのが目的で、土地の占領は手段にすぎない。高千穂の宮から派生した宮を造り、それを中心とした一定地域を囲うというのもミヤコ(宮子)造りである。宮を造り祭政一致の統治をするという意味では国造りである。ただし、高千穂宮の神を祀る宮をその地に造るのであれば、独立した別の国を造って別の神を祀ることにはならない。
 高千穂の宮と畿内の宮は、親子の関係のように造られ、先祖は同じである。宮子は地位的には一つ下の宮の意味になるが、宮の格付けが東征のときにあったのかは分からない。後に畿内に倭国の王権が移り、ヤマト王権の成立によって宮子は宮になり、その地域は「京」や「都」になり、王の別宮が宮子となる。


⑶ 王と宮の関係
 王は天の神の子孫であるという主張は王の先祖に天の神が降臨したという思想の別表現である。神の子孫である王の子は一人ではないが、国を造り治める王にその特別な力が引き継がれるという信仰であるから、子のうち神として崇められるのは王になった者と王になるべきであった者のみである。
 王は、王族の長として祖神を祀る主宰者となる。儀式は神官が主導し神との交信を行うものとされる。古事記には、神八井耳命が神沼河耳命(綏靖天皇)に王位に就くことを勧めた時、自分は「忌人」になると言ったと書かれている。忌人は祀りごとを行う者だと解釈されている。これは祀りごとの儀式を主宰する神官のことで、祖神を祀る者のことではない。
 宮が、王とその家族らが生活をし、政をする場所に置かれる場合は、王宮や王宮殿と呼ばれる。邸宅を造り、奴婢や使役を住まわせ、警護の兵を置く。当時は現場で政の指揮や視察を行うことがあっても、特定の執務場所を王宮外に造ることはなかったと思われる。臣下、神官、武将などは王宮に参上し、そこでさまざまな指示を受け、政治を行うことになる。緊急に豪族や武装部隊に指示を出すときは使いをやって召せばよい。
 臣下も王の親子に仕えることを通じて代々の王に仕えるようになる。統治に継続性、安定性を持たせるうえでも、王が変わっても臣は直ちには変わらない制度が必要になっていっただろう。
 妻が複数になると、王宮に王が常在していたかどうかは分からない。後には住居は別にしていた例がある。


⑷ 宮の名と場所
 王の子が成長して王と別に住んでいる場合は、その地は王権の支配が確立していたことになる。王の子が住んでいた場所で王位を継承するとともに祖神を祀ることとなれば、そこが次の王宮となる。別の場所に宮を造り移転することもあっただろう。
 臣下らは新たな宮の近くに転居する必要があったかもしれないが、新たな王に従わざるを得ない。私邸であれば次の王宮の場所は予測がついている。官僚制のように個々の王族から独立した臣の制度ができるまでは、特定の王族だけに仕える人的なつながりが重要である。王の臣下は王位継承者をよく知っており、そのまま新王を補佐し、支配下の豪族らが支援したのだろう。そうなると、王位継承者にとりいる豪族もいたかもしれない。
 王宮の移転が臣下や民の転居と新たな集落つくりをもたらしたならば、地域の発展には好都合である。
 宮の場所はその名から推理することになる。多くは地名が付されているからである。それによって王権の勢力がどのように広がっていったか、どういう目的でその地を選んだかを推理することができる。


⑸ 王に私生活なし?
 王宮は王が住み、先祖を祀る私邸から始まったが、王の職を行う公的な施設となる。臣下に指示をし、報告を聞く施設、臣下を集めて会議を行う場所、臣下が執務する場所、兵や下僕が生活する場所なども必要となり、王宮は一つの集落のように巨大になっていく。
 こうなると、王とその家族の私生活はかなり狭められ、私邸に住んでいるという感覚ではなくなるだろう。王宮内に私邸を造って画するしかない。
 その王宮を中心として周りには臣下や民が住む集落ができ、人や物資が移動する道路や水路も整備される。無秩序に人口が増え警備に支障がでると、王宮を中心とした地域を水路や壁などで区画し、人の流入を制限する必要がある。
 その区画はミヤコ(京)と呼ばれる。しかし、区画の周辺に人々が集まることを阻止できるわけではない。周辺も含めて集合的な地域ができ、ミヤコ(都)と呼ばれる。
 王は常に生活を管理され、世話という方法で監視され、私生活はない。王は神であるから祀られることを拒めず、常に人々に見られて崇められるものである。その存在を人と比べることは無意味であるという意識を持たなければならない。複数の妻がいても、全て公知のものであり、王宮に居る限り、妻らの私生活も誓約される。
 そのような王宮生活がいやなら、都の外に私邸を造るしかない。


三 遷宮はあったか
 遷宮は、宮を遷すことである。新たな宮を造って元の宮を廃し、神に新宮でのみ祀る。元の宮を廃止しない場合は本宮として残る。記紀においては、崇神天皇や垂仁天皇の時代には、天照大神は伊勢の宮に祀られていたことが分かるが、遷宮がされたという記述はない。先祖発祥の地、神が降臨した地は伝承が間違いだったとしない限り変わることはない。
 高千穂は倭国の王権を得るに至った一族の先祖の地であり、国を造り治める神を祀るべき場所である。先祖の地が変わることはないが、国を治める力の代名詞ともいうべき天の神を祀る場所は高千穂でなければならない理由はない。おそらく高千穂宮には、卑弥呼らも先祖に加えられて祀られていただろう。ヤマト王家にとって、高千穂宮において代々の亡き王を祀るわけにはいかない。むしろ、新たな王権には新たな神に相応しい祀り場所を定める必要があった。
 そこで、天照大神をヤマト王家の祖神とし、その神を祀るための新たな宮を、太陽が昇ってくる方向の先端の地である伊勢に造ったものと考えられる。これは高千穂宮を遷したものではない。
 天照大神を祀る宮を造ったのは、倭国の王位(統治権)の移譲があったからである。記紀において、崇神天皇や垂仁天皇の時代に伊勢の宮が登場したのはそういう背景があったと想像される。