ヤマト王権の始まりの国 目次

副題 「狗奴国=邪馬台国の子国=ヤマト王権」仮説                  


                               原稿番号
序章 疑問の始まり                      1
一 倭女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼
二 倭の国の王権
 ⑴ 国とは                  
 ⑵ クニ(国)の名づけ
 ⑶ 二世紀までの倭の国              
 ⑷ 二世紀から三世紀までの倭の国
三 手がかり
四 ヤマト王権=狗奴国=邪馬台国別国仮説           1-2
第一章 卑弥弓呼の国                     2―1
一 狗奴国か拘奴国か
二 だれが狗奴という字を用いたか
三 「狗奴国」の読み方                    2-2
 ⑴ 狗奴の発音
 ⑵ 狗奴の意味
 ⑶ 元の倭の言葉は何だったか
 ⑷ 奴の字がつく国 
四 なぜ狗奴の字か                      2-3
 ⑴ 通訳はどう説明したか
 ⑵ 倭国での文字記録はない                     
五 狗奴国は畿内にあった                   2-4
 ⑴ 魏志倭人伝の二つの奴国の位置
 ⑵ 後漢書の記述と信用性
六 狗奴国の成立時期                     2-5
七 狗奴国の王
 ⑴ 卑弥弓呼の読み方
 ⑵ 弓は何を意味するか
八 女王に属さずとは
第二章 邪馬台国とは                     3-1
一 卑弥呼の都がある国
二 邪馬台国の名と字
 ⑴ 邪馬台の読み方
 ⑵ 邪馬台という字の理由ヤマダイの意味
 ⑶ ヤマダイとヤマト
三 山台における国造りの条件                 3-2-1
 ⑴ 国造りにつながる思想
 ① クニを造るということ 
 ② 武力による支配という考え方
 ③ 王による統治という考え方
 ④ 王は神の子であるという考え方
 ⑵ 食糧生産力と人口                    3-2-2
⑶ 条件不足を補うもの
  ⑷ 山台の勢力の由来                   3-2-3
四 邪馬台国の位置                      3-3-1
 ⑴ 邪馬台国と狗奴国とヤマト王権の国
 ⑵ 魏志倭人伝に記された行程                3-3-2
 ① 距離算出の基本
 ② 魏志倭人伝の距離の表現
 ③ 各国への行程
 ⑶ 漢鏡の地域分布と邪馬台国位置論争            3-3-3
五 邪馬台国畿内説の問題点                  3-4-1
 ⑴ 邪馬台国の名の由来をどう語るか
 ⑵ 魏志倭人伝の行程をどう説明するか
 ⑶ 豪族連合政権説との関係
 ① 連合の意味
 ② 連合説の根拠
 ③ 連合に加わった豪族
 ④ 連合の目的
 ⑤ 成立時期
 ⑥ 世襲制
 ⑦ 結論
 ⑷ 邪馬台国の都                      3-4-2
 ① 邪馬台国の成立時期
 ② 畿内の状況         
 ⑸ 倭国大乱は畿内から始まったのか
 ⑹ 畿内で倭国の運営と統治はできない
 ⑺ 北部九州に邪馬台国がなければどういう国があったのか
第三章 倭国                         4-1
一 大乱前の倭国はどのようにして成立したか
 ⑴ 倭国の成立とその意味
 ⑵ 倭奴国との関係
二 倭国の勢力範囲
三 倭国の発展と王位継承
 ⑴ 海幸彦と山幸彦の物語の意味
 ⑵ 時代性
四 倭国大乱とは
 ⑴ 時期
 ⑵ 原因
 ⑶ 倭国大乱と記紀
五 女王共立                         4-2
 ⑴ なぜそのような解決をしたのか
 ⑵ 「卑弥呼」となった者
 ① 卑弥呼の名は継承された
 ② 卑彌呼という字
 ③ イチヨは第一宗女(世継ぎ)のこと
 ⑶ 女王の権力はどういうものか
第四章 東征                         5-1
一 ヤマト王権成立史のハイライト
二 記紀の読み方
 ⑴ 記紀はなぜ作られたか
 ① 倭の国造りの物語
 ② 歴史の脚色
 ⑵ 記紀は倭の国造りの物語
 ⑶ 東征物語における隠された歴史
 ① 出発地の国の名
 ② 倭国大乱と女王共立
 ③ 新たな国の成立まで
三 東方平定と畿内の国造り                  5-2
 ⑴ 東方平定の意志
 ⑵ 東方平定の実行(再開)
 ⑶ 東方平定の先
四 出発
 ⑴ 出発の時期はいつか
 ⑵ 吉備の役割
五 東征の経過とその後
 ⑴ 行程と戦い
 ⑵ 本国の状況
 ⑶ 畿内での国造り
 ⑷ 卑弥呼と卑弥弓呼の対立
第五章 卑弥呼と卑弥弓呼の不和と相攻撃             6-1
一 不和
 ⑴ 不和という言葉の意味
 ⑵ 不和と相攻撃の頃の卑弥呼と卑弥弓呼
 ① 卑弥呼
 ② 卑弥弓呼
 ⑶ 不和の内容と原因 
 ⑷ 不和と邪馬台国王族の関わり
 ⑸ 歴史的に見た不和
 ⑹ 「素不和」とはどういう意味か。
 ⑺ 周辺諸国の態度
二 「相攻撃」の意義                     6-2
 ⑴ 原因
 ⑵ 戦いの経過
三 卑弥呼の塚                        6-3
 ⑴ 塚の場所と規模
 ⑵ 畿内の前方後円墳は卑弥呼とは関係がない
四 女王体制の復活とその後
五 狗奴国と卑弥弓呼
第六章 倭国統治権の移譲                   7-1
一 邪馬台国王家の没落と畿内王家の興隆
二 畿内王家への倭国統治権の移譲
三 邪馬台国王家のその後
四 邪馬台国王家の記録の抹消とヤマト王権史の制作
五 神々の系譜が意味するもの                 7-2
 ⑴ 日本誕生からの正統性
 ⑵ 天照大神
 ⑶ ヤマト王権の神々の系譜
第七章 畿内の発展をもたらしたもの              8-1
一 畿内発展の条件と契機
二 水利と富国強兵
 ⑴ 弥生集落の場所
 ⑵ 新しい集落
三 畿内発展の象徴
 ⑴ 方形周溝墓
 ⑵ 瀬田遺跡の円形周溝墓は墳墓なのか
 ⑶ 三世紀前半の古墳
 ⑷ 周濠式の墳墓形式をもたらした勢力
 ⑸ 方形周溝墓はなぜ消えたか
四 纏向古墳群はどのようにして造られたか           8-2 
五 箸墓古墳
 ⑴ 墳墓として築造されたのか
 ⑵ 墳墓の築造と形状
 ⑶ 築造年代と被葬者
六 山麓の前方後円墳
七 周濠分割型前方後円墳                   8-3 
八 前方後円墳の広がり        
 ⑴ 地方の箸墓古墳型古墳 
 ⑵ 前方後円墳の広がり
 ⑶ 前方後円墳の終焉
 ⑷ 地方で造られ続けられた理由
九 記紀に記されている天皇陵と変化の理由           8-4
 ⑴ 初期ヤマト王権の埋葬地   
 ⑵ 卑弥呼との不和の頃    
 ⑶ 墳墓形式の変化
 ⑷ 開化天皇陵と崇神天皇陵
 ⑸ 王宮と墳墓の場所
 ⑹ 池の保全と王墓予定地
 ⑺ ヤマトと象徴
第八章 ヤマト王権とミヤコ(都)についての推理        9
一 都(ミヤコ)とは
 ⑴ ミヤとは
 ⑵ ミヤコとは
 ⑶ 王と宮の関係
 ⑷ 宮の名と場所
 ⑸ 王に私生活なし?
二 遷宮はあったか
三 記紀の初期天皇の系譜は正しいか              10
 ⑴ 初期天皇の系譜は正しいか
 ⑵ 天皇の在位期間の記述
 ⑶ 在位期間の修正
 ⑷ 神々の系譜
四 王と宮の名
 ⑴ 宮の名の由来をどう推理するか
 ⑵ 王の敬称の由来をどう推理するか
 ⑶ 諡
五 初代から第十代天皇までの諡                 11-1
 ⑴ 神武天皇 
 ⑵ 綏靖天皇
 ⑶ 安寧天皇
 ⑷ 懿徳天皇                        11-2
 ⑸ 考昭天皇
 ⑹ 考安天皇
 ⑺ 孝霊天皇                        11-3
 ⑻ 孝元天皇
 ⑼ 開化天皇
 ⑽ 崇神天皇

ヤマト王権の始まりの国 3-1

第二章 邪馬台国とは


一 大倭王が居し、卑弥呼が都する国
 後漢書によれば、大倭王は邪馬台国に居する。魏志倭人伝によれば、邪馬台国は卑弥呼が都する所である。女王は倭国の王であるから、時代の差はあるが同じことを言っていると思われる。
 卑弥呼は、ヒミコ又はヒミクという倭の言葉を漢字にしたものである。ヒミコという呼称は人名ではなく、万葉集に登場する日之皇子と同じものであろう。皇子とあるが、王子のことではなく天皇の別名である。天皇は日の神、天照大神の子孫とされ、神の子はミコと呼ばれ、日の神の子であるからヒミコ又はヒノミコと呼ばれたものと考えられる。
 邪馬台国がヒミコという呼称を使ったのは、王が国を治めるために日の神を祀り、政を行ったからであろう。王は軍を指揮し統治するが、祭政一致の統治を行う者に相応しい称号が考えられたものと思われる。この称号は、邪馬台国王が倭の国々の王を従え統合するうえで用いた可能性がある。日の神に由来し、国々の王より上位にいる大倭王の称号である。
 朝貢の際には、中国式に王を称したであろうが、女王は権威を示すためにヒミコの名を併せて使ったのではないかと思われる。しかし、通訳はヒミコを翻訳することなくそのままに伝え、女王の名だとみなされたのかもしれない。
 大倭王は倭を治める王である。諸国を従えて支配するだけでなく、官を派遣して統治に関わった倭国王である。後に述べるが、「倭国王帥升」の帥升は名前ではなく最高位を意味する言葉で、倭の国の最高位にある王のことだと考えるのが妥当である。邪馬台国の王がその地位にある。
 「倭國者古倭奴國」という『旧唐書』の記述からすれば、倭国が国号として理解されていたように思われる。倭奴国は倭の国々を従え支配する国、倭国は倭の国々の王を従えて統合した国で、国の体制は似ていたと思われるが、倭国のほうが国々への監視監督が厳しかった可能性がある。帥升は、一大率を置いて諸国を検察する権力を有する帥であり、師即ち軍の頂点に立つ者という意味であると思う。このことは、倭国や邪馬台国がどういう体制の国だったかを推定させる。
 旧唐書には倭国王の姓まで記されていると言われている。「阿毎氏」のことである。阿毎はアマイないしアメイと読める。アマ、アメのことで、天孫を称する一族の氏だと考えたのではないかと思われる。例えば古事記には、天忍穂耳命、天忍日命、天津久米命、天津日高日子番能邇邇藝命、天津日高日子穗穗手見命、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命などの名が登場する。
 アメ又はアマ(天)は天孫を名のることができる者の名に付せられ、天津日高日子は天孫族の長たる地位を継承した者に与えられた天降り後の尊称で、そうでない者には「天」も「天津日高日子」もないのだろう。ウガヤフキアエズノミコトはホヲリノミコトの長子であり、王位継承の有無にかかわらず、神武天皇の父として天津日高日子の尊称を与えたものと思われる。
 中国ではアマ又はアメが天皇家の出自氏族の名だと誤解されて伝わり、阿毎という文書記録があった可能性がある。よって、後漢書は帥升を人名として記したのではないと思われる。


二 邪馬台国の成立と名
 魏志倭人伝では「邪馬壹國」、後漢書では「邪馬臺國」と書かれており、前者はヤマイチコクと読めるため、別の国だと主張する者がいるが、国について書かれた内容からすると同じであると考えるべきである。日本では邪馬臺(台)国とするのが定説である。本書も定説に従い、臺は台の字を用いる。
 この国は女王卑弥呼の登場より先に成立していると考えられるから、国名は女王との関係性を表現した呼び方ではない。地名に由来のある固有の国名であると考えられる。それを考えることは、邪馬台国があった場所、卑弥呼の都があった場所を探り、さらには「帥升」と呼ばれる王が登場した理由を考えることにつながる。


⑴ 邪馬台の読み方と由来
 邪馬台国は一般にはヤマタイコク、ヤマタイノクニと読まれている。ジャマタイコクではない。日本書紀に「夜摩苔」という言葉があり、これは邪馬台と同じものではないかと思われる。苔という字はタイやダイと読む。夜摩苔はヤマトと読まれているが、字からすると不自然であり、ヤマタイをヤマトに読み替えたものだと思われる。
 ヤマタイ(ダイ)という名の由来は何だろうか。ヤマとタイ(ダイ)の合成と思われるが、ヤマは山のことだろう。タイは平らとか台のことであろう。山の台状地は山の平らなところでもある。
 それが山のどこを指すかは考え方が分かれる。「臺(台)」は土台のように基(もと)の意味だという考え方なら山の麓のイメージになる。物見やぐらのような高さがある平たいところを指すという考え方なら山上の台状地をイメージすることになるだろう。山の下と上では全く違う。
 高千穂という言葉や邪馬台国への陸行の行程を考えれば、高い山岳地域が想像される。山地の高い見晴らしのよい平たいところにいた種族が国造りを始めたということでヤマタイ(ダイ)ノクニと呼んだのかもしれない。ただし、高千穂がどこか、国ができた地が高千穂かどうかは検討を要する。


⑵ 邪馬臺という字の理由
 ヤマタイに邪馬臺という字を当てたのは、中国でヤマを山と書くわけにはいかなかったからである。山台と書けば、サンタイやセンタイと読むことになり、国名が変わってしまう。よって、ヤマという発音に適する字を借りて音訳したのである。ヤには邪、マには馬、タイには臺(台)の字が使われた。
 「ヤ」に邪を選んだのはなぜか。ヤと読む漢字には、夜、野、埜、冶、邪、耶などがある。「邪」は「よこしま」という意味があるからなぜそんな悪字を当てたのか疑問が出てくる。しかし、ヤと読む場合は字に特別な意味合いはなからそれを選んだのではないかと思われる。
 次に「マ」である。呉音でマと読む漢字はたくさんある。なぜメと読む馬という字を当てたのか。馬は漢音で「マ」と読むように、元はマとメの中間的な発音をしていた可能性がある。
 漢が与えた字であるなら悪字であろうと拒否はできなかっただろうが、ジャメと読まれることのないよう「夜摩」という字に変えたのかもしれない。
 「タイ(ダイ)」は台という字も使われていたが、高、至、土の合成である臺が相応しいと考えられたのかもしれない。
 以上に対して、山台(センタイ、サンタイ)という言葉が伝わってセンタイ、サンタイと呼ばれた地域ができた可能性もある。セン、サンがヤマのことだったことから、ヤマタイに呼び変えられ、ヤマタイノクニという呼称ができたという想像である。


⑶ ヤマダイとヤマト
 山地に住んでいた人々はどう呼ばれるか。ヤマヌ(ノ)ヒト(山の人)、又は訛ってヤマントやヤマトと呼ばれた可能性がある。ウミヌヒト(海人)と対極にある。ウミヌヒトは沖縄などでウミンチュという言葉に変化して残っているが、三母音化は江戸時代以降のことではないかと思う。ヤマダイに住む人々は自らをヤマダイノヒトと呼んだかもしれない。
 ヤマダイ(タイ)ノヒトという呼称に対してヤマヌヒト、ヤマント、ヤマトという呼称を使った人々がいた可能性もある。この場合のヤマタイノヒトは山の麓の人々、ヤマノヒトは山地の人々という対比も考えられる。邪馬台国が支配する倭国が、山地から降りて国造りをしてきた人々によって造られた国なら、ヤマトは山地に残された人々に由来する名かもしれない。いずれも九州に由来する同族で、畿内に移って国を造った一族がヤマトを名乗ったという想像もできる。ただし、同族なら名は同じで、対立するようになって別の名に変えたと考えるべきだろう。
 これは、邪馬台国が東方拡大を行って畿内に子国を造り、子国が後にヤマトを名乗るようになったという仮説と同じである。ヤマトの由来は畿内の地域的特徴によるものではなく、邪馬台国のヤマノヒト、山の一族に由来するという説である。山幸彦の物語はそれを示唆するものかもしれない。
 この仮説では、畿内や倭国をヤマトと呼ぶようになった時期が問題になる。
 古事記には「夜麻登」という表現が出てくるが、古事記は八世紀に入って編纂されたものである。万葉集の歌人もヤマトと呼んで「山跡」、「山常」、「八間跡」、「倭」、「日本」、「夜麻登」、「夜麻等」、「也麻等」、「夜萬登」、「夜末等」などの字を当てている。、「邪馬」や「邪馬台」の字は全く出てこない。
 万葉集は四世紀以降の歌を編纂したものと言われているから、三世紀中頃にヤマトという言い方だったという根拠にはならない。むしろ、「夜摩苔」や「倭」をヤマトと読ませることの不自然さを考えると、ヤマタイ(ダイ)という言い方を後にヤマトに変えるとともに倭国の国内での呼び方も変えたと考えるのが妥当だろう。それに伴って、夜摩苔や倭と表記していたのをヤマトと読ませ、さまざまな万葉仮名も考えられたと思われる。
 では、ヤマタイの国をヤマトの国に変える理由はあったのか。結論を言えば、倭国を統治する王家の系譜が変わったからだと考えられる。倭の国の統治権をヤマタイノクニ(邪馬台国)の王から同族の別の王家が奪ったのである。その王家はヤマト王家を名乗り、畿内の国の名をヤマトノクニ(ヤマト王の国)に変え、さらに倭の国々を従えて倭はヤマトと呼ばれることになった。
 ということで、ヤマタイ(ダイ)もヤマトも、高い山地の台状地に住み、国造りを始めた始祖に由来する呼称だと推理した。もっとも、そこで国を造ったということではなく、国造りを考えたということである。しかし、水田適地が少なく人口も少ない地域には国ができる条件はなく、国を造るなどという考えと実行力は生まれない。元から山の麓辺りが発祥の地だと考えるか、渡来人が国を造る思想と意思を持ち込んだと考えるか、想像はどのようにもできる。

ヤマト王権の始まりの国 2-1

第一章 「狗奴国(拘奴国)」とは


一 狗奴国か拘奴国か
 後漢書に登場する倭の国の名は、邪馬台国、倭奴国、倭国、女王国、拘奴国である。拘奴国の名が登場するのは特別視されていたからだと考えられる。魏志倭人伝には、倭の女王卑弥呼に属する国が多数挙げられているが、狗奴国と卑弥弓呼は特別である。南方の侏儒国、裸国、黒歯国は魏志倭人伝にも登場しているが、同等に考える必要はない。
 拘奴国と狗奴国はどちらが正しい字なのか。一般には、范曄の後漢書は魏志倭人伝にもとづいて五世紀に書かれたものだと言われており、後漢書のほうが誤記だとされている。しかし、魏志倭人伝には漢の時代の出来事が書かれており、むしろ、魏志倭人伝が古い後漢書等にもとづいていると考えるべきである。
 最初の後漢書は光武帝の子の明帝のときに書かれたと言われている。東夷などの列伝も含まれていたと思われる。その後、後漢書や東観漢記、後漢紀などが何度か書かれたとされている。時代が進めば情報も増えていくから少なくとも追加の記述はされるだろう。
 光武帝が倭奴国王に金印を授けたとの記述は明帝のときの後漢書やその後の東観漢記などに書かれていた可能性がある。魏志倭人伝は金印のことは記述されていないが、范曄は古い後漢書などに従い、金印について記述したと考えられる。魏志倭人伝に書かれた倭国の国々の名がないのは、魏志倭人伝を参考にしなかったからではないかと思う。
 魏志倭人伝には後漢の時代の倭の描写や倭国大乱などが載っている。これは女王卑弥呼についての記述に関連するからであろうが、後漢書を調べたとしか考えられない。魏志倭人伝と范曄の後漢書の記述が類似するのは、ともに古い後漢書などをもとにしているからだと考えられる。そのうえで、魏志倭人伝には狗奴国の王や長官の名、不和と相攻撃と張政の派遣、卑弥呼の死など、魏の時代の新しい情報が加えられたと考えるべきだろう。
 「拘」と「狗」は類似しており、古い後漢書などに紛らわしい字が書かれていた可能性がある。「邪馬壹國」も「魏書東夷伝」三韓の条に登場する馬韓の月支国も「目支国」と紛らわしい筆跡だった可能性がある。
 しかし、「拘」と「狗」のどちらの字でも通じる音だったなら、コにもクにも近い読み方の字として使われていたのではないかと思われる。「狗邪韓国」と「拘邪韓国」も同様である。
 よって、「拘奴国」でも「狗奴国」でもどちらでもよいが、名の由来に関わるから、その関係で読み方を決めておかなければならない。


二 「拘奴国」、「狗奴国」の読み方
⑴ 拘奴、狗奴の発音
 「拘」、「狗」はク又はコと読み、「奴」はヌ又はナと読む。拘(狗)奴はコヌ、コナ、クヌ、クナという読み方があることになるが、これは日本語発音であってそれぞれ中間的な発音だった可能性がある。拘奴、狗奴は一般にはクナと読まれているが、当時そうだったかは疑わしい。名には由来があるが、その説明もない。
 卑狗は「ヒク」ではなく「ヒコ」と読まれており、これは日子や彦の意味かもしれない。だとすると、狗奴国の長官「狗古智卑狗」はクコチヒコではなくココチヒコと読むべきだろう。ヒミココをヒミコのコと読めば、拘(狗)奴国はヒミコのコが治めるクニのことだと言える。狗奴国の王卑弥弓呼はヒミクコと読まれているが、「弓」は呉音で「ク又はクウ」と読むからであろう。しかし、「呼」は呉音ではク、漢音でコと読むから、クとコの発音が完全に区別されたものではなかったのではないかと思われる。
 よって、卑弥弓呼はヒミココと読んでもよい。拘(狗)奴国はコナコク、コヌコクと読んでよい。問題は字と名の由来を合理的に説明できるかどうかである。


⑵ 拘(狗)奴という字の由来
 記録のもととなった字は、朝貢した倭の使者が拘奴国王や狗奴国王と墨書されたもの(木簡など)を持参したのか疑問である。字の選択を見ると、中国側で国名を聞いて書いたものではないかと思う。
 倭での呼称に拘(狗)奴の字を当てたのは何か意味があってのことだろうか。
拘は引っ掛かる、とらわれるなどの意味がある。しかし、女王に服属していないなら、単に、発音に合う適当な字を当てただけで、字に特別な意味はないのではないかと考えられる。
 ところが、狗という字になると、いろいろと想像が膨らむ。まず、蔑むべき国だとか卑しい国だという印象を受ける。「狗」には卑しいという意味もある。「奴」も同じ意味がある。
 東夷の国だから悪字を使われた可能性はあるが、狗と奴を重ねる必要はない。そもそも倭の使者がへりくだった態度をとったとしても、そういう意味の国名であると説明したとは考えられない。伊都国の東南にある奴国は蔑むべき国ではない。奴という字は、国名の意味から漢字に訳したものではないと考えるべきだろう。そうであるなら、拘も狗も同じである。
また、狗奴国は敵国を蔑んで呼んだものだという主張もあるだろう。しかし、「奴」は敵のことではない。女王に属する国に奴の字を付した国が多くあり、奴一字の国もある。これらは女王の敵国ではない。
 では、狗が敵の意味なのか。三国時代の馬韓に狗の字がつく国が三つある。狗奚国、狗盧国、狗素国である。当時、漢は馬韓全体を支配下に置いていたから、その三国が敵国というのはおかしい。狗奴国の「狗」も同様に敵という意味ではないと考えるべきであろう。
 ということで、狗という字の意味からどういう国かを想像すべきではなく、単に音訳しただけで、字の選択は東夷に相応しいものにしたと考えるのが妥当であろう。「拘」も「狗」も当て字ということになる。


⑶ 名の由来
 倭でどういう由来で何と呼ばれていたかという問題である。コナ、クナ、コヌ、クヌのどれが倭での呼び方だったか。
 「奴」はいくつも登場し、単なる奴国もあるからこれを先に考えてみる。この奴は助詞でないことは言うまでもない。手掛かりは「漢委奴国王」である。金印を授与されたのは倭を代表する王として認められたからであろう。どういう王かを示す称号であるなら、倭の国々を支配し代表する国の王として認められたと考えられる。その支配、領有などを意味する言葉が「ナ」だったと考えられる。ワナコク王と伝えたのを漢が固有の国名だと解釈しその称号を与えたのかもしれない。
 支配、領有などを意味する言葉が「ナ」だと考えたのは「名」に通じるからである。名は他と識別する印であるとともに、だれに又はどこに帰属するかを示す印である。親が子に名をつければ、子は家族や一族に属する者として認められるとともに、他者と識別される。家畜が自分のものであることを示すために、家畜に名をつける。名は識別したものを領有、支配するという意味がある。王が土地に名をつければ、そこは王の領地であることが確定される。
 高句麗では一定の領地を治めている部族を部と呼び、その領地に那や奴の字を当てていたという。それらの字からすれば、ナもヌも同じ意味で使われていたとも考えられ、発音が似ていたとも考えられる。同じ扶余族系の渡来人が領地の意味のナやヌという言葉を伝え、倭でもその言葉が使われるようになったのかもしれない。
 領有、支配する者は、いわば頂点に立つ者であり、代表者ということでもある。倭の国々を支配することで倭を代表する国王として認められたということだろう。
 次に「拘(狗)」である。これをコと読む場合、考えられるのは「子」や「小」である。コはその訓読みである。国については、子国、小国ということになる。小さい国は他にもあるだろうし、奴という字を考えれば、王が領有する子の国を想像するほうがよい。子の国というのは、ある国が別の地に領地を得て王が統治するのではなく、特別に別国を造って王族に統治させる形態を想定したものである。
 新たに領地を得れば国の一部となり、国王が統治するだろうが、遠く離れた地の重要な拠点となる領地を王の直接統治とせず、その地に新たな統治組織を造り、王を任命すれば国と呼べるものになる。服属させた国をその王に統治させることを考えれば、このような形態はありうる。ただし、子たる立場の国の王は本国の領地である国を治めるのであり、その国は新たに国名を付けない限り本国の名と同じである。それを本国と区別するためにコのナのクニと呼んだのではないかと思われる。ヒミコのコが治めるクニ、ミヤのコを置いたクニという意味でもある。
 朝貢の際に使者が国名をコナコクと伝え、それを漢の側で拘(狗)奴国とう字にしたものと考えられる。