ヤマト王権の始まりの国 5-1

第四章 ヤマト建国
一 ヤマト王権成立の由来
⑴ 邪馬台国と東方平定  
 邪馬台国が九州の国々を従えて倭国を築いた国造りの思想はそこで終わらない。「倭の王になる意志」がある限り、本州や四国の国々を従えようと考えるだろう。地理的には東方への出征となる。軍派遣は一度だけではないはずである。倭国大乱の前から、東方へと軍を派遣し、進攻拠点を東に移しながら中国、四国、近畿、北陸などの王や豪族を服属させようとしていたと考えられる。
 まず勢力を示して従わせようとし、それを拒否する国の王や豪族がいれば征討軍を送って戦うことになる。いずれにしても軍を出征させる。この出征は王沢即ち王の恵みを広く及ばせるという理由づけがされるが、これは後付けの物語かもしれない。
 国造りには、王に忠実な臣下と軍とそれらを支える富と武器、それを生産する民が必要である。その基本は水稲耕作を中心とした食糧生産である。東方に新たな国を造る場合も同じである。治水や植林、水田開墾など、それぞれの土地に合った生産基盤作りも必要となる。そのためには民を従え、未開拓地には民を入植させなければならない。これは邪馬台国に限ったことではない。吉備系の文化の遺物があるのは、吉備を支配し、畿内に進出した勢力が農耕民などを吉備から入植させたからだと考えられる。
 卑弥呼の時代に一大率を置いて諸国を監視していたとあるが、各国の王を倭国に服属させ続け、拒否すれば反乱だとみなして征討するためだったのだろう。よって、倭国成立のときからそういう制度があったと考えられる。倭奴国の時代にもあったかもしれない。一大率は伊都国に置かれたが、征討の主力は邪馬台国の軍だと考えられる。倭国に属する国が広がれば監視範囲も広がる。東方征討は監視を兼ねることにもなる。
 しかし、倭国大乱が起きたことで東方征討は畿内で中断したと思われる。その間、出征軍は占領地に住み着いて農耕を行いながら兵力を維持し、その地の統治を行いつつ本国の命令を待っていたかもしれない。
  
⑵ 女王時代の東方平定
 倭国大乱は邪馬台国の支配に対する反乱に始まる倭の内乱ではない。女王卑弥呼を共立し、九州の邪馬台国や倭国の内部が落ち着くと、東方平定のための出征が再開されたと考えられる。
 卑弥呼がどのような考えを持っていたにせよ、邪馬台国の王族の中には畿内を拠点にして東の国を平定すべきだという意見はあったはずである。過去に畿内に派遣された部隊があったが征討作戦が止まっていたなら、尚更、改めて軍を送ってその地に東方拡大の拠点を築くべきだということになる。
 その拠点を邪馬台国の第二の都にし、それより東方、北方を治めさせるという構想があったか、あるいは、畿内を平定した結果、そのような構想が生れたか、いずれにしても九州から距離があるため、統治の拠点造りが考えられたと思われる。ミヤコ造りは新たな地に祖神を祀る施設を造るとともに統治の拠点とすることである。祀る役目は子孫である王族が担う。ヒミコノコ又はヒノミコノコ(卑弥弓呼)となって祀りごと(祭政)をするのである。政治的には子国の王である。
 これが、邪馬台国が東方平定のために畿内を占領し、邪馬台国の子国を造ったという仮説である。しかし、邪馬台国子国仮説は、記紀の東征物語とは異なる。
 出発地は博多湾のどこかが想定される。王命により出発したと考えられる。王宮殿があったとすれば伊都国かもしれない。北九州の岡水門(湊)で補給をし、関門海峡の潮を見ながらその流れと地形を良く知る漁師を水先案内人にした。その後の経過は記紀の東征物語を参考にするしかないが、この物語におかしいところがあることは後に述べる。
 また、東征によって畿内に独立国ができたのではなく、いわば邪馬台国の別国、邪馬台国子国の成立にとどまる。子国は本国の一部であり、占領軍がいきなり新たな国を造って独立したわけではない。復命して、畿内に宮を造って統治をするとともに引き続き東方征討を進めよとの命令を受けたものと思われる。それによって畿内に王家が成立した。この王家はヤマトを名乗り、その国はヤマトの国と呼ばれるようになった。この王家が後に倭国の統治権を得ることになる。


⑶ 出発の時期
 古事記は出発の時期を記しておらず、架空かどうかを論じる対象にならない。日本書紀は甲寅の年に出発し、辛酉の年に神武天皇が即位したとしている。年号が使われていた時代ではないと思われるが、その辛酉の年を想定して逆算する考え方がある。
 辛酉の年は六十年ごとに周ってくるので、三〇一年、二四一年、一八一年などの考え方になる。三〇一年即位説は崇神天皇と神武天皇の即位を同一とすることになるが、根拠がない。二四一年即位説は、女王卑弥呼が魏に朝貢する前に東征に出発したことになるが、倭国大乱が治まってかなり経っており時期が遅いように思う。一八一年即位説は、東征出発が大乱中になる可能性がある。
 もし何らかの革命的な出来事があった場合に辛酉という年号が使われたとするなら、西暦年を導く根拠にはならない。
 西暦年を推理するなら、倭国成立や大乱の時期を基準にするしかない。
 九州内で大乱があったとすれば軍事力はそれに向けられ、その最中に「東征」が行われることはないだろう。王がいない時代が続いたなら、軍の出動を許可または命令する最高指揮官がいない。王がいないのに乗じて、船、食糧、武器、兵の調達をして出港するわけにはいかない。
 大乱前に東征が行われたと仮定した場合、邪馬台国・倭国の王がいない状態が続く中で、東征部隊は畿内に自立した国を造ったということになるかもしれない。しかし、古事記が行宮滞在期間を延ばした理由が分からなくなる。また、女王が共立されたとき、畿内の国との関係はどうなるのか。畿内の国は女王を認めず服さなかったために不和になったという推論をするのか。畿内に国を造ったばかりのときに本国に抵抗したとは思われない。
 よって、「東征」開始は、大乱が終わり、卑弥呼が女王に共立され、倭国が安定した後の百七十年代終わり頃から百八十年前半頃と考えるのが妥当だろう。畿内に邪馬台国子国が成立したのは、百八十年代後半から百九十年代前半頃のことと考えられる。


⑷ 東征と吉備の役割
 畿内での国造りを考えると吉備の位置づけが重要である。
 吉備は早くから文化を持ち、クニ造りをしていたと思われる。出雲と淡路島の銅鐸が同じ鋳型から造られたというつながりを考えれば、吉備も出雲とつながっていたと考えられる。畿内南部の瀬田遺跡や纏向古墳の遺物に吉備系のものがあるなど、倭国の時代の前から畿内と吉備は交易があり、吉備から移住した人々が集落をつくり、一勢力を築いていた可能性がある。
 邪馬台国が倭国を統治するようになって、吉備も倭国に属するようになったと思われる。邪馬台国は畿内にも進出して一部地域を占領して国を造り、吉備勢力も邪馬台国に従うようになっていただろう。
 そういう状況で東方征討が再開されたと考えれば、その作戦において吉備は重要になる。
吉備は畿内に近く、畿内での国造りに必要な人材と物資を調達しやすい。東征部隊は吉備の協力を得るために立ち寄ったと想像できる。当時は、児島は島であり、海岸線は現在よりずっと内陸側にあったから、船で立ち寄るには寄港場所を選ぶ必要があっただろう。
 ここで補給をし、吉備から何度か進攻を試みたがうまくいかなかった可能性もある。それを踏まえて畿内の状況を偵察し進攻作戦を考えたとすれば、そのための時間もかかった可能性はある。吉備で兵を集めるには足りず、邪馬台国に援軍を要請したかもしれない。舟を増やすにしても製造には時間がかかる。
 記紀の東征物語が最後の成功につながった進攻だけを書いているとすれば、吉備に三年というのは足止めの期間が含まれている。


⑸ 畿内にできた国
 東方平定の拠点として畿内に造られた国は邪馬台国の子国であり、中国の史料に狗奴国という名で登場する国である。本国王から任命、派遣された長官が領地を治めればよいとも考えられるが、王族である東征軍の将に領地を治めさせる場合、臣下の地位である長官というわけにはいかないだろう。本国の王より格下であり、長官よりは格上であるということで、子国の王という任命の仕方がされたのではないかと思う。領地は邪馬台国のものであるが、実質的には子国の領地と同様になり、子国王を通して本国王が支配するという形になる。
 当時の本国王は女王卑弥呼であり、子国王は男王卑弥弓呼であった。その間に不和が生じ、倭国の政変へと発展していくきっかけとなる。それには子国が畿内で勢力を強めることができたという背景があった。

ヤマト王権の始まりの国 4-2

五 女王共立
⑴ なぜ女王共立という解決をしたのか
 倭国大乱を収めるためである。
 その発端が王位継承争いで、それぞれに支援する王族、豪族らがいて争いが長引いて王がいない状態が続き、倭国の混乱が極まったときの窮余の解決策であったと思われる。
 通常は先王の指名がなく兄と弟が王位を争う場合である。年齢的には兄が先順位になるが、別の理由で弟が王位継承を主張して争いになる。年長者優先か正妻の子優先かという対立が原因ではないかと想像される。
 当事者のどちらかが王位を継ぐとなれば争いは止められないとして、中立の立場の王家の長女を女王にして双方が引き下がるという解決をしたのだろう。
 しかし、女王卑弥呼は「鬼道」を行い、一人の男を除いて人に会わないというのであるから、国を治め、軍を指揮する知識や能力があったか疑問である。伺いを立てて神の声を聴くとか占いをするという見せ方はできただろうが、統治能力があったとは思われない。結局、補佐したという弟が実権を握ったと思われる。女王卑弥呼とその弟が仕組んだ共立だったのかもしれない。
 結果として、王位は女子にも認められたことになるが、女王共立は乱れた倭国を立て直すための一時的なその代限りのものにはならなかったと思われる。女王制に制度化されたとは考えられないが、王が王位継承者である世継ぎを指名することはできただろう。女王も同じくそれができるとされた可能性がある。
 女王が指名した者が男女を問わず第一順位で王位を継承するとされ、女王が男王を嫌がれば事実上女系になる。卑弥呼が人名でなく地位の名であれば、女王卑弥呼は一名だと考える必要はない。親魏倭王の称号を得た卑弥呼は共立された女王卑弥呼と同一人物ではなく女王位継承があったと考えられる。
 これに対して一族の長を男系としてきた伝統に反するとして女王制を終わらせようとする王族がいたとしてもおかしくはない。卑弥呼と卑弥弓呼の不和と相攻撃はそのような事件だった可能性がある。


⑵ 「卑弥呼」とは
① 卑弥呼は邪馬台国の王位名である
 卑弥呼は、一般には人名だと解釈されているが、ヒミコは「日之皇子」と同様、倭国王の地位の名だと考えるのが妥当である。
 もっとも、後漢書や魏志倭人伝では人名のように読める。後漢書には「有一女子名曰卑彌呼・・・於是共立為王」とあり、魏志倭人伝では「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」とある。
 魏志倭人伝は、ヒミコが一女子の名なのか王の別名なのか分かりにくい。ヒミコ、ヒノミコ、ヒミココなどの呼び名からしても、邪馬台国ではヒミコは王の別名だったと思われる。
よって、魏志倭人伝の文は、王の別名であることを示すために「一女子」と「名曰」の間に「為王」を入れた文に変えたのかもしれない。後漢書は、ヒミコを王の別名だと思わず女王の人名だと考えたのだろう。
 ヒミコは鬼道を行うというのは、神職を務めていた王家の女子を女王にしたことを聞いて記したものと思われる。ヒミコ、ヒノミコは性別に関係ない呼称である。天皇は邪馬台国の王族の家系であり、ヒノミコという呼称を受け継いだが、日御子や日之皇子という字を用いたものと思われる。
 これに対して、ヒミコは一般名詞のヒメミコのことだと考える説がある。しかし、ヒメミコと告げられたら「卑彌呼」とは書かなかっただろう。「狗奴国」の卑弥弓呼は男王であり、ヒメミココとは読まない。
 ヒミコが地位の名であると考えれば、倭国大乱後に女王に共立された卑弥呼と卑弥弓呼と相攻撃した後に死んだ卑弥呼は同一人物だと考える必要はない。
 女王が共立されたのが百七、八十年代で年已長大であった。仮に三十歳でも二百三十九年頃は九十から百歳くらいになる。卑弥弓呼と攻撃し合ったのはさらに十年後頃になる。卑弥弓呼と相攻撃したときの卑弥呼は両者の間には王位としては二世代くらいの差がある。初代の女王卑弥呼は死んで、卑弥呼の地位は継承されていたと考えられる。地位であるから名に変わりはない。中国の記録には、どちらも卑弥呼と記されることになる。
 「卑彌呼」の字は女王共立後にヒミコという呼び名が中国側に伝わって、その字が考えられたのと思われる。東夷の王であるから「卑」、遠国にいるから「彌」、拘の字を避けて「呼」という組み合わせにしたのだろう。
 この字は邪馬台国の側で木簡などに「卑彌呼」と記していた可能性もある。邪馬台国には通訳がいて漢字を読み、書くことができたはずである。ただし、東夷が漢の字を使うことを許されていることが前提である。


② 壱與は第一順位の世継ぎのこと
 女王卑弥呼の次の王はだれがなるのかは重大な問題である。女王に共立されたとき、卑弥呼は年増で独身だった。そのまま死んだなら王位継承者はどうなるか。
 子がいないから弟か弟の子になるだろうが、弟の長女が祭祀主宰者を引き継ぐことになっていて、王位も継承させたのではないかと思われる。女王卑弥呼は第一順位の世継ぎという意味のイチノヨツギ、イチノヨを指名していて、それが中国では宗女と呼ばれたのではないか。倭には第壱とか壱番目という順位を表現する言葉がない。万葉集では、二を「に」と読ませている歌があり、イチも早くから外来語として定着していた可能性がある。
 卑弥弓呼と攻撃し合った女王卑弥呼が死んで、男王が就任することとなったが、国中が誅殺し合ったので、十三歳の壱與(壹與)を女王に立てた。
 王位継承者を排除して男王が王位を継承するとなれば、当然反対する者が現れる。女王は先祖が合意して王に立てたもので、王位継承は王の指名に従うべきだとか、親魏倭王の称号を得た正統の王だという主張がされただろう。男王の側は、女王共立は一時のもので、壱與を後継者に指名した卑弥呼には元々王位継承資格がなかったとか、魏を欺いて倭王の称号を得たとか、魏が男王の就任を承認したなどと反論したかもしれない。こういう争いはエスカレートする。


 壱與がヒミコになったという記述はない。壱與と卑弥呼が並んで記載されていることから卑弥呼も壱與も人名だという主張は当然ある。しかし、壱與は宗女の倭名で、宗女は壱與の中国側解釈として記載されたものと考えられる。ともに地位名である。
 従って、本来なら倭国の王になったとき、ヒミコと呼ばれるはずである。
 しかし、女王に就任することとなったものの、日の神の正統の子孫を意味するヒミコの称号はない。邪馬台国は男王がそのまま王位にとどまり、壱與は倭国の象徴的な王にとどまった可能性がある。年齢的にも経験的にも、王として自ら適切に行動するのは無理だっただろう。それが、男王派が壱與を倭の女王として認める条件だったかもしれない。
張政はこの事情を知っていたと思われる。ゆえに、魏は王に立てたとしながら女王ヒミコという称号を付けず、人名であるかのようにしたのだろう。


⑶ 女王の権力はどういうものだったか
 魏志倭人伝には、国々が市を開いて交易をしていることや、一大率を置いて諸国を監視していることや、外交のことが書かれている。これらは倭国大乱の前に書かれており、男王の倭国の時代からそうだったのではないかと思われる。
 女王に共立されたときの卑弥呼は王としての教育も訓練も受けていない。女王は宗教儀式を行い、宮殿にこもって人に会わず、ただ一人の男子だけが給仕し指示を受けるために出入りをしていた。「弟」が卑弥呼の補佐ということで統治の実権を握り、倭国の軍事中心の統治形態は大乱前と変わっていなかったと思われる。卑弥呼を共立した第一の目的は邪馬台国の王位に就かせて乱を収拾するためである。名目が重要だったのである。
 魏に朝貢して親魏倭王の称号をもらい、卑弥弓呼と相攻撃したときの卑弥呼は、王宮に閉じこもり鬼道を行うような女王ではない。年齢的にも共立されたときの卑弥呼と同一人物ではない。この女王は権力を積極的に行使している。
しかし、軍の指揮という点では武人に任せていた可能性があり、権力の要の部分を掌握できていなかったかもしれない。
 この女王は、卑弥弓呼と攻撃し合い、魏の張政が介入した後に死んでいる。自死だとすれば、権力への執着と自尊心が強い性格のようにも見える。
 壱與は倭の王に立てられたが、自ら権力を行使することのない「名ばかり女王」だったと思われる。実権は邪馬台国王ヒノミコが握っていただろう。

ヤマト王権の始まりの国 4-1

第三章 倭国   
一 大乱前の倭国はどのようにして成立したか
⑴ 倭国の成立とその意味
 倭は倭人が住む地域の名であり、倭国は倭の地域の一つにまとまった国の名である。そのまとまり方は連合形態から統一国家までいろいろあり一定ではない。
後漢書の倭国王帥升等の朝貢や倭国大乱の記述に現れる倭国はどういう国だったか。桓霊の間に倭国大乱があったこと、その前に男王の時代が七、八十年続いたこと、百七年に倭国王が生口を献上したことなどの後漢書の記述から、一世紀終わり頃から二世紀初め頃までには成立していたと推定される。
 ヤマト王権の国号も倭国というが、この倭国はヤマト王権成立前のものである。単一の統一国家としての倭国ではなく、邪馬台国王が他国を監視し、介入する統治形態だったと思われる。倭国大乱の間倭国王がおらず、卑弥呼を女王に共立したというのであるから、女王に属する国は倭王に服属する国とほぼ同じ意味だと考えられる。
 そのような倭の国々を支配する王が「倭国王帥升」である。後漢書に「倭国王帥升等」とあり、他の文献に「倭面上国王」、「倭面土国王」、「倭面国」、「倭国面土地王」などの記述がある。倭人が顔に入墨をしていたことから面土国、面上国と呼んだという文献もある。これらから、帥升を朝貢した倭の国の王の一人だとする説がある。男子は顔面に入墨をしていたとされているが、倭の中の一国の男子ではなく倭の男子についてであり、入墨を特定の一国に関連づけたのは誤解だろう。
 いずれの説も「帥升」を人名と考えているようであるが、後漢書は人名ではなく地位名として書いたものと思う。帥升が人名なら倭国帥升王とか倭国面土国帥升王などと書くだろう。
 「升」は昇の意味で、長のことだと考えられる。国の長は王である。
 類似のものに「大加戴升等」という記述がある(『後漢書東夷列伝第七十五』高句麗条)。「句麗蠶(蚕)支落大加戴升等萬餘口詣楽浪内属」である。『三国史記』には「冬十月蠶友落部大家戴升等一萬餘家詣楽浪投漢」とある。
 この戴升も大加(大家)の長を指す呼称であると考えられる。大家は多くの戸がある邑又は小国のことである。高句麗の蚕支が陥落し、邑の長(又は小国主)ら一万余戸の者が楽浪にやってきて投降したという意味に解釈することができる。邑の首長の人名を記録に残すことはないだろう。
 「帥」という字は高句麗、東沃沮、三韓にも登場し、最高位の者という意味がある。
 よって、倭国王帥升は倭の国の王の中で最高位に昇った王つまり大王ということになる。
 帥升が倭面上国王、倭面土国王、倭国面土地王などとされていたのは、帥升が倭の中の一国の王という意味ではなく、倭国を代表する邪馬台国の王であることを示すためではないかと思われる。范曄は「倭国王」という表記で十分だと考えたのではないかと思う。
 中国の史料は、倭国は邪馬台国が多くの国々を統合支配する国家形態になっていたことを示すものと言える。倭国を代表し、一大率を置くなどして倭の国々を監視、統率する大王がいたのである。ゆえに、倭国大乱の間、(倭国)王がいなかったという記述にもなる。
 なお、「等」はともどもという意味であり、倭の国々の王を代表する王として献上したことを受けて、諸国の王もともども献上に加わっているとして等を付したものだと考えればよいと思う。
 倭面上国などが倭国王と同じ意味なら、この国は王の都があった邪馬台国を指すと考えるのが妥当である。倭という地域の上に立つ国、倭の顔となる国という意味で、倭を代表する国を指す言葉だと考えられる。つまり、邪馬台国王が倭の諸国を支配し、倭を代表するという国家形態を示すものである。
 「一大率」を置いて諸国を監視するという記述も支配の用語である。おそらく、監視して正すためには内政に介入するようになっただろう。統治に関与することになる。そういう内情ではなく、中国から見て倭の国々を代表しているという見方での表現である。
 ヤマト王家が倭国を支配するようになったのはずっと後のことである。後漢書や魏志倭人伝にはヤマトの倭国は登場しない。ヤマトが倭面土に音訳されたという趣旨の説があるが、百七年にヤマト王権の倭国が成立していたというのは考えられず、邪馬台国はヤマト国と読むべきものではない。


⑵ 倭奴国と倭国
 倭国の国家形態、統治体制は邪馬台国が初めて造ったのだろうか。
 倭奴国の王が金印を授かったことの意義を考えると、倭奴国王が倭を代表する唯一かつ最初の王として認められたものと考えるべきだろう。倭国の極南界というのは九州のことで、この倭国は倭の国々の総称だと考えられる。倭には百余国があり三十国が朝貢していたとされるが、倭奴国だけが他の国とは扱いが違う。これは国の間で支配被支配の関係ができていたからではないかと思う。女王卑弥呼も親魏倭王の称号とともに金印を授かっている。
 倭奴国は、倭の国々を従えて最初に倭の国と呼ぶに相応しい規模の国(記紀では葦原中国)を造ったことへの名だと考えられる。倭を支配する王の国という意味である。最上位の中央権力を持つのが倭奴国王で、倭の国々を従えて国主(王)になったことを漢に報告し、「漢倭奴国王」の称号とその印として金印を授かったと考えられる。この国も渡来人とその子孫が関わって造った可能性がある。
 しかし、倭の統治体制は安定したものではなく、倭奴国と戦って倭の統治権を奪おうとした勢力がいた。それが邪馬台国勢力である。かつての朝鮮半島での戦いが倭で再燃したかのような感じであるが、血統と氏族の対立が続いていて降伏を拒否し徹底的に戦うという状況ではなかっただろうから、王の上に立つ王を討てば、傘下の国の王を従えることができる。それを神話化したのが「国譲り」であろう。
 戦いの舞台は倭の中央政権の国があった北部九州である。神を祀った場所ではない。出雲は大国主神を祀った場所であっても統治の拠点ではない。神々の物語では国譲りの談判に行った先は大国主神が祀られている宮のある出雲であるが、地上の戦いは中央政権の王がいる場所、即ち倭奴国である。事代主神は倭奴国の王に降臨した神として国譲りに同意したとされたのだろう。
 記紀の物語はフィクションだと思われているが、青銅器や漢鏡の流通や墳墓様式などの広域性や類似性を考えれば、西日本に広域的な国ができていて、九州の倭奴国がそれらの国を服属させていたと考えてもおかしくはない。当時の支配は、一国が他の国々を従えるという形態だっただろうから、中央政権の国の王を倒せば、その権力システムを引き継ぐことができる。ただし、一部抵抗はあるだろうから戦いは続く。その戦いを経て倭国の中央政権は強化されていったと考えられる。


二 倭国の勢力範囲
 国の勢力範囲は変化する。倭国成立以後、それを支配する王は倭全体に勢力を広げて諸国を従わせようとする。その王とは邪馬台国の王のことである。
 古事記によれば、オホアナムチノカミ(大国主神)の勢力範囲は中国地方、近畿、北陸、九州に及んでいたことが分かる。タケミナカタノカミの降伏場所が諏訪となっているが、これを記した趣旨は、倭奴国の勢力がその範囲に及んだことを仄めかすものかもしれない。
 邪馬台国の王は倭奴国王に服属していた国を従わせるために、九州、中国・四国地方、近畿、北陸などに進攻していったと想像される。畿内も例外ではない。それがニギハヤヒノミコトについてのエピソードとして書かれているのではないかと思う。
 ただし、倭国は畿内に進攻して領地を得たが完全征討には至らなかったと考えられる。
 その理由は倭国大乱である。倭国の大王(邪馬台国王)が死んで次の王が決まらず、王位継承争いが長引けば命令系統が止まってしまう。征討軍の指揮官も世代交代となるが、任命者がいない。これにより畿内征討が止まってしまったのではないかと思われる。東方征討の続きは、東征の物語として記録されたのだろう。
 魏志倭人伝に女王に属する国の名が出てくるが、それぞれがどこにあって日本でのどの国に相当するかは明らかではない。しかし、後漢書の拘奴国から推定すると、九州から畿内の一部までが勢力範囲だったのではないかと思われる。その後、畿内を平定し、さらに東方、北方へと勢力を拡大していったと考えられる。その畿内拠点造りが記紀の東征物語になっているのではないかと思う。
  
三 倭国大乱とは


⑴ 時期と原因
 魏志倭人伝の「其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年」という記述から、倭国が成立し、男王の時代が七、八十年続き、その後倭国が乱れたという経過である。後漢書には「桓霊間倭国大乱更相攻伐歴年無主」とあるから、桓帝の時代に起こり、霊帝の時代に終わったと読める。
 倭国大乱の原因や規模については諸説ある。王位継承をめぐる王家内部の争いと考えるものから、日本全体で勢力争いをして戦国時代のようになったと考えるものまで、原因も規模も当事者も異なる。
 「七八十年倭国乱、相攻伐歴年」と読めば、七、八十年倭国は乱れ、何年も攻伐しあったということになる。しかし、後漢書の「歴年無主」を合わせると、その間倭国王がいなかったことになる。それほど王不在が続くとは考えられない。また、邪馬台国の王を他国が加わって共立することは考えられず、女王共立と内戦終了は論理的につながらない。内戦状態になっても、倭国の王位の継承がなされれば「歴年無主」の状態にはならない。
 魏志倭人伝は「男子為王住七八十年」と「倭国乱相攻伐歴年」に分けて読むのが妥当である。男王の時代が七、八十年あり、倭国が乱れて攻伐しあったのが何年も続いたという意味に読むのである。
 よって、「歴年無主」は王位継承争いによる王位空白期間が長く続いたことを指すと考えるべきである。邪馬台国王が倭国の王であったと考えられるから、邪馬台国王が決まらないために倭国王がいないかったことになる。
 世襲制であれば兄弟間の争いである。邪馬台国の中で王位を争った者がいずれも王位につかずに先王の長女を女王に立てることに合意したのが共立の意味である。王位継承争いには、その支援者、支援国も含まれていただろうが、倭国王が決まって乱は治まっていく。
 時期は桓帝と霊帝の時代にまたがった期間で、王がおらず倭国の統治が疎かになり、切羽詰まって女王を立てたとすれば、空位期間は長くても十年と続くことはないだろう。
 このように考えると、王位継承は大乱前の男王の時代に少なくとも一回はあったと考えられる。倭国大乱は第三代目の王位継承のときということになるかもしれない。


⑵ 倭国大乱と記紀
 記紀には倭国大乱を仄めかすような物語はない。女王の神らしきものも登場しない。後漢書や魏志倭人伝の記述が虚偽なのではなく、不都合な事件を隠す意図があったと考えるべきだろう。
 ホヲリノミコトの子はウガヤフキアエズノミコトだけが書かれているが、ウガヤフキアエズノミコトの事蹟は何も書かれていない。倭の国造りに関わっていなかったことになる。ホヲリノミコトの物語と比べるとおかしい。ウガヤフキアエズノミコトが王位に就けなかったために書くべき事蹟がなかったと推理するのが妥当ではないかと思う。
 これは、倭国大乱で女王卑弥呼が共立され、男子が王位を継承しなかったことと関係があるのではないかと思う。その男子の一人がウガヤフキアエズノミコトである。
 この推理から次のような物語の展開が考えられる。
① イハレヒコノミコトは邪馬台国と倭国の王位の継承者ではない。
② イハレヒコノミコトは東征によって畿内に造った邪馬台国の子国の初代王となった。
③ その何代目かの王が女王卑弥呼と不和で武力で攻撃し合うまでになった。
④ 女王卑弥呼が死に、男王が就いたが、国中誅殺し合って乱れ、壱與を女王に立てた。
⑤ 魏が滅んだ後、子国の王が邪馬台国王に倭国の統治権を移譲させ倭国王となった。
⑥ 邪馬台国王家を廃絶し、抵抗する勢力を滅ぼした。
⑦ ヤマト王が倭国の正統な王権の継承者であるとする歴史物語が作られた。
⑧ イハレヒコノミコトを倭国の初代天皇に格上げして諡を献上し、その即位の年を「辛酉」とした。
 これらのうち記紀の物語にあるのは、②と⑧のうちイハレヒコノミコトが東征によって畿内で王に即位し、その年を「辛酉」としたことである。東征の内容は詳しく書かれている。邪馬台国や女王卑弥呼関連のことがないことが分かる。