ヤマト王権の始まりの国 6-2

二 卑弥呼と卑弥弓呼の「相攻撃」
 「相攻撃」は、三国志魏書の他の箇所にも出てくる。武力で攻撃し合うことである。
 卑弥呼が畿内を攻撃する場合は、九州から派兵するか、服属国に攻撃させるかということになる。派兵するには、九州の国々の動向が気になる。卑弥弓呼は攻撃されることを予想して畿内の防備を固めている。
しかし、卑弥呼の側が畿内を攻めて不利な状況になったから魏に報告するという状況ではない。戦いの場は九州だったのではないかと思う。船があれば数日中に軍を畿内から九州に送ることができる。九州には同盟勢力がいた可能性もある。


⑴ 原因
 狗奴国の王卑弥弓呼はなぜ卑弥呼と攻撃し合うまでになったのだろうか。
① 三世紀半ば頃の女王卑弥呼は、女王に共立されたときの卑弥呼ではなく第二代又は第三代の女王だったと考えられるが、卑弥弓呼が男子継承制に戻せという主張をして、卑弥呼と不和になった。卑弥呼死後に男王が就いたのは邪馬台国にも女王制反対派がいたことをうかがわせる。
 しかし、女王位は世襲によらず女王生前の後継者指名により引き継がれたと思われる。二百三十八年頃の女王が第三代だったとしても後継者指名によっただろう。
それに対して、女王制反対派は退位を要求するようになったと思われる。その中心にいたのが卑弥弓呼だったのだろう。
② 二百三十九年、卑弥呼は難升米(ナシメと読まれているが、ナショウマイ、ナシェンメイなどの発音も考えられる。)らを魏に派遣した。その結果、卑弥呼は魏王から親魏倭王の仮の金印と銅鏡百枚を与えられた。
 二百四十年、魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王卑弥呼に拝受させた。卑弥呼は正式に親魏倭王として認められた。倭国の女王として権威が与えられたのである。
 これにより、卑弥弓呼は卑弥呼が魏の支援を受けて卑弥弓呼を攻撃するつもりではないかと思い始めたかもしれない。
③ 卑弥呼は魏の後ろ盾を得ていたから、卑弥弓呼にとって魏が軍を送ってくるかどうかは重要である。邪馬台国の王位のことで魏が軍を出動させるようなことはないと考えたかもしれないが、分からない。先手を打たないといけないと考えて魏や倭国の動静を見ながら武力行使の機会をうかがっただろう。
 万が一を考えて、さらに防御を固めておくことを考える。防御は敵の出方をあれこれと想定しながら全般的な対応策を考えるものであるが、卑弥弓呼は、卑弥呼軍は大阪から大和川沿いに東進又は竜田川沿いを南進して畿内に攻め入ってくると想定し、大和川中流の黒田辺りに陣地を造るとともに、唐古・鍵などの拠点には何重もの環濠を掘って防衛都市を築いたのではないかと思う。
 当時の攻撃部隊の規模は少人数で相手の将や王を討てば勝敗がつくような戦いだったという説があるが、三世紀半ばはそのような規模にとどまってはいなかったと思われる。唐古に何重もの環濠を復活させる必要があったのは、それだけの攻撃力が想定されていたからであろう。正面からの攻撃であれば相手を上回る兵力を用意しようと考える。
 しかし、舟で遠征する場合は大軍を送ることは難しい。陸路で何日もかけて進めたかもしれない。現地で兵を集めることができればそのほうがよい。
④ 卑弥弓呼が九州地内に軍を集めれば、いずれ卑弥呼には知られる。邪馬台国の軍はどう動いたのか。軍の指揮官が出動を拒否したか、まともに戦わなかったかもしれない。そうなれば、女王派は戦えず、魏の支援を得るしかない。卑弥呼は魏の支援を得ようと考え、使者を送るが、当時の魏は倭に軍を送る意思も余裕もなかったのではなかろうか。


⑵ 戦いの経過
 卑弥呼は、二百四十三年、復遣使を魏に派遣した。卑弥弓呼がそれを知ったなら、卑弥呼が魏の支援を受けるつもりだと考えるだろう。反発を覚えるとともに魏の介入について不安を抱くことになる。
 二百四十五年、卑弥呼は魏から黄旗の仮授与を受けた。黄旗は魏の軍旗である。卑弥呼の軍が魏軍であると見せるためであろう。
 しかし、魏から軍の船が到着した様子はないのに魏の軍旗だけがあるというのは、逆に考えれば魏から軍の派遣はないということになる。卑弥弓呼は、卑弥呼に退位・譲位させるために武力行使をすることを考えた。
 相攻撃とあるのは卑弥呼の側にも軍がいたことを示しているから、女王派が兵を出して戦ったのかもしれない。といっても、強力な軍ではなかっただろう。
 むしろ、卑弥呼は孤立していた。三世紀末に築造されたと言われている前方後円墳が宇佐や西都原で発見されていることから、倭国に属する国には卑弥弓呼に同調する有力者がいて、卑弥弓呼軍に加わった可能性さえある。
 卑弥弓呼にとって問題は魏の動向だけである。魏の動向を気にしながらゆっくりと西に進み卑弥呼の都に迫っていく。状況は卑弥呼に不利になっていた。
 二百四十七年、卑弥呼は魏に狗奴国との戦闘状況を報告した。支援・仲介を要請したものと思われる。戦況は書かれていないが、卑弥呼は敗色濃厚だったのだろう。
 魏は張政らを派遣した。軍の派遣をしなかったのは仲介が目的だったからだと考えられる。倭国に赴いた張政らは黄旗を授け、「為檄告諭之」した。魏の軍旗は張政らの一行の存在を示すためだけでなく、魏の介入を知らせ、休戦を命令する意味もあっただろう。卑弥弓呼がそれを無視すれば魏に敵対したことになるという警告でもある。
 「為檄告諭之」を、檄文を飛ばして諭したと訳す向きがあるが、後に十三歳で女王になった壱與にも「檄告諭」をしていることから考えると、告諭は戦いを鼓舞するようなものではなく、「檄を為して之を告喩す」と読み、争いを解決するため卑弥呼を呼びつけ(退位するよう)諭したと解釈するのが妥当である。檄は板に書いて知らせるという意味や文書で呼びつけたという意味もある。
 卑弥呼に対しては、狗奴国王との争いを解決するために、退位・譲位をするかそれとも女王のままで死ぬかというようなことを言ったのではないかと思われる。それが、卑弥呼の死と卑弥弓呼軍の撤退につながったのではないかと思う。
 当時、帯方郡は安定しておらず、張政が実際に魏軍の派遣を要請することはできなかったと思われる。卑弥呼に対しては、退位・譲位をするかそれとも女王のままで死ぬかというようなことを言ったのではないかと思われる。それが、卑弥呼の死と卑弥弓呼軍の撤退につながったのではないかと思う。
 二百四十七年かその翌年、卑弥呼は死んだ。どのような死に方だったか書かれていない。自然死や病死のようには思えない。張政が来ているときであるから、卑弥弓呼軍や邪馬台国軍が卑弥呼を殺害したわけではない。つまり、自死だったと推定される。「卑彌呼以死」とあるのは、告諭を受けたが、戦うこともままならず、退位も譲位も承服できず、女王のまま死ぬことを選んだと解釈するのがよいかもしれない。
 張政らが滞在したのが伊都国であれば、卑弥呼が死んだのも伊都国だったと思われる。そして、その周辺に塚が造られた可能性がある。

ヤマト王権の始まりの国 6-1

第五章 東征の後


一 畿内での国造り
 東征を成功させたなら、直ちに復命してそのことを報告しなければならないが、記紀は本国を登場させないから復命もない。宮が無かった畿内に宮の施設を造ったなら、祖神もその宮で祀ることを報告したはずであるが、その記述はない。高千穂宮との関係も不明である。
 畿内で造った宮は宮殿のことであろう。宮殿を維持するには、祀りごとの主宰者が必要であり、民に公租を納めさせ、その地を治める必要がある。これらは国造りそのものである。
当時の最大の政治の目的は、稲作を安定させ、開墾して水田を増やすことであっただろう。それにより、食糧が増え、人口が増え、他の産業も発達し、兵力も増える。
 畿内は平野が多く、四方を山に囲まれ、山からの川も多い。しかし、降雨量の少ない畿内においては水不足が起こり、平野全体に水田は広がらなかった。水利をどのように解決しようとしたか。三世紀以降、畿内が急速に発展していったことに結びついているはずである。これについては第七章で述べることとする。


二 卑弥呼と卑弥弓呼の不和 
 東征によってヤマト王権の国が成立するとともに、九州を攻めて倭国の権力を掌握していったわけではない。邪馬台国や倭国は少なくとも壱與の時代が終わるまで存続していたのであり、東征によって橿原宮が造られたとしても、遷宮や遷都がなされたわけではない。畿内にできたのは邪馬台国の子国である。
 邪馬台国子国説にとって重要な出来事は、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼の不和と相攻撃である。魏志倭人伝は女王卑弥呼の朝貢から死に至るまでの出来事とその後のことまで経過を書いている。魏にとっても注目すべき出来事だったものと思われる。
 この事件が邪馬台国の倭国からヤマトの倭国に変わる契機となったからではないかと思う。
⑴ 二百三十九年頃の卑弥呼
 邪馬台国では、女王卑弥呼の統治が続く。二百三十九年、卑弥呼は魏に朝貢した。魏が成立した二百二十年から二十年近く経っている。これは第二代又は第三代の卑弥呼が女王に就任し、朝貢をしたのではないかと想像される。二百三十八年頃の壱與はまだ三歳くらいであるから、女王は若く、第三代だった可能性が高い。
 これは女王位の継承があったことを意味するが、初代女王は独身であり、第二代女王はその子ではない。女王位を継いだのは女王の兄弟王家の中からの生前指名によったものと思われる。
 第二代女王に女子が生れていて第三代女王になったとすれば、女王世襲制になる可能性もある。
 しかし、邪馬台国では王位は男子世襲という考え方だっただろう。女王共立はあったが、女王位継承を認めたのではないとして王族内で不和が生じていた可能性がある。三代目の就任に至って不和が昂じ相攻撃に至ったとも考えられる。


⑵ 卑弥呼と相攻撃した卑弥弓呼
 女王卑弥呼と相攻撃したときの卑弥弓呼はどの天皇に相当するのか。二百四十八年頃の天皇として想像できるのは、第六代、第七代天皇になるが、天皇の在位年数や実在性が不明であるため、何とも言えない。
 しかし、魏が滅ぶのが二百六十六年で、その後、第十代崇神天皇のときにヤマト王権が成立したとするなら、二百四十八年頃は崇神天皇より五十年前後前の天皇になる。日本書記の各天皇の在位年数を、神武天皇即位を二百年前後頃と想定して修正すると第六代天皇の頃ではないかと思われる。これについては、後に「初期天皇」において述べる。
 天皇といっても後世の諡で、当時は子国の王である。しかし、第六代ともなると、畿内で国力をつけて東方拡大を進める軍事力も持ち、邪馬台国よりも強い勢力となっていた可能性がある。それを背景に発言権も大きくなっていただろう。
  
⑶ 不和という言葉の意味
 和さずというのは、和することの反対である。親子、夫婦、同族、共同体など和することが求められる関係にある者がそうしない状態である。仲が悪いという意味にも使われるが、仲とは人間関係のことである。良いか悪いかは人間関係を保つことが期待される場面で使われる。
 仲が成立しておらず無関係である場合には人間関係そのものがない。無関係の人々が敵対する場合は不和とは言わない。最初から敵対関係にある王と王の間には仲は成立していないから、仲が良いとか悪いとかの評価は無用である。
 相攻撃という言葉から、卑弥弓呼と卑弥呼は敵対関係にあると想像されるが、親子、夫婦の間でも喧嘩が生じて「敵対」することはある。不和イコール敵対ではないが、不和から敵対に発展する可能性はある。相攻撃は互いに武力行使をし、戦闘を行ったという意味であるが、当時は王族の間で殺し合いをすることもあったのである。
 重要なのは、和するべき関係であるべきだがそうではないという点である。
 互いに戦いを止めようと言って和睦することはあるが、停戦や休戦の同意だけでは戦いの原因を明らかにして和するべき関係を回復したことにはならない。講和、協定などにより、争いの原因を明らかにしたうえでそれを除去して和するべき関係を回復する必要がある。
 狗奴国が邪馬台国子国であるとすれば同族間の問題であり、王同士の対立は「不和」と呼ぶのが相応しい。


⑷ 不和の内容と原因
 女王が死んで男王が就任したが誅殺し合い、宗女壱與を王に立てることで解決したことから推測すると、男子が王に就任したことに対して、女王位継承者が決まっていたのを無視したという理由で反発があったと思われる。
 卑弥呼は男王に禅譲せず、王位継承者として指名もせずに死んだ。しかし、男王が就いたというのは、男子王制に戻す強い意思を持つ王族がいたからであろう。その筆頭が卑弥弓呼であったと考えられる。
 子国にいる卑弥弓呼は女王退位と男子継承制度への復活を公然と主張した。邪馬台国本国では言いづらくても、それを支持した勢力はいたと思われる。女王卑弥呼はそれに反発し卑弥弓呼と不和となる。
 この対立は、倭国大乱の解決方法への不満と女王位継承をめぐる対立に根があるのではないかと思われる。
 倭国の王位継承争いで倭国が乱れ、王がいない状態が続いたため、その収拾のために女王を共立した。これは女王制度に変えるということではなく、そのときの一時しのぎだったと考えた者がいてもおかしくはない。そう考える側は男王に戻すべきだと主張する。倭国の王位継承者でない王族だろうと、臣下だろうと、そういう主張をする意味はある。
 しかし、女王共立によって世襲の後継者はいない。男子王位継承制に戻すには女王の指名や禅譲がありえたかもしれないが、女王は女子を後継者とした。
 女王に共立されたときの卑弥呼が死んだとき、子国の王は東征の最中か畿内を平定して安定させる途上だったかもしれない。女王が名目上のものだったため容認したかもしれない。
 その後、子国の王は女王位継承に異議を唱え、倭の国造りを進めるうえでも支障になると考え、三代目の女王が就任しようとしたときには公然と反対した可能性がある。この頃は、子国の王は畿内での生産力を増大させ、東方、北方へと勢力を広げており、その実績が背景にあった。
こ れに対して卑弥呼は魏に朝貢して親魏倭王の称号を得て反対派を抑え込もうとしたが、これが却って卑弥弓呼を激高させた可能性がある。卑弥弓呼は倭の国造りのためにも実力行使をしてでも卑弥呼を退位させようと考えるようになる。


⑷ 邪馬台国王族の関わり
 卑弥呼が死亡した後に即位した男王はだれなのか。国中誅殺し合ったとあるから邪馬台国の王族から男王が立ったと考えられる。壱與を差し置いて男王が立ったのは、壱與が子どもだったからではない。補佐をつければよいことである。男子世襲制に戻そうという意図があったのではないかと思われる。
 国中誅殺し合ったというのは、邪馬台国の王族らがこの問題に関わっていたからである。卑弥弓呼は邪馬台国の王位を継承すべき資格のある王族男子と通じていたと考えられる。卑弥弓呼の側が優勢となり、邪馬台国の王家内部でも卑弥弓呼への支持が公然化したとも考えられる。それによって邪馬台国軍は卑弥弓呼軍と戦わなかったかもしれない。
 女王卑弥呼は死に、王位は男子が継いだ。女王卑弥呼は譲位せずに死んだと思われる。そうなれば、女王から男王への王位継承を正当化するものがない。かつて男王から女王に変わったときは、王位継承資格がある者の合意によるものだったが、今回はそれもない。唯一、女王は一代限りで男王の継承に戻すことになっていたという主張が考えられるが、そういう合意はなかったという反論に対して証明が必要である。また、二代目の女王就任が先にあって宗女が女王位を継承する先例があると女王派が主張した場合、男王派は不利である。そういう中で、男王は国を統率できなかったと考えられる。
 再び倭国大乱になりかねない状況で、卑弥弓呼が介入した様子はない。介入によって更に悪化するのを懸念した可能性もあるが、魏の張政が来ていたから介入しなかったと考えるのが妥当なところだろう。張政は、最終的には宗女を次の女王に立てるしかないと考えたものと思われる。


⑸ 「素不和」はどういう意味か。
従来、「素」をもとからと読み、もともと不和だったという解釈がされているが、生来的な不和というものはない。性格が合わないだけで攻撃し合うというのも考えられない。以前から不和だったという言い方はあるが、何らかの原因がある。「もともと不和」という宿命論的な言い方はおかしいのである。もっとも、元からなぜか仲が悪くてなどと原因が分からないときや曖昧にする言い方はあるが、相攻撃にも至っている原因であるから、何となく不和というものではない。倭の使者が「説相攻撃状」とあり、原因も説明しているはずである。
それをあえて原因を書かずに以前から不和だったとして「素不和」と表現したのかもしれない。
相攻撃に至ったときには不和が表面化している。「素」にはあからさまという意味もあるから、そういう趣旨もあるかもしれない。これも原因とは別問題である。


⑸ 歴史的な意義
 王位は男子が継承すべきだという主張が不和の背景にあるとすれば、なぜ男王でなければならないかという根本的な問題になってくる。半世紀余り、女王統治の時代が続いており、後漢書や魏志倭人伝を見ても、それが不都合だったとは思われない。
 卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合うまでになった原因は、卑弥弓呼が個人的な理由で卑弥呼に退位を求めたとか、畿内への遷宮を主張したとか、倭王になろうとしたとかではなく、倭国の体制や国造りの進め方に関わる争いがあったのではないかと思う。そういう事情ゆえに魏が介入し、張政が倭までやってきたのであろう。
 主要な問題は軍の統率である。軍を統率して倭国の勢力を広げていき、倭全体を平定しまとめることを倭国建設の目標だと考える者は軍の最高司令官としての男王を求めただろう。女王が祀りごとを主宰しそれを政治と合体させるという予言者的統治は内向きで倭全体の国造りのことを考えていないように見えたのである。祭政一致の統治は手段であって目的ではない。そこで、男王制度に戻すべきだと考えた可能性がある。
 女王制度のもとでは軍を統率できないということはない。男王がよいか女王がよいかという対立のさせ方自体が無意味である。先祖からの伝統や先例などに根拠が求められるようになるが、なぜそのような伝統や先例がつくられたのかを説明しなければ意味がない。結局は、男が戦争に従事してきた歴史があって男性優位、男尊女卑のような発想が根付いた人々とそうでない人々の思考の差異が男王派と女王派の違いになったのだろう。ヤマト王権の全国平定の時期のような軍事中心の時代は男王派が強く、倭国が安定すると女性天皇が登場している。
 卑弥弓呼が魏を後ろ盾とする卑弥呼と攻撃し合うのは、かなりの勢力を持っていたからであろう。三世紀中頃、倭で九州の倭国に対抗できる力があったのは畿内だけだったと思われる。出雲も吉備も邪馬台国と戦う意思はない。
 畿内が発展したのは広い平野があるからではない。水田を広げ食糧生産を増やし、人口も増え、様々な産業も興ったからだと考えられる。第七章で詳しく述べるが、中岡・周濠式の溜め池を造ったことで水田を広げることができたのが畿内発展の契機となった。
 水田開発のための溜め池築造事業はそれまでにはないもので、ヤマト王権の特徴である。しかも畿内のほうが九州より早く造られており、吉備の関わりが見られるから、吉備勢力が始めた方法を邪馬台国子国が採用、奨励したものだと思われる。これにより、畿内は子国王のもとで食糧生産が増え、武器や兵の調達もできるようになって軍事力が強化され急速に勢力を強めていったと思われる。
 これが王への権力の集中をもたらし、中央集権的な政治に変えていくとともに、軍事力により倭国の勢力を全国に広げる方針につながった。これは軍隊を指揮できる王のもとで建国を進めるべきだということである。当時の最高指揮官になるべき者は男王であった。
 その結果、邪馬台国子国の王は、女王制度を男王制度に戻し、女王の退位・譲位によって男王を立てようとして行動を開始したのだろう。


⑺ 周辺諸国の態度
 邪馬台国子国が邪馬台国の子国であり続ける場合は、その国や周辺国とはいわば同盟勢力という関係であり対立はない。畿内と東方の国を支配下に置くことは倭国を脅かすことにはならない。強大な軍事力を有することは同盟国にとって頼りになる。
 しかし、畿内王家の王と卑弥呼との不和が表面化すると、周辺国は女王を支持するか畿内王家の側につくかという選択に迫られるようになる。女王に服属している以上、また、宗教的倫理的にも卑弥弓呼に加担するわけにはいかない。多くの国を従え魏が背後についている女王の側についていたほうが無難だと思ってしまうだろうが、畿内王家の実力を知る近隣国は戸惑うだろう。
 王族内の問題だとしてどちらにもつかないようにしていたのではないかと思われる。女王から、卑弥弓呼を謀反の罪で捉えよという命令が出ても、卑弥弓呼と戦える国はなかっただろう。

ヤマト王権の始まりの国 3-3ー3

⑶ 漢鏡の地域分布と邪馬台国位置論争
 北部九州がクニ造りの中心だったことはこれまで調査された漢鏡の分布からも推測できる。漢鏡は渡来人が伝えたもの、朝貢によって受け取ったもの、輸入したもの、倭で造られたものがある。
 四期漢鏡と言われているものは弥生時代中期から後期にかけて、北部九州、中国地方、近畿地方へと広がっている。西日本に交易圏が形成されていたことがうかがえる。倭の三十国が後漢に朝貢して受領したり、倭奴国が倭の国々を統合していく過程で小国の王に授けたりした可能性もある。
 弥生後期、倭奴国の時代には五期漢鏡が広まったようである。四期漢鏡よりも分布範囲が広がり、畿内にも伝わって、銅鐸、甕棺とともに発見されている。この時期の畿内の漢鏡は邪馬台国のものではないと考えられる。
 二世紀前半の六期漢鏡は北部九州に集中している。倭国が成立した後の頃で、倭国大乱を経て卑弥呼共立に至る時代の前である。畿内に一部が伝わっているのは、倭国が畿内に進攻して領地を得たのかもしれない。
 倭国大乱後、七期漢鏡が広まる。北部九州では、三世紀初頭に六期、七期漢鏡の破砕が行われた。二百二十年に漢が滅んだことと関係しているかもしれない。倭国や邪馬台国が魏への忠誠を示すために漢鏡を破砕したのか、漢への服属が無くなったことによる破砕か、宗教的な意味があったのか、謎である。中国地方、畿内、洛南などでは破砕はされず、九州の中部、南部で漢鏡そのものがほとんど発見されていないのは、漢鏡が与えられる事情がなかったからだろう。
 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から拝領したものだけではない。日本で製造されたものがあるとされている。畿内で大量に発見されたり、東日本で発見されたりするのは四世紀の古墳がほとんどであり、卑弥呼死亡から相当経っている。ヤマト奈良王家が王権を継承した後、九州から持ち帰ったものや日本で製造したものを豪族らに下賜した可能性がある。従って、漢鏡の製造年代から古墳の築造時期を判断することはできない。
 一つの古墳から銅鏡が大量に発見されるのはどういう意味があるのか分からない。何か功績をあげるごとに下賜されて数が増え、その功績を讃えるために全部を副葬したのかもしれない。
 これらの漢鏡の分布と時代からは、弥生時代後期に邪馬台国が畿内に成立していたとする根拠は見いだせない。