ヤマト王権の始まりの国 7-2

第七章 畿内の発展をもたらしたもの


一 畿内発展の条件と契機
 奈良平野は広大で、縄文時代から集落ができ、紀元前五世紀頃には水田耕作も伝わり農耕集落ができていた。その広い平野で水田耕作をすればもっと早くから人口が増えて巨大集落が各地にできていただろう。弥生時代の遺跡からは、溝の跡が見つかっており、当時の人々が水利をどうするか考えていたことが分かる。環濠が埋まった跡から洪水が発生したこともあったようであるが、畿内の年間降水量は多くない。
 一集落や一地域のことだけを考えていた時代から畿内に国を造り治める時代になると、王や豪族がまず考えるべきことは、水田を広げ産業を発展させ、武力を強化することである。大規模墳墓を造ることではない。そのためには水を確保するのが第一条件となる。それにより開墾地に集落ができ、人口が増え、武器などの総合的な生産力の強化をもたらし、王権の勢力を伸ばして畿内、畿外へと支配を広げていくことが可能になる。
 年間降雨量が少ない地域にあっては、雨が多いときに水を溜めておいて、必要なときに使えるようにする。現在でも、奈良平野には溜め池が多いが、前方後円墳の周濠も溜め池に見える。前方後円墳を巨大墳丘墓としてみるのではなく、周濠に着目して、溜め池造りという実利的な理由で造られた可能性を検討する必要があると思う。
 また、周濠の中の人工山を墳墓として使った場合、山上に葬る際にスロープ式通路が造られ、それが撤去されて方形部として残されたことで、前方後円墳の形ができた可能性がある。ただし、円墳の傾斜、方形部の幅と高さと傾斜については造り方が変化していく。この墳墓形式が山上に葬る伝統的な葬送文化を持つヤマト王権に採り入れられ、全国にも広がっていったのだろう。
 結果として、弥生後期からの畿内の急速な発展が墳墓形式の変化と重なることになる。
これまで、墳墓形式の変化は、そういう形式の墳墓造りが目的だったという前提で論じられているが、まず溜め池造りが目的で、後に墳墓造りと一体化し目的が広がったのではないかと思う。全国には、溜め池を目的としたもの、墳墓目的で墳丘墓形式のみを模倣したもの、最初から両方を目的としたものがあってもおかしくはないが、先行する畿内はまず溜め池を考えたのではないかと思う。
 何がどう変わったかを比較するために、弥生時代の様子を想像してみる。


二 弥生時代の農耕集落の水利
⑴ 農耕集落の場所
 飲料水と魚貝、雑穀などの食糧が確保できる地域であれば縄文時代から集落ができていただろうが、縄文時代晩期から徐々に形成された農耕集落は水田耕作を中心としている。水田に必要な水を確保できることが農耕集落には必須である。通常の方法は水源から水路を造るなどして水を引くことである。水源は大小の川や池沼である。水の元は雨である。
① 山間部
 山から流れ出る水を、溝を作って導くか、小渓や谷川などから取水する。谷川の河床が低い場合は水位が高い上流から水路を引いてくるか、堰き止めをして水位を上げる。そのようにして水利を確保できた場所が水田適地となる。
 この方法は大掛かりな土木工事を必要としない。山麓部や山間部の平地に農耕集落ができるのは合理的であると言える。森林のある山には自然の恵みもあっただろうから、食糧的にも有利である。水田にも栄養分が流れ込む。しかし、水田にすることができる土地面積は限られ、開墾には労力を要する。
 川を堰き止めてダムを造る方法があるが、この時代に造られていたかどうかは分からない。仮にその知識があっても谷が広いと工事は無理だろう。狭いところに造っても大雨のときなど溜まる水量が多くなるとダムが決壊するおそれがあり、重要な時期に大被害が生じる。川の流れと別に小規模の池を造って水を溜めることは考えられたかもしれない。
② 平野部
 水利を考えずに、平野だから水田に適しているという考えは通用しない。平野部が広くても必要な時期に水が行き渡らない場所では水田耕作はできない。しかも、土が耕作に適していなければならない。
 湧水池周辺は湿地帯になっていた可能性が高く、そこから水路を引けば水田を広げることができるし、その近辺に集落をつくれば生活用水も確保できる。
 通常は川から水を引くことになる。水位より高い土地には堰き止めや水車などの揚水装置により水を引く工夫がいるが、この時代にそういうものがあったとは思われない。川の水位より低い土地なら水を引くことができるが、水位が上がったときに川から水が溢れてこないようにする仕組みが必要である。川に土手を造ることになるが、川沿いに長く造らなければならず、大掛かりで広域的な工事になる。川からの水路は取水、堰き止め、排水を考えて造らなければならない。
 また、川沿いの水田は、川の水が溢れたときには破壊される恐れがある。流れが穏やかな場所では土砂が溜まって水位が上がるから洪水の危険性が増すため、川底を浚うか、土手を高くしていかなければならない。
 このような工事は統率力のある者の指揮のもとで共同作業により広く水田を作る場合でないと進められないだろう。
 よって、平野部の農耕集落も自然の水利の良い場所につくられる。


⑵ 新しい集落
① 水を溜める発想
 水路を引くことができない地域、水量が少ない地域、水争いにより水源を確保できなくなった地域で水田を作るには、溜め池を造って水を確保するという方法になる。
 川から離れて水が十分に届かない場所や、山麓部でも流れが速くて河床が低くなるなどして水を引くことができない場所では水田耕作は小規模になる。上流から水路を引いてくる方法はあるが、水争いが起きる。平野部の川に高さのある堰を造って水位を上げて水路に導くという大掛かりな技術はまだ無かったと思われる。
 そこで、自然の池沼に倣って人工の溜め池を造ることが考えられた。
 溜め池を造る場所は溜める水が取れる場所である。川沿いの土地を掘って土手で囲い、そこに川の水を引くという方法があるが、洪水対策がとられていないと池は維持できない。川沿いの溜め池は堅固な土手を造れるようになってから造られたものだろう。弥生時代には、川沿いの池はなかったのではないかと思われる。
 溜め池は川から離れているが川の水を引くことができるところか、湧水または少し掘れば大量の地下水が出るところ、雨水が多く集まるところが候補地になる。水田耕作に適した土壌作りも必要である。
 川の水を引きやすく大量の水が溢れるおそれがない場所は谷間に近い山麓である。そこに溜め池を造ればよい。
 湧水のある地などには、水を流すための川もできる。水を利用し不要な排水を流すには良い場所であり、集落ができやすい。湧水池を拡張すれば溜め池として利用できる。地下水は井戸を掘ったときに偶然見つかることもある。水量が多ければ、その近くに池を掘ることができる。
 平地で池を造る場合は、水路の水面と傾斜の関係で深く掘っても無意味である。小さな集落の人力と当時の道具で固い地中を掘り進めるのは困難でもある。雨水を集めることも考えるなら池の面積を広くしなければならない。よって、浅く広く掘ることになる。
 周濠式溜め池が広く浅く造られたのも以上の事情によるものと思われる。それによって巨大な盛り土ができ山のようになる。
② 周濠式の溜め池と集落造り
 周濠式の溜め池は、前方後円墳の一部分として扱われているが、周濠付きの前方後円墳が山麓の緩やかな傾斜地に集中して造られていたのは、溜め池を造るという目的があったからだと考えられる。ただし、方法は一つではなく周濠に土手や堰堤が必要になる場合がある。
 周濠型の池を造る知識と技術はいつごろ奈良平野に広まったかは分からないが、後述する瀬田遺跡の円形周溝墓と言われているものはその原型ではないかと思う。だとすれば、二世紀中かもしれない。
 溜め池が造られると水田耕作が広がり、集落は大きくなる。道具の改良と多くの人力が揃えば巨大な池を掘ることができる。そういう場所には新しい集落がつくられていく。纏向には巨大な集落ができたと考えられる。
 大掛かりな工事を進めるには多くの労働力と統率者、監督者が必要である。奈良平野に広がっていったのは、国ができて発展していった過程と並行していたと考えられる。他方、王墓とは言えないものが多く、初期の古墳では吉備系の遺物が発掘されているから、溜め池造りは吉備人の知恵で吉備人の地域に始まったと考えられる。
 その成果を邪馬台国の畿内王家が喜び、奨励したと思われる。新しい集落を基礎にした都は、吉備人や先住民の労働力と後にヤマトと呼ぶ邪馬台国の権力によってつくられたのである。
 前方後円墳の始まりを以上のように考えると、時代の変化は前方後円墳の全国的広がりより前に起きたと言える、また、三世紀をもって方形周溝墓の築造は終わったと考えられるものの前方後円墳と重なる時期があり、前方後円墳が王墓形式となるのは三世紀終わりかr四世紀初め頃のことだと思われる。


三 周濠式溜め池と墳墓の変化
⑴ 全国に造られた方形周溝墓
 弥生時代には周溝墓や墳丘墓が造られたとされ、後期には大規模になったと言われている。周溝墓は朝鮮由来と言われている。九州から東北まで方形周溝墓跡がある。朝鮮由来の勢力が広域的にまとめた国を造っていた可能性がある。
 奈良平野も墳墓形式の主流は方形周溝墓だった。弥生時代後期の佐紀、唐古、鍵、庵治、纏向、四分、曾我、池尻など畿内全域にわたり、方形周溝墓跡が見られる。
 方形周溝墓は、方形に区画した外側に溝を掘り、中に台状に盛り土をしたものである。溝は全周を囲っており、幅は通常二メートル余りで水を満たしていたと考えられる。人が容易に飛び越えられない程度の幅にして黄泉の世界ないし穢れの世界と画していたのかもしれない。墓と行き来する場合は禊祓いに使われたかもしれない。
 一つの墓地に複数人が埋葬されたものがあるが、同族がいる異界につながる場所は一つでよいからむしろ合理的である。
 ところで、出雲など山陰地方から富山地方辺りまでの日本海沿岸地域には四隅突出型墳丘墓という特殊な形式の墳墓がある。この墳墓には四隅に突出部があり、表面に石が敷き詰められているものがある。周濠は見当たらない。方形周溝墓を造った勢力とは別の勢力が造ったのではなく、王族関係者の墓を区別するために特別な形式として巨大は四隅突出式の方形墳丘墓を造営したのではないかと思われる。
 方形周溝墓が出雲に到着して国造りを始めた勢力と関係があるなら、畿内の方形周溝墓はその勢力が畿内を従えていたことになるが、三輪山に大年神を祀ったという古事記の物語からすれば、そのように解釈できる。
 しかし、方形周溝墓を造らない勢力は、周溝の水に着目しその利用を考えた可能性がある。周溝を大きくすれば多くの水を溜めることができるからである。


⑵ 瀬田遺跡の円形周溝墓は墳墓なのか
 弥生中期から後期に築造されたとされる瀬田遺跡の円形周溝墓は他の円形周溝墓とは様相が違う。
 瀬田遺跡には吉備文化の遺物が見つかっており、吉備系の豪族が兵と農耕の民を引き連れて移住し、農業を指揮していたことがうかがえる。当時の出雲と吉備は対立してはいなかったものと思われる。その吉備や播磨に円形周溝墓跡が見つかっており、畿内にも伝わったと思われるが、瀬田遺跡の円形周溝遺構は、通常の円形周溝墓の円形部の直径が約十九メートルであるのに対し、周溝の幅が約六メートルと広く、陸橋が設けられている。
 周溝の幅と全体の割合からすると、周濠と言ったほうがよい。なぜ、周濠とも言えるような堀を造ったのか。
 最初から円形の周溝墓を造る目的であれば周溝幅を大きくする必要はない。そもそも神域を画するために周溝をつくるという発想ではない。
 溜め池を普通の穴掘り式で造れば、中心から外に向かって掘って穴を広げていく。その土は外に盛り上げていくことになるが、掘る予定範囲が決まっていない場合や予定を変える場合は、盛り上げた土をさらに移動させなければならず効率が悪い。そこで、外側から内に向かって円状に掘っていき、その土を中の円形部と土手に盛り上げていくことを考えついたのだろう。
 造り方は大まかに言って、例えば棒と紐(縄)を使って半径十五メートル余りの円と半径九メートル余りの円を描き、二つの円の間を深さ〇・八メートルくらいで掘るのである。長さは人が腕を広げた状態で手をつないだ状態で、その人数分で決めればよい。掘る際には陸橋部を残しておいて、円形部に土を運び、盛った土が崩れないように踏み固める作業用通路にする。周濠を大きくするには外側を広げればよく、その土は陸橋から運んで中岡に盛る。実際の円形部の高さや形は分からない。上に土を運ぶのにスロープが必要だったなら、陸橋に土を盛ったと思われる。
 周濠式にすれば中岡に降った雨のほとんどは周濠に溜まっていくから、降雨量は中岡に降った量を合算することになる。周囲の雨水が流れ込めばもっと増える。周濠と中岡の合計面積が大きくなればなるほど雨水を溜めやすい。瀬田の例では中岡の面積を足すと穴掘り式の池の約一・六倍の広さになり、溜まる水の量も約一・六倍になる。極めて合理的な造り方である。井戸跡があったことから地下水も出たと思われ、水量は十分だったかもしれない。小規模では雨水を溜める効果はあまりないが、次はもっと大きなものを造ろうという動機にはなる。
 問題は周濠の水位である。水田よりやや高い場所に造るとか、周囲に土手を作るとかして水位を上げ水路に水を流せるようにしなければならない。
 中岡が浸食されると池の底には泥土が溜まり、それを掘り上げる必要がある。瀬田遺跡の溝から発見された箱脚付き編み籠は水路に水を汲み出したり泥を運び出したりする道具だったのかもしれない。その泥を開墾した水田用地に用土として入れればよい。
 陸橋は中岡に出入りするためである。やや台形状になって残る。円形部への接続幅は約二メートルと狭い。墳墓であれば中の岡を遠くに見せる視覚的効果を狙ったという想像ができるかもしれないが、後に建物が建てられた跡や井戸跡があるから墳墓として造られたのか疑問がある。円形部の土坑が墓だと言われるかもしれないが、豪族の墳墓らしくない。近くに同時代の方形周溝墓跡があるから、それが墳墓である。円形周溝墓と方形周溝墓が同時期に破壊されたのか方形周溝墓が先だったのかは、円形周溝墓の意義を考えるうえで重要である。いずれにしても、円形周溝墓だと断定するのは妥当でない。


⑶ 三世紀前半の周濠付き古墳
 弥生時代後期に大型墳丘墓が造られるようになったとされているのが、纏向型や帆立貝型墳墓である。
 同時代の古墳に、吉備(総社)の楯築墳丘墓がある。山上に造られ、円形墳丘墓の上に向かう通路を両側に造ったような形の双方中円墳(双方中円形墳丘墓)という特異なものである。水を溜める周濠や周溝はない。上にストーンサークルがあり、最初から墳墓として造られたものであろう。この形式は九州でも見つかっているが、畿内での吉備勢力との密接な関係を考えればおかしなことではない。
 これに対して、周濠のある纏向型や帆立貝型墳丘墓は畿内特有の形式である。全国的に見ても特異である。これを、墳墓を目的として造ったと断定してよいものだろうか。周濠の大きさから考えると、瀬田の円形周溝墓と呼ばれている遺構よりも規模は大きく、周濠幅と円形部直径からするとスケールアップに見える。つまり、まず溜め池を造るのが目的だったのではないかと思われる。
 纏向型、帆立貝型墳丘墓の周濠幅は大きくなって、陸橋部分も長い。掘られた土も多く、中の岡は大きくなる。その分、雨水を多く溜めることができる。結果的に大型墳丘墓のようになり、山に見立てて墳墓として使うのに充分であっただろう。
こ れだけの周濠式溜め池が造られたなら、それに見合った人口と集落があり、統率した有力者もいたと考えられる。


⑷ 周濠式の墳墓形式をもたらした勢力
 円形周濠(墓)、纏向型墳丘墓の埋蔵物に吉備系の物があることから、その築造には吉備勢力が関わっている。吉備には円形周溝墓跡が見つかっているが、方形周溝墓を造っていた勢力はいない。畿内には円形周溝墓の遺跡数は極めて少なく、周濠式溜め池との関連性は分からない。
 瀬田の周濠造りが始まった時期が二世紀中頃であれば、ヤマト王権の成立より前に畿内に吉備からの移住者がいたことになる。倭国(邪馬台国)の勢力拡大とニギハヤヒノミコトの話から想像すると、二世紀前半に倭国勢力の進攻があり、吉備から同行し移住した者たちとともに奈良平野東南部を支配していたのかもしれない。あるいはそれ以前に吉備の人々がそこに移住していて倭国勢力に従った可能性もある。
 東征の物語によれば、吉備で食糧、兵、船を調達しているから、奈良平野東南部に倭国勢力がいたとすれば合流した可能性もある。邪馬台国の子国を治めていた初期のヤマト王権は先に畿内に進出した倭国勢力の地域を基盤にしたものと思われる。瀬田遺跡は橿原にある。
その倭国勢力がいたとして墳墓はどうなっていたのか。邪馬台国の王族は特有の墳墓の形式を持たず山の上に葬る風習だったと思われる。葬るべき山がない平地では山まで運んで葬ったか、山に見立てた塚を造ったと思われる。
 子国時代の初期ヤマト王権も同様だっただろう。葬送の形式を変えて円形周溝墓や墳丘墓を造らせたとは思えない。
 では、吉備からの移住者がいたとすれば、彼らの墳墓はどうか。池造りを指揮していたのは、王族ではなく吉備出身の豪族だった可能性が高い。楯築古墳に見られるように、吉備にも山に葬る風習があり、人工の山ができたことを契機として、その山に葬るようになったのではなかろうか。周濠の中岡を山に見立て、池造りを指揮した業績を印す意味も兼ねてその者の墳墓に転用した可能性がある。
 この形式の池の効果を知ったヤマト王権は自ら周濠式の溜め池を掘らせたと思われる。そして、後にその岡を王族の墳墓に使用するようになったのではないだろうか。


⑸ 方形周溝墓はなぜ消えたか
 纏向型古墳や前方後円墳が残っているのに畿内の方形周溝墓はそのままには残っていないのは、洪水などの災害で崩れ埋まったか、放置されて崩れ消滅したか、人為的に破壊されたからだと考えるべきだろう。副葬品を盗むためであれば墳墓そのものを完全に破壊する必要はない。
 墳墓が完全破壊される理由は、①そこに埋葬されている者とその歴史を抹消するため、②別の形式の墓に改葬するため、③子孫断絶や災害などにより自然に荒廃して墳墓の様相がなくなり別の用途に利用されたため、④そこが周濠式溜め池を造るうえで適地であったためという四つが考えられる。
 方形周溝墓があった遺跡では銅鐸が発見されていることから、ヤマト王権と異なる勢力が集落や墳墓を造っていたと考えられる。副葬品が残っていたなら、他の墓に改葬したとは考えられない。また、豪族の墓であるなら、災害などで滅失しても再建するだろう。子孫が断絶するのは滅ぼされた可能性がある。
 しかし、信仰のために方形周溝墓を造ることを直ちに禁止したとは考えられない。方形周溝墓は単なる墳墓形式として造られていたかもしれない。逆に言えば、こだわりもない。周濠式溜め池という実利と宗教文化・墳墓形式は別次元のこととして長い間共存していたのかもしれない。
 三世紀後半には、畿内のヤマト王(卑弥弓呼)が女王卑弥呼との相攻撃を経て、男王擁立に反対した者の一族の方形周溝墓を報復的に破壊したかもしれない。そのため、方形周溝墓を造る者がいなくなった可能性はある。
 なお、記紀に記された神武天皇陵は「畝火山之北方白檮尾上」とあるだけで墳墓形式は分からない。尾の上というのは山の上に葬る習わしだったのではないかと思われる。

ヤマト王権の始まりの国 2-2

三 狗奴国は畿内にあった


⑴ 邪馬台国子国の成立場所
 邪馬台国が東方拡大の一環として子国を造ったなら、安芸、吉備、針間(播磨)、畿内、近江、尾張などが考えられるが、安芸、吉備、針間(播磨)には既に国があって、倭国成立後に従えていたと思われる。畿内にヤマトという国があってそれを平定したなら、ヤマトが後の倭国になることはない。畿内は広大でまとまった国はできていなかった可能性がある。だとすれば、畿内進攻は国を服属させるのではなく新たな国を造ることになる。記紀の東征物語はこれを反映している可能性がある。
 当時の地形を考えれば、広い平野がある畿内が国造りの拠点に最も適していると考えられただろう。大阪湾は内陸に入り込んで河内平野はまだ形成されていなかった可能性がある。農耕集落がそれなりにあって国造りの拠点とするのに相応しい地として畿内は知られていたと思われるが、集落が分散し国としてまとまっていないことが不思議に思われていたかもしれない。その理由は水利にあったと考えられる。
 では、拘(狗)奴国の位置は、魏志倭人伝や後漢書から推理できるだろうか。


⑵ 奴国の南
 魏志倭人伝では狗奴国は周辺国として紹介されている奴国の南にあるとされる。
 ところが、奴国は二つ出てくるため混乱がある。
 一つは、伊都国の次に紹介されている奴国である。官名も戸数も行程も書かれている。倭奴国の名残かもしれない。この奴国までが女王の境界だというのはおかしい。その次には東の不彌国が書かれ、南には水行二十日の位置にある投馬国、水行十日、陸行一月の位置にある邪馬台国のことが書かれている。南に狗奴国があるとは書かれていない。よって、この奴国の南に狗奴国があるという解釈はとれない。
 もう一つの奴国は、「その他の周辺国」として二十一の国が紹介された中の最後の国である。女王の境界の尽きるところである。周辺国は遠く離れていて国の詳細は分からないとされている。よって、名は同じであるが先の奴国とは別の国である。しかも、遠く離れているというのは九州地内ではないと思われる。狗奴国はその南にある。
 ところが、「其南」を邪馬台国の南のことだと解釈する説がある。女王国の北に周辺国があってその国々の説明があり、女王国の南に狗奴国があるという読み方をする。周辺国は詳細は分からないとしながら狗奴国については王や官の名が記され、卑弥呼と攻撃し合ったということで、周辺国とは違うと考えるのであろう。狗奴国が隣接国で漢の時代から争っていたのを「素不和」と考えるのかもしれない。しかし、卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合ったからといって隣接していることにはならない。後漢書の記述では東に海を渡ったところに拘奴国があるとされているから、女王国の南と読むのは妥当ではない。
 介入した張政は狗奴国がどこにあってどういう王がいるかは分かっていたはずである。その国の王への対応をした様子がないのは隣接する敵対国ではないからだと思う。


⑵ 後漢書の記述と信用性
 後漢書には、倭国大乱と女王共立に続いて、女王国から東に海を渡ること千余里に狗奴国があり、皆倭種であるが女王に属さない(「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」)と書かれている。これは明帝の時代のことではなく、その後の後漢書などで追記されたものである。
 魏志倭人伝は、倭国大乱と女王共立に続いて、東に海を千余里渡ると倭種の国がある(「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」)という記述で、国の名は書いていない。
 魏志倭人伝は古い後漢書などを参考にしていると考えられるが、東に海を千余里渡ったところにあるのは「狗奴国」のことではないと解釈して国名を外し「復有國」で済ませたのではないかと思う。他方、范曄は古い後漢書などに従ってそのまま書いたのであろう。「東度海千餘里至拘奴國」は范曄の間違いだと言われるが、古い後漢書や東観漢記などにどう書いてあったかが重要である。
 「復有國皆倭種」という記述は何を意味するか。「復」は、別のとか別にという意味で、「倭種」というのは、倭の国に分類される国の意味だと考えられる。韓に三種有りとして、馬韓、弁韓、辰韓の三国に分類されるのと同じである。「皆」というのは、他の国々を想定して、これもという意味合いに捉えればよいのではないかと思う。「拘奴国」は複数の国の集合体と考える主張があるかもしれないが、王と長官がいることから一国であると考えるべきである。
 つまり、「復有國皆倭種」」は、(女王国は)別に国を有しておりこれも倭国に含まれるという意味に読むのである。邪馬台国の別の国、子国のことである。これを狗奴国と書くには女王国からの距離が違うため躊躇したのであろう。
問題は「千余里」という距離である。
 これは中国側が直接調査した距離だとは考えられない。使訳は日単位の移動を報告し、それを中国側から見た行程に変えたのであろう。使訳はどのように伝えたのだろうか。
 楽浪郡から朝鮮半島を海路で南下した後、対馬、壱岐などを経て、九州に渡ることになる。対馬まで一日、そこから壱岐まで一日、そこから九州本土までおそらく一日としたと思われる。実際の距離はみな異なるのに一律に千余里としたのは、船で渡海する場合、一日の行程を「千余里」とみなしたものと思われる。
 ただし、後漢書には単に「萬二千里」とあるだけである。倭の使訳は倭国から楽浪郡まで船で十二日かかったという説明をしただけで、漢はそれを一万二千里とだけ記録したものと思われる。
 陸路では、徒歩での一日は日中の移動距離を想定して百里(約四十キロメートル)とみなしたと考えられる。陸沿いに進む場合の距離は、陸路や陸行の距離と大きく違ってはならないから、陸路・陸行に準じた距離が表示された可能性があるが、後漢書には水行という言葉はない。
 魏志倭人伝では、海路、陸路の測り方は後漢書を踏襲していると思われるが、水行、陸行という距離の測り方が加わっている。
 では、九州から畿内まで、どのような距離の見立てだったのか。
 渡海で千余里とあるから海路一日だということになるが、九州から畿内まで船で一日の距離ではない。手漕ぎの船で日中進んで四国の愛媛辺りまでが一日の距離である。
 しかし、九州から畿内までの海路は陸路沿いである。陸路で五百キロメートル以上あり、軍の派遣などの実績から陸路の所要日数が十日余りだと分かっていたと思われる。陸路一日百里計算なら千余里の距離ということになる。
 狗奴国成立後に倭国が朝貢した際、使訳が陸沿いに船で東に進んだところにその国があると説明した場合、舟であろうと徒歩であろうと、千余里の距離は同じでなければならない。
後漢書の狗奴国の記述は追記された部分であり、新たな情報によって書かれたものと思われる。しかし、魏志倭人伝では海路1日の距離を千余里とする計算にしたため狗奴国の位置だと考えることができなかったものと思われる。

ヤマト王権の始まりの国 7-1

第六章 倭国の統治権の移譲
一 邪馬台国王家の没落と畿内王家の興隆
 邪馬台国王家は邪馬台国の王位を自ら決めることはできなかった。男王の即位に対して抵抗を受け、魏の介入で壱與が女王になった。壱與はまだ十三歳で、統治者としての教育を受けていたか疑問である。王族が補佐したにしても、これでは倭の統治が十分にはできない。畿内王家の王は、倭の国造りを九州王家に任せることはできず、倭の統治は畿内王家が行うべきだと考えるようになったと思われる。邪馬台国や倭国には、畿内王家支持派が増えていっただろう。
 しかし、卑弥弓呼軍は撤退したまま、再介入はしなかった。軍事的に解決するのが畿内王権のやり方であったが、魏の張政と直接対決するわけにはいかず、傍観せざるを得なかったのである。
 壱與は魏に朝貢して魏との関係を強化しようとした。張政が帰国した後も魏が壱與の後ろ盾になっており、畿内王家は邪馬台国王家との対決を避けた。唯一の障害は魏と倭国とのつながりである。畿内王家の勢力を倭全体に広げれば、倭の統治権を実質的に得ることになる。魏は認めざるを得なくなるだろう。そういう決意で、中国・四国・近畿地方の国々はもちろんのこと、東方や北方の国々を支配下に置くことに力を注いでいった。魏が滅びようとしているとは夢にも思わなかっただろう。
 畿内では、軍事占領に始まり、国力強化を目指して中央集権政治が行われていた。都の場所は王が任意に選び、王族と豪族を介した支配という形態であった。軍の指揮は王族がとり、豪族は領地を治めて租税を納め労役を提供する。側近を王の居所に参詣させて指示をするという政治の仕方は変わらなかったが、倭国に倣って各地を監視するために役所を置き、官吏を配置したと考えられる。
 三世紀から四世紀にかけては、まず軍事力により各地の豪族に服属の約束をさせることがその内容であった。当初の軍の派遣は、王族を指揮官とする部隊が中心となっただろう。派遣先は倭国に属していない国と倭国に属する国の両方である。倭国への服属から畿内王権への服属へと変えさせることは倭国との軋轢を生むが、承知のうえだっただろう。
 服属は、相手に対して軍事的な圧力をかけ、あるいは武力を行使して主従関係を認めさせることである。そのうえで貢納を約束させることである。地方の先住豪族には都の王に謁見を命じることもその内容だっただろう。王は謁見した地方豪族に対して従うことを条件に治める地を与え、貢納すべきものを命じる。豪族らがこれを名誉と感じ忠誠を誓うなら服属は完了したと言ってよい。抵抗すれば殺害し、王族や臣下にその地を与えて治めさせる。
 畿内王権は王の先祖である神の信仰を基礎とする安定した社会を造るため、邪神信仰を禁止し、儀式を統一し、墓制も定めたと思われる。畿内には独特の文化ができていく。畿内が発展するにつれ、謁見に参上した地方の豪族らは都の規模や御殿など見たこともない文化を見て驚くことになる。地方豪族らは進んで畿内王権に従おうとしただろう。地方豪族を次々に従え、都詣でをさせ、王が地位を与えることで、諸国平定が進んでいく。
 以上は、狗奴国を邪馬台国の子国と考えた場合の推理である。敵対国と捉える立場では、狗奴国は邪馬台国が内部紛争で弱体化するのを期待して傍観していたと想像するのかもしれないが、狗奴国がその後どうなったかについては想像が及ばないようである。また、三世紀半ばに豪族連合政権のヤマト王権が成立したという説は、魏が滅んだ後に邪馬台国を滅ぼし、また、狗奴国も滅ぼしたと想像するのかもしれないが、倭随一の軍事強国になった経緯は明らかではない。「歴史の空白」は想像力(推理力)の貧困による人為的空白でもある。


二 畿内王家への倭国統治権の移譲
 二百六十六年、壱與は魏に対して朝貢を行おうとした。魏の状況について情報が伝わっておらず、様子を探ろうとしたのかもしれないが、壱與の国も不安定になっていたのかもしれない。その前年、魏は王位の禅譲によって滅び、西晋という国が成立していた。魏皇帝が西晋王に王位を禅譲したと知って西晋王に朝貢しようとしたのだろうが、それもできなかった。禅譲とあるが実態は降伏だったのではないかと思う。
 中国の後ろ盾を得ることができなくなったという情報は畿内王家の王に伝えられただろう。畿内王家は、九州王家から倭国の統治権を移譲させて倭の国々を支配下に置く機会だと判断したのではないか。
 九州王家は、西日本だけでなくその東方、北方の国を支配下に入れようとしている畿内王家の勢力に対抗することはできなかった。反対論はあっただろうが、畿内王家に倭すべての統治を委ねるのが妥当だと判断し、倭国の統治権を譲らざるを得ないと判断しただろう。ただし、方法はすぐには決まらなかったと思う。
 壱與は女王の地位を退き、表向きは譲位という形式をとろうとした可能性もあるが、王位継承資格がない者への譲位はありえないから、畿内王家の先順位となる王位継承者ら全てに継承資格を放棄させる必要がある。その場合は、遷宮・遷都を伴うことになるが、その場合は、邪馬台国からの王の系譜が続くはずである。
 むしろ、仮に譲位の話があったとしても畿内王家は邪馬台国の王位継承者になることを拒否したのではないかと思う。譲位ではなく統治権の移譲を求めたたから、遷宮や遷都という形式もなかった。魏に倣って禅譲という建前だったかもしれないが、実体は革命である。
 よって、ヤマトの先祖からの系譜は、畿内王家につながる系譜のみであり、畿内王家の初代から王の系譜が作られ、それ以前は神々の系譜という整理がされた。邪馬台国の王家の系譜はここで終わったのである。もっとも、系譜の整理は後世のことかもしれない。
 倭国の都が畿内に置かれたのは三世紀終わりころから四世紀初めころで、その準備は、先代の開化天皇のときに行われ、初代のヤマトの倭国王としての即位を崇神天皇の即位に合わせたのではないかと思われる。これが御肇国天皇と呼ばれた所以ではなかろうか。「御肇国」については、諡に関連して後に述べる。
 倭国に属する国々は、中国の支援を得られないと知ればほとんどは畿内王家に従ったと思われる。畿内王家への服属を拒否した国や勢力はいただろうが、後にヤマト王権が熊襲などと呼んで平定することになる。
 中国での邪馬台国と倭国の記録は途絶える。唯一、梁書倭伝に壱與の次は男王になったことが書かれており、女王統治が終わったことが分かる。次の男王はヤマトの倭国王のことではないかと思う。
 記紀には、崇神天皇が各地の平定のために軍を派遣し(四道将軍)、垂仁天皇の時代には朝鮮への派兵が行われ、景行天皇の時代には九州(熊襲など)の平定のために何度も派兵をして反乱を鎮め、出雲、吉備の反乱も抑えて西日本を平定し、東国の平定も進めた様子が書かれている。このことから、崇神天皇の時代が倭の王権の転機だと考えられる。


三 邪馬台国王家のその後
 邪馬台国の九州王家は消滅し、その王家の一族は畿内王家と通じていた者を除いて王族の資格を剝奪され追放された可能性がある。倭国の領土領民は畿内王家がすべてそのまま引き継いだのである。
 畿内に都をつくった後、邪馬台国の名をヤマト国に改めた。中国に対しては倭国、大倭国へと国号を変えていく。倭を統一し、倭国はヤマトノクニになり、中国の資料から邪馬台国の名は消え倭国になる。倭でもヤマダイの名は消え、「夜摩苔」にその名残があるだけとなった。 
 『旧唐書』倭国伝に、「日本国者倭国之別種也」、「倭国自悪其名不雅、改為日本」、「日本舊小国、併倭国之地」という記述がある。当時、日本国はヤマト王権の国であり、倭から大倭に国号を改めていたのを日本という国号にした。倭国の別種というのは、倭国という名であるが九州にあった倭国とは別という意味で、王統が変わったことを意味していると考えることができる。倭国の王権はクーデタのような形で変わったことになる。古くは小国だったが倭国の地を併合したという文の「小国」は、文字通り小さい国と読むのが一般的だろう。過去の国の成立関係を知らないため、小国に過ぎなかった国が倭国を併合するという結果だけを驚きを込めて記したという想像である。しかし、情報が伝わった当時は、コのナのクニ(狗奴国)のナを外したコのクニ(子国)という名だけが残っていて、子国のことを小国と訳した可能性もある。
 粱書倭伝には、壱與の次に男王が立ったことが書かれているが、壱與がどうなったのかは書かれていない。死亡による王位継承かもしれないが、そうだとすると四世紀に入ってからのことであろう。死亡の前に禅譲があったかもしれない。四世紀はヤマトの倭国になっていたと考えられるが、西晋への朝貢は行われず倭国や邪馬台国の情報は伝わっていなかったと思われる。


四 邪馬台国王家の記録の抹消とヤマト王権史の制作
⑴ 畿内王家がヤマトを名乗れば、畿内がヤマトの国と呼ばれるのは自然の成り行きだろう。ヤマト王家が倭の統治権を得れば、倭国もヤマト王家のクニ、ヤマトノクニになる。邪馬台国は王位継承権のない女王が就いた時代があったとして、その時代と系譜を正統のものでないとして消したのである。それによって、邪馬台国王家もその支配下の倭国も消された。
 歴史から抹消するには、記録も伝承も事績もあらゆる痕跡をも消す必要がある。国の名、人の名、事件、外交資料、物品、住居、墳墓に至るまで一切消され、あるいは変更された。しかし、伝承は容易に消えるものではない。別の公式記録を作ってそれに反する主張をした者を処罰するという方法も考えられただろう。前にも述べたが、これがヤマト王権史の編纂につながったのではないかと思う。


⑵ ヤマトの国のリアルな成立史は東征に始まる。ヤマトに国を造る前の邪馬台国と倭国を造った先祖の事績は国造りの力即ち神の物語とし、天の神から国造りの力を授けられた天の神の子孫が倭を治めるべきだとされた。その力が地上に降り、東征を行ったヤマトの国の始祖に引き継がれたとして、東征をヤマト(倭)の国造りの始まりとしたのである。天は統治者の力の源泉についての思想的表明と考えればよい。
 歴史書なら、ひたすら地上の物語を記し、さまざまな勢力や国々の戦いや建国の過程を時代に沿って書けばよいはずである。しかし、ヤマト王権は女王時代を否定的に書くのではなく歴史から消すことにした。歴史を消すといっても人々の間にその時代の伝承が残れば意味がない。却って混乱する。そこで、さまざまある伝承を正すと称して編纂し、それが正しい歴史だとして広めることで、伝承と記憶を抹消しようとしたのだろう。その先鞭をつけたのが古事記である。その内容には不満があったものと思われ、正史として日本書紀が編纂され、さらに続日本紀が編纂された。
 記紀は天皇家の国造りの歴史を記録することが目的であるが、過去を否定し新たに国を造り直すという革命を想定した物語ではない。倭の統治権力として正統性を示すには、過去に遡って先祖らの事績も記録に残し、それを引き継いだとする必要があった。そのために、国造りをしてきた先祖らの歴史を神々が行ってきたことの物語にし、天皇の権力が神から託されたとする物語を作ったのである。
 イザナギノミコトらの倭の国の基礎づくり、スサノヲノミコトやオホクニヌシノカミの国造り、天皇家の祖神への国譲りなど、倭の歴史は神々が行ってきたこととして記録され、ホノニニギノミコトやホヲリノミコトという地上に降りた後の神の物語も記録された。邪馬台国や倭国のことも神々に置き換えられていると考えるべきである。しかし、大王がいない時代と女王の時代は神がいない時代だとされて神の物語には記録されなかった。