ヤマト王権の始まりの国 9-2

四 初代から第十代天皇までの諡
⑴ 初代神武天皇
    倭風諡はカムヤマトイハレヒコ(古事記では「神倭伊波禮毘古」、日本書紀では「神日本磐余彦」)ノミコトである。元々の諡は若御毛沼命で、初代天皇としたときに新たな諡を贈ったのではないかと思う。
 神倭や神日本は美称でイハレは地名だという説がある。カムヤマトを「神々しいヤマト」とか「神聖なヤマト」と解釈するなら美称と言えなくもないが、神が造ったヤマトがイハレとどう結びつくのか。
 日本書紀に磐余という地名を名づけた由来が記されており、以前は「片居」又は「片立」だったが、皇軍が大戦さをして磯城八十梟帥を滅ぼしたことから磐余邑と名づけられたとされる。ヤマトの国を造る出発点となった地をイハレの地と名づけたなら分かるが、その地名を諡にしたとうのはどうなのだろうか。イハレヒコは「磐余という地の貴い男子」という意味になってしまう。これは天皇の諡らしくない。
 その地において最初の大きな戦いで勝ったことから後のヤマトの国造りの始まりという意味で「イハレ」の地と呼ばれた可能性はある。しかし、諡は地名ではなく功績を考慮した称号である。その功績とはヤマトの建国を始めたということである。
 そもそも、当時の人々にとって尊い祖霊とも神だいう考え方であった。記紀だけでなく万葉集の柿本人麻呂の歌を見ても、ヤマトは神が造った国だと信じられていたと思われる。よって、神を美称に用いるという考えは無かったと考えられる。神は存在すると信じられ、その「神のヤマト」、「神が支配するヤマト」、「神が治めるヤマト」という意味だったのではないかと思う。
 イハレを「謂はれ」つまり由来や始まりの意味だとして、これを始祖と読み替えれば、カムヤマトイハレヒコノミコトは「神が治めるヤマトの始祖である貴い男子であり、日の神の子孫」という意味に読むことができる。神武天皇が「始馭天下之天皇」(日本書紀)とも呼ばれていることとも合致する。
 では、なぜ日本書紀では「磐余」と記されたのか。日本書紀の諡は字に意味を持たせている。ヤマトの国造りが、磐のように強固で余りある軍事力を持って大戦さに勝ったことに始まったとして、「磐」と「余」を諡の字に採用したのではないだろうか。イハレは元からの諡であったから「磐余」をイハレと読ませることになる。倭を日本という字に変えてもヤマトと読ませるという発想と同じである。これによりイハレという土地の呼び名にも「磐余」の字を当てたのではないかと思われる。
 古事記では「伊波禮」となっている。これはイハレの万葉仮名そのままである。イハレという呼称が元からあって伊波禮の字を当てたのである。『帝紀』が文書記録であれば固有名詞は万葉仮名で記され、この字が使われた可能性がある。なぜイハレと呼ばれ「伊波禮」という字が相応しいと考えられたか。「伊波禮」という字をもとに推理をしてみる。
 「伊」の字はよく用いられており、祭政一致制のもとでの治める者の意味である。ハレは大きく広がるさまを示す古来の言葉に万葉仮名を当てたのではないかという想像である。深読みしすぎかもしれないが、カム・ヤマト・イ・ハレ・ヒコノミコトを「神が造ったヤマトの」、「統治者となって」、「(クニの恵沢)を広げた」、「貴い男子であり、日の神の子孫」という読み方をするのも物語としてはありうるのではないか。
 日本書紀の編者は圧倒的な武力で国造りを始めたことに重きを置いてそれに相応しい字にこだわり、古事記とは違う字にしたのではないかと思われる。「神武」という漢風諡は、その字からすると、日本書紀と同一路線のようである。
 天皇としての功績を考える場合は、「若御毛沼命」という名の由来のほうが重要である。若は新しいとか子どもという意味がある。御(ミ)は神に通じる言葉である。毛は毛上即ち地上に生えた穀物のことで、具体的には稲のことであろう。沼は濡れた場所即ち湿地で、水田となる土地である。新しく神の稲が育つ土地を得た王という意味の尊称ではないかと思われる。また、「豊御毛沼命」という名は、豊かに稲が実る土地を得たという意味になる。
 宮の名は「畝火之白檮原宮」(古事記)、「橿原宮」(日本書紀)である。即位のときに造られたことになっているが、宮を造って祖霊の教えに従って国造りをすることを誓って王に就任したことを祖霊に報告したものと思われる。これによって東征の目的が形のうえで達成されたことになる。宮の位置は畝傍山の樫の林が広がる場所だったかもしれない。


⑵ 第二代綏靖天皇
 王位継承前にタギシミミノミコトを殺害した物語があるが天皇としての事蹟は書かれていない。事蹟が書かれていないのは子国の王であったからだと思われる。
 倭風諡はカムヌマカハミミノミコト(神沼河耳命)、日本書紀ではカムヌナカハミミノスメラミコト(神淳名川耳天皇)となっており、微妙に違う。
 神沼河耳命は神武天皇の若御毛沼命、豊御毛沼命という名と同系の名である。沼は水田となる湿地で、河は水利に必須である。神沼河は、沼河を治める力を持った者という意味でその功績を讃える意味かもしれない。兄弟の八井命、八井耳命という名も、多くの灌漑用の井戸を掘ったことから贈られた名のように思われる。
 淳名川の淳はヌとは読まない。そのように読むなら沼河が元の呼び名を反映した字だと考えられる。川を篤く支配した功績に対して淳名川という字を贈ったとすれば、この読み方もヌマカハとすべきだろう。
 「耳」は記紀に共通した字であり、天忍穂耳命にも用いられている。ミミが実を見る、即ち実を結ぶということであれば、沼、河の治水を行い、稲を実らせたという水田作りの成功を想像させるものとなる。
 「綏靖」は安んじる、安泰にするという意味がある。
 軍事支配に続いて食糧増産、産業振興などにより豪族や民を安泰にさせて従える必要はあるから、二代目の天皇に相応しい名である。
 宮の名は「葛城高岡(丘)宮」である。
 葛城という名は、神武天皇が抵抗した土蜘蛛を葛で編んだ網で捕えたことに由来するというのが日本書紀から読み取れるが、捕らえるために網を作るというのは東征部隊の戦い方のように思われない。できあいのものを使った可能性はある。土着豪族が葛を編んでクモの巣のような網状の防御柵を造って周囲に巡らせていた可能性がある。その中にいる者を土蜘蛛と呼んだ可能性もある。その防御網を壊してそれを使って豪族を捕えたのかもしれない。葛網ではなく葛網の城が地名の由来だろう。
 その地を、後に三男の沼河耳命に治めさせていた結果、葛城邑の高岡に宮を造ったとされたのかもしれない。しかし、陵墓の位置を考えると、統治のための王宮殿は橿原に造られた可能性もある。
 綏靖天皇の立太子が十七歳だったとする記述はおかしい。タギシミミノミコトは神武天皇崩御後に日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命を殺そうとして逆に神沼河耳命に殺された。それにより日子八井命らは神沼河耳命に王位につくことを勧めたようになっている。立太子は神武天皇が生存中になるが、崩御後の王位継承順位の変更であれば、立太子のときは日子八井命が皇太子になったはずである。


⑶ 第三代安寧天皇
 同じく事蹟は書かれていない。
 綏靖天皇の第一子で、倭風諡はシキツヒコタマテミ(古事記では「師木津日子玉手見」、日本書紀では「磯城津彦玉手看天皇」)ノミコトである。
 この「師(シ)」は軍隊を意味する言葉であろう。日本書紀には「皇師」という言葉が出てくるが、皇軍という意味である。キが城の意味なら、シキは武装部隊が駐屯する囲われた場所ということになる。古くから環濠や柵を設けて武装部隊を置いて防衛する集落があった。それがシキと呼ばれ、そのような集落が多かった地域がシキムラと呼ばれたと考えられる。磯城郡は縄文時代晩期からの庵治、唐古、鍵、十六面、多などの集落が含まれる広い地域になるが、環濠集落もあった。
 「津」は港の意味があるが、磯城に港はない。川の港という意味であれば大和川沿いのどこかという推理もありうる。現在の川は流れが緩やかな場所では砂が堆積して底が上がっており、河川交通には利用できない箇所が多いが、当時は利用できたかもしれない。
 むしろ、ツは外来語の都そのままの読み方と意味だったという推理もありうる。伊都国をイツと呼ぶべきではないかと述べたのと同じである。統治の中心地であるが宮が置かれない場合はミヤコとは呼ばれず、ツと呼ばれたのではないかという推理である。統治の中心地は交通交易の関係で海沿いに造られることが多かっただろうから、ツに津(音読みでシン)の字を当てる選択もあったと考えられる。
 このように考えると、シキツは大和川沿いのシキの統治の中心地だった可能性があるが、長い川のどの辺りかは分からない。纏向などの大和川東側は初代または第二代天皇のときに勢力下に置かれて池造りや水田作りが広げられた可能性があり、第三代天皇のときに大和川西側も勢力下に置いたということであれば、シキツは大和川が東西に流れるどこかの地点かもしれない。
 シキツヒコの諡は磯城邑全体を平定し治めた功績によって与えられた可能性がある。「安寧」という漢風諡も平定と関係があるのではないかと思われる。
 タマテミという名は何を意味するか。日本書紀の「看」は見守るとか見張るという意味がある。現在の玉手という地域を指すのではなく、「玉」は田間、水田が広がる地域で、「手」は手に入れるという用法を考えると領有する意味が考えられる。磯城を治め、水田が広がる地域を領有して見守った天皇という意味かもしれない。
 第一子は王位を継承せず、第二子が王位を継いだとされる。第三子は師木津日子命(磯城津彦尊)という名である。元々の名であればシキツで生まれたことに因む名だろう。その地を実際に治めさせていた王子に贈った名なら諡ということになる。吉備津日子の例もあるから、後者かもしれない。王の諡と第三子の諡が重なっているのは、第三子の功績の大きさを物語るものかもしれない。師木津日子命の孫に孝霊天皇の妃となった意富夜麻登玖邇阿禮比賣命がいる。
 宮の名は「片塩浮穴(孔)宮」である。安寧天皇は磯城の中心地ではなく後方の大和高田の片塩に王宮があったことになる。
 ウキアナの穴、孔というのは横穴、洞穴のことだと思われる。山の中腹に洞穴があったことからその特徴を宮の名にしたのかもしれない。
 宮は軍事戦略上、伝統的に山の上に造られていたと思われ、片塩の宮も平野を望める山の上に造られたと思われる。葛城から見て、広大な平野の中で畝傍山との間に山が見えるとしたら、現在の片塩町の北西にある小山である。
 安寧天皇の第一子は王位を継承していない。第二子が第四代懿徳天皇となったとされている。

ヤマト王権の始まりの国 9-1

第九章 初期天皇


一 記紀の初期天皇の系譜は正しいか
 記紀には、天皇の子と王位継承者が書かれており、系譜はいずれも先王の子としてつながっている。しかし、古事記と日本書紀は死亡年齢がかなり異なっており、長命過ぎて明らかにおかしいものがある。
 このことから、記紀の天皇の系譜そのものがおかしいと考えるべきだろうか。


⑴ 欠史八代説
 ヤマト王権の始まりの国の初期の天皇について、欠史十三代説や欠史八代説がある。欠史八代説が多いそうであるが、この説は記紀に事績が記されていない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の天皇は実在しなかったという説である。
 しかし、神武天皇は事蹟が書かれているから実在したというのであれば、第十代天皇との間に八代の天皇を入れた理由は何なのか。
 イハレヒコノミコトは畿内に宮を造り即位したとされるが、東征と橿原宮を造って即位するまでの物語は書かれているものの、古事記には大王(天皇)としての事績は書かれていない。東征が架空だと言うのであれば、神武天皇の実在は疑わしいと主張すべきだろう。もっとも、日本書紀には即位後に論功行賞、巡幸等を行ったように書かれている。これは子国の王であっても行うことができる。国の名づけというのも疑問があり、後世になって神武天皇を初代天皇としたことで、国の名付け親のようにしたのだろう。
 以後第九代天皇まで出自や即位までの事柄は書かれているが大王としての事績が書かれていない。神武天皇同様、倭国の大王ではなかったからだと思う。本国の命令にもとづいて行ったことは大王の事蹟にはならない。第七代孝霊天皇のときに吉備を平定したことの事蹟が書かれているが、本国の命令ではなく畿内の王家が自ら行ったから載せたものと考えられる。妻子と王位継承が書かれているのは子国の王として実在していたからだと考えることができる。
 第七代孝霊天皇以降、妻子の数が増えているのを考えると、その頃には畿内王家の勢力はかなり強くなり、大人数の王族を支える経済的基盤と各地の豪族とのつながりができて、軍事的にも王族や姻族の男子を中心に強化されていたのではないかと思う。
 第十代崇神天皇において邪馬台国王家から倭国の王権を移譲させて初代の倭国王となった。
 記紀は地上社会の歴史に忠実な記録ではない。神の歴史という論理で物語を構成したものであるが、東征以後は天皇家の成立と事績を綴ったものと考えられる。この天皇家は倭国の統治権を得る前の畿内王家に含めているため、その時代は倭国の天皇ではなかったという意味では実在しなかったと言える。天皇としての欠史という意味では、初代から第九代までがそうであり、欠史八代というのはおかしい。
 神武天皇から開化天皇までは倭国の大王ではなかったから、その称号が贈られることはない。しかし、畿内に邪馬台国の子国、後の別名ヤマトノクニを造り、それが発展し倭国の王権を築くに至った歴史を振り返って、ヤマトノクニの建国に遡って、歴代の王に天皇の称号のある諡を贈ったものと考えられる。天皇という称号は倭国の大王と同じ意味ではないと考えればよい。
 天皇という漢風諡、和風諡は飛鳥時代に始まったと言われている。存命中の王はオホキミ、ヒノミコ、スメラミコトなどと呼ばれていたかもしれない。先祖らはミコトの称号で呼ばれていただろう。それまでにも和風諡のような名があったが実名だったと考えられている。
 その後、国号は倭から大倭、日本へと変わり、日本書紀の諡にもそれが反映されている。古事記も同じ呼び名であるから字を変えただけかもしれない。


⑵ 天皇の在位期間の記述
 古事記と日本書紀とで天皇の死亡年齢は異なるが、どちらも異常なものがある。日本書紀は在位期間や死亡年齢はある程度書いてあるが、死亡年齢も在位期間も明らかに長過ぎるものがある。
 神武天皇は四十五歳で東征を決意し、五十一歳のとき即位して七十六年間在位し、百二十七歳で死亡したことになっている。この死亡年齢はありえない。十五歳で太子に立てられたというのもおかしい。
 綏靖天皇は、神武天皇四十二年、同天皇九十三歳のときに、十七歳で皇太子に立てられた計算になるが、神武天皇が七十六歳のときに生まれたことになる。しかし、タギシミミノミコト暗殺事件からすると、立太子というのはおかしい。
 安寧天皇は、綏靖天皇二十五年、同天皇七十六歳のときに、二十一歳で皇太子に立てられた。綏靖天皇が五十五歳のときに生まれたことになる。即位が立太子前の十九歳というのはありえず、計算上の即位年齢は二十九歳である。在位三十八年で、六十七歳で死亡したことになる。日本書紀は死亡を五十七歳のときとしている。
 懿徳天皇は、日本書紀では安寧天皇十一年、同天皇三十歳のときに、十六歳で皇太子に立てられた。安寧天皇十四歳のときの子になる。計算上は安寧天皇が二十四歳のときの子で、即位の五年前に生まれたことになる。立太子から二十七年後の四十三歳で即位し、七十七歳で死亡した。
 孝昭天皇は、懿徳天皇二十二年、同天皇六十五歳のときに、十八歳で皇太子に立てられた。懿徳天皇四十七歳のときに生まれたことになる。孝昭天皇は三十歳で即位した。在位八十三年、百十三歳で死亡したとされている。この数字は異常である。
 孝安天皇は、孝昭天皇六十八年、同天皇九十八歳のときに、二十歳で皇太子に立てられ、三十五歳で即位した計算になる。孝昭天皇七十八歳のときに生まれ、在位百二年、百二十七歳で死亡したとされている。これらの数字も異常である。
 孝霊天皇は、孝安天皇七十六年、同天皇百十一歳のときに、二十六歳で皇太子に立てられたとされ、五十二歳で即位した計算になる。孝安天皇八十五歳のときに生まれ、在位七十六年、百二十八歳で死亡というのも異常である。
 これらは、即位の時期を過去に遡らせるものであるが、そのようにした理由は、消した歴史を埋め合わせるためだと考えられる。それも女王時代だけを消すのではなく、その理由となった倭国大乱を消し、倭国そのものを消すのである。そして、地上の倭国はイハレヒコノミコトが造ったヤマトの倭国だけだとする。時代としては、ヤマト(倭)国の成立を倭国の成立のときにまで遡らせる考え方になる。さらに邪馬台国の建国のとき、あるいは朝鮮での建国のときに遡らせようとしたかもしれない。
 このようにして、邪馬台国や倭国の王の歴史などは神の物語にしてしまう。元々の倭国成立時に遡って初代天皇の即位時期とすればよいのである。倭国成立がどれくらい前だったかは、おそらく、女王を含めて代々の倭国王の在位期間は伝承や記録にもとづいて逆算できたと思われる。
 しかし、これは理屈であって、数字を入れるだけなら倭国成立時に遡る必要はない。何百年も前に遡らせればよいのである。


⑶ 在位期間の修正
 では、初代天皇からどの天皇までの在位年数をどれだけ膨らませていくか。初代から第九代天皇までの在位期間だけを膨らませると、前後の違いが目立つかもしれない。歴史の改竄を疑われるのを回避するには、後の天皇の在位期間も膨らませ、過去を倭国成立よりもっと前に遡らせて「ありえない数字」にするのがよい。「神の年齢」の表現であって改竄ではないと説明するのである。
 膨らませ方は、実際の在位年数に加算をするだけである。実際の在位年数は、当時は記録があったのかもしれないが分からない。加算の方法としては乗法が考えられる。推定するには、子国が成立し倭国の統治権を移譲させるまでの推定期間とそれに相当する記紀の合計在位年数との比較だけでは足りない。第十六代仁徳天皇まで死亡年齢の異常があり、その時代までを推定して比較する必要がある。
 問題は、膨らませ方に法則があったかどうかである。これが分かれば、おおよその実際の在位期間を推定することができる。実際の在位期間は、子国の王が実働部隊を率いる立場であったことを前提に考える必要があり、短期であっても異常とは言えないかもしれない。
子国の王の就任を初代天皇の即位に置き換える場合は、東征の成功からになる。それを倭国成立の頃に遡らせ、さらに適当な数字の倍数に遡らせる。倭国成立を一〇〇年頃と想定し、初代天皇から第十三代成務天皇までの在位年数を日本書紀の三分の一を四捨五入した数字とする。そして、東征の成功を二〇〇年頃と想定し、更にその二分の一を四捨五入した数字とする。ほぼ六分の一である。
 仮に記録や伝承があれば、それをほぼ六倍に膨らませたと想像することになる。掛け算ができなくても同じ数字を六回足せばよい。
 しかし、単純にそのようにするだけでは推古天皇即位五九二年や継体天皇即位五〇七年から遡った数字と合わない。在位年数を膨らませる法則は見いだせないが、辻褄合わせはできる。その方法は次のとおりである。
 第十四代仲哀天皇から神功皇后を含めて第十六代仁徳天皇までの在位年数を日本書紀では三回足した数字としたと想像する。
 第十七代履中天皇から第三十三代推古天皇までは日本書記の在位年数そのままとする。崩御と即位の年は西暦では同じであることが多いが、厳密に行うと第二十七代継体天皇の即位から推古天皇即位までの年数は一年合わない。よって、これについては崩御の月を考慮しながら微調整する。
 このようにして推古天皇即位から遡っていくと、下表のようになり、神武天皇即位は一九〇年代前半、崇神天皇即位は二九〇年前後頃となる。孝元天皇の崩御は三世紀後半後期頃となり、古墳の築造時期には反しない。
 (下表) 省略


 四 王と宮の名
⑴ 宮の名の由来をどう推理するか
 ミヤコを造った頃の宮の名は筑紫岡田宮,安芸多祁理宮、吉備高嶋宮と同様に、そこの地名によるのが通常だっただろう。地名というものは名づけられてしまえば、昔からその名だったかのように思われることが多い。地名の歴史を知らないときはそうなる。現在までに地名が変えられたところは極めて多いが、過去の文献に出てくる地名が現在のどこに当たるのか不明な場合もある。例えば「阿岐國之多祁理宮」のタキリの地名は残っていない。また、古い地名はいつ付けられたのか分からないことが多い。
 おおよその地域が分かっても、地点特定は難しい。そのため、宮がどこにあったかを確定するのは難儀である。
 記紀では名は同じでも字が違うことが多い。書き方も違う。古事記では「坐〇〇宮」と記述されているが、日本書紀では「都〇〇。是謂〇〇宮。」、「遷都〇〇(地)。是謂〇〇宮。」、「更都於〇〇。是謂〇〇宮。」などの書き方になっている。都の後にある名は地名である。従って、古事記の書き方は先に地名が書かれ、次に宮の特徴などによる名が書かれているものと思われる。宮名(号)が地点特定に役立つ場合がある。日本書紀の都は王宮殿のある場所を示すものだろう。


⑵ 王の敬称の由来をどう推理するか
 王族の名には特徴がある。男子の名の主なパターンは、〇〇ヒコノミコト、〇〇ノミコト、〇〇ヒコ〇〇ノミコトである。女子の場合は〇〇ヒメノミコトである。
① ヒコ(彦)は現在では男子のことを意味するが、かつては男子の尊称とも言われた。 古事記には日子、比古、毘古の字が用いられている。(毘は呉音ではビと読むが、本書では「ヒ」に統一している。)ヒメは、比賣、毘賣のみで日賣はない。万葉集の柿本人麻呂の歌に「日女」が登場するが、ヒルメと読まれている。
 イザナミノミコトが生んだ神々にヒコ、ヒメが出てくるのは、尊称というわけではないだろうが、日神の子孫を称する王族の尊称として日子、日女と言ったのかもしれない。天皇の和風諡にも日子、毘古、彦が付けられている。第十五代応神天皇以降の天皇には日子の字はない。
② ミコトも、イザナギノミコトの禊の際に生まれた底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、月讀命、建速須佐之男命からすれば、神の別名の呼び方のようである。これらのミコトも王族の尊称というわけではない。
 しかし、人にミコトの名を付ける場合は、神の子孫であるという意味の尊称であると思われる。従って、性別を問わない。「命」という字が使われたのは神から託された者という意味だろうか。日本書紀では、註にあるように尊と命の字が使い分けられている。ニニギノミコトは「天津彦彦火瓊瓊杵尊」である。大己貴は神だったり命だったりする。神と尊が併用されている場合もあり、分かりにくい。
③ よって、ヒコのミコトと呼ばれるときは、日の神の子孫の男子という尊称だと考えてよいのではないかと思う。ヒメのミコトは日の神の子孫の女子である。
 天皇についてはヒノミコという呼び方がある。古事記に「多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美(高光るヒノミコ、八隅知しわが大王)・・・」という歌がある。日の神子(御子)という意味であろう。万葉集では「日之皇子」、「日之御子」が登場する。
  
⑶ 諡
 〇〇ヒコ〇〇ノミコトなどは諡だとされている。そうであるなら、ヒコとミコトのそれぞれの前に記された名の意味を推理することで、その王の生まれや誕生場所、業績などを想像することができるのではないかと思う。第二代から第九代までは実在しない天皇であるという説が多いが、古代の王権に関わる者たちが諡を考える場合、その王が実在しなかったという前提で考えることはしないだろう。子国時代の王に諡を贈った王は先祖に敬意を払って名を考えたはずである。

ヤマト王権の始まりの国 8-3

六 記紀に記されている天皇陵と変化の理由


⑴ 初期ヤマト王権の埋葬地
 古事記には葬った場所として、山上、尾上、坂上などとともに「岡」という字がいくつか出てくる。岡は人工の山である。いずれも見晴らしの良い高い場所である。魂が天に昇っていきやすい場所に葬るという考え方にもとづくものかもしれない。
 しかし、記紀には墳墓形式は書かれていない。現在の拝礼所は記紀にもとづいて後世に造られたものだろう。おそらく、特別の墳墓モニュメントは造られなかったのだろう。
 初期の天皇の実在性は疑われているが、二世紀終りころに畿内に邪馬台国の子国ができたとすれば、その王の墓があってもおかしくはない。
 神武天皇は畝火山の「白檮尾上」に葬られたとされる。山の尾根を上がったところであり、麓ではない。山の麓には各所に池があるが、いつ頃造られたものか分からない。
 綏靖天皇は「衝田岡」に葬られたとされる。現在指定されている墳墓は円墳であるが規模は小さい。塚を造ってそこに葬ったのであろうが、邪馬台国の平地での墓の形式のようにも思われる。
 安寧天皇は「畝火山之美富登」に葬られたとされる。これは麓ではなく谷を上がったところではなかろうか。
 懿徳天皇は「真名子谷上」に葬られたとされる。谷を上がったところという意味であろう。
 孝昭天皇は御所の「掖上博多山上」に葬られたとされる。文字通り山の上である。この地は、西の葛城山と南の巨勢山から川が流れてくる一帯である。しかし、葛城川の東側の水利はよかったとは思われない。
 孝安天皇は御所の「玉手岡上」に葬られたとされる。現在では南の山麓に溜め池がいくつもあり、川が流れ出ているが、当時はその地を水田にするには水が足りなかったと思われる。玉手岡というのも山の麓に池を掘って、その土を山の根元に積み上げて人工の山のようにしたことから付けられた名ではなかろうか。墓は、その岡ではなく岡の上の山上かもしれない。
 この頃は、周濠式溜め池の中岡は吉備の豪族の墳墓形式とされていて、それを王墓にするという考えはなかったのだろう。吉備の豪族の娘が王妃となり、その王妃の墓を前方後円墳型の墳墓に葬ったのがきっかけとなって、巨大な墳丘墓なら山上に見立てることができるということで王墓にするようになったのかもしれない。


⑵  卑弥呼との不和の頃
 邪馬台国子国の歴史の転機は卑弥呼との不和と相攻撃という事件である。三世紀半ば頃の天皇は、記紀で言えば第七代孝霊天皇の時代の頃だと思われる。孝霊天皇は田原本町黒田に宮を造ったことになっており、、生駒ルート、奈良ルート、大和川沿いルートどれをとっても、大阪側と対峙できる場所である。
 女王に属する国は多く、卑弥呼は魏にも支援を求めている。卑弥弓呼が畿内防衛を図るために、この位置に宮を造ったものと思われる。つまり、この卑弥弓呼とは孝霊天皇のことではないかと推理することができる。
 相攻撃の結果、魏が介入し、卑弥呼は死ぬ。卑弥弓呼は撤兵したものと思われるが、引き続き警戒はしていただろう。墳墓は王寺の大和川近くの山上にあり、西方に対して守護の神となるという発想だったのかもしれない。
 この力関係ができる時期は、瀬田や纏向の周濠などが造られた後の子国王権の勢力拡大の時期である。この王家の王こそ倭の王に相応しいという自負心も生じたかもしれない。


⑶ 墳墓形式の変化
 第八代の孝元天皇陵は三世紀後半に造られた前方後円墳とされている。前方後円墳であるなら、王墓としては初めての墳墓形式である。
 孝元天皇陵は、北西に向かってなだらかな傾斜がある場所にある。古事記では「剱池之中岡上」に葬ったとされている。「岡」はたびたび出てくるが、岡というのは人工的に造った上部がなだらかな小山のことで、造り山と同じ意味である。当時の墳墓の形が分かる唯一の言葉である。現在の中岡は直径百メートルくらいで、箸墓古墳と比べて規模はかなり小さい。日本書紀は「劒池嶋上陵」と記されている。島であるが、元は西北側に外部とつながる陸橋状の方形部があったと思われる。ところが、剣池が掘られて方形部側は陸側と分離され、島のようになったのではないかと思われる。方形部が不整形なのは、池を掘った後に崩れたからかもしれない。
 剣池は応神天皇の時代に造られたという記述があり、そのときに中岡ができたのであれば孝元天皇を葬ることはできないから、先に周濠式の溜め池と中岡ができていたと考えられる。その後、劒池が掘られ、島状になり、後づけで「剱池之中岡上陵」、「劒池中嶋陵」と呼ばれるようになったのだろう。「劒池」は記紀編纂時を基準に場所を示したものと思われる。
 現地は南東部がやや高くなるため池の掘り方には注意を要する。最初に予定された周濠式の溜め池が円形であれば、さほど問題はなかったかもしれないが、仮に方形部を延ばして周濠を広げたなら、崇神天皇陵のように周濠を堰堤で分割しなければならない。箸墓古墳の周濠がそのようなものであれば、同様にされただろう。しかし、堰堤を造った場合でも、円墳部の濠より下段の濠に水を溜めることを優先するから、円墳部の周濠には水は溜まりにくくなる。水量が少なければ意味がない。これは、堰堤で分割した周濠を持つ古墳全てに言えることである。ただし、前方後円型墳丘墓に周濠が必須であると考えられたなら、各段の濠の水量を調整して周濠を維持するという考え方はありうる。
 いずれにしても周濠式などの溜め池を造るのは、その地で水田を作るには水利が不十分だからである。剱池がある辺りは飛鳥川と高取川に挟まれた地域であるが、南部は川との高低差の関係で水位が足りなかった可能性がある。川を堰き止めて水位を上げて水路に導くという方法はまだ行われておらず、水田を作るのが困難な地域だったのだろう。湧水があってもそのまま流れ出ていけば意味がない。小規模であっても溜め池を造ったことで水田耕作ができるようになり、収穫が増えると水田を広げるために池を大きくしようと考える。
 孝元天皇の墳墓は三世紀後半に造られたとしても、最初の周濠と中岡は三世紀中頃には造られていた可能性がある。これを造るには豪族による指揮監督と民の労働力が必要であったが、事業の成功により皆が報われ、邪馬台国子国の王の権威は増したと考えられる。そして、その象徴である周濠の中岡に王を葬ることとしたのだろう。


⑷ 前方後円墳の継承
 孝元天皇陵は前方後円墳形式の王墓の先例とされるが、第九代の開化天皇陵とされている古墳は五世紀前半に造られたもので、同形式の引継ぎと言うわけにはいかない。
 開化天皇は「伊邪河之坂上陵」(古事記)、「春日率川坂本陵」(日本書紀)に葬られたとされる。岡上ではない。孝霊天皇陵も「坂上」であるが、小高い山の上である。開化天皇は率川上流の春日山一帯のどこかの小山の上に葬られたのかもしれない。現在、開化天皇陵とされている古墳の場所は坂上に葬られたとする記述に合わない。「坂本」なら坂の下のことではないかという主張があるかもしれないが、サカは上から下にサカル(サガル)場所であり、その元(本)は上にある。「黄泉比良坂之坂本」は黄泉の国から坂を上がった場所のことで、地下世界から地上世界に戻ったことを意味する。坂上と坂本は同じ意味であり、古事記も日本書紀もともに率川を上がったところと言っているのである。
 よって、開化天皇陵とされている古墳は別の王族の墓である可能性がある。現在の墳丘の規模は小さく、周濠も細いが、当初は貯水池を兼ねて大きく造られたかもしれない。その周濠式の溜め池を造らせたのが開化天皇だったかもしれないが、溜め池築造の時期は三世紀終り頃ではないかと思われる。
 開化天皇の宮の名は「春日伊邪河宮」(古事記)、「春日率川宮」(日本書紀)である。奈良平野北部に宮を置いたのは、北部の開発のために河川整備事業を行うためだったかもしれない。率川一帯の水利に功績があったなら、その川の上流の山に葬ってもおかしくはない。
 この時期は、魏が滅んだのを契機として、奈良王家は邪馬台国の王権の移譲を認めさせようという頃であろう。第九代の開化天皇のとき倭国の王権の移譲を求めた可能性があるが、すぐには実現できなかったと思われる。奈良平野の開発を優先し、周濠のある中岡を墳墓とする考えはなかったのではないかと思う。
 第十代の崇神天皇の陵墓は前方後円墳であるが、その方形部が切られたように短い。これは前方部に池を広げた際に削ったからではないかと述べたが、前方後円墳が王墓の形式であるという意識はなかったと考えられる。天から見た形も意識されておらず、溜め池と巨大な山造りが力を象徴するものとされたのかもしれない。しかし、王墓の形式だからという理由ではなかったと考えるべきだろう。
 崇神天皇を葬るときには、新たな倭国王となったヤマト王を象徴するものに相応しい規模のものが選ばれ、そこで、奈良平野の東側に位置し、当時最も巨大だった周濠式溜め池の中岡の上に葬ったのではないかと思われる。古事記では「山邊道勾之岡上」に葬ったとされる。日本書紀では「山邊道上陵」となっている。
 第十一代垂仁天皇は「菅原之御立野中」(古事記)、「菅原伏見陵」(日本書紀)に葬られたとされている。宝来山古墳と呼ばれる古墳であるが、これは五世紀前半に造られたものであり、古墳築造時期は遅すぎる。岡上という記述でもなく、陵墓が前方後円墳だったのか疑問がある。平地の小さい丘に葬られたのではないかと思われる。
 仮に、宝来山古墳が正しい陵墓であるなら改葬されたと考えるべきだろう。改葬ならば、時期がずれていても、死亡した場所と墳墓が離れていてもおかしくはない。仲哀天皇はそういう例だろうが、記紀の記述から判断できなければその証拠を探すのは無理である。
 従来、孝元天皇以後、天皇は前方後円墳に葬られているという前提で陵墓が指定されていたのではないかと思われる。しかし、墳墓形式の継承はそれが正式の大王墓の様式として定められてからのことであり、それまでは先例に従うかどうかは生前の意思と葬る側の判断に委ねられていただろう。農耕を基盤とした国造りということで溜め池のある前方後円墳を選ぶ大王はいただろうし、邪馬台国の伝統に回帰して自然の山上に葬ることを希望した大王もいたかもしれない。
 大王墓の様式は、邪馬台国文化との決別、国造りの思想、国内の安定があって定まり、時代によって変えられたと思われる。


⑸ 池の保全と王墓予定地
 池を造れば管理が必要となる。とくに、水不足のときに人々が勝手に取水しようとするのを統制しなければならない。その水利系の耕作者が集団で取水を行えば統制は難しくなる。
 そこで、中央部の岡を王墓にして周濠を含めて立入禁止にして防止することを考えたかもしれない。王の印をどこかに立てておくのである。違反者は重罰に処せられる。また、王墓でなくても王家の印を立てておくことも考えられる。前方後円墳を王墓にした先例があれば人々は信用するだろう。
 他方で、水不足が続けば、王は降雨を祈願して宗教的な行事を行うことで、民の不安をやわらげつつ統制しようとしたかもしれない。
 さらに、水不足が起きないように周濠式溜め池を各地に造ったり、溜め池を拡張したり、水路を整備したりしただろう。
 畿内には、王墓と考えられるもののほかに多くの前方後円墳がある。溜め池だと考えれば何も不思議ではない。墳墓にされないままになったものもあるだろう。王墓予定地にしていたなら放置するわけにはいかないから、王命で王族を埋葬させたかもしれない。王族を先祖に持つ豪族も前方後円墳への埋葬が認められたかもしれない。
 溜め池で重要なことは保全である。葺石などにより、とくに池側の土の崩落を防止し、土砂の流れ込みを防ぎ、必要なら浚渫をする。池の補修や浚渫は水利用者の共同作業として定期または臨時に行われただろう。


⑹ ヤマトの象徴
 前方後円墳がヤマト王権の象徴のように言われているが、築造が始まった時期とヤマト王権の成立時期は合わないし、築造当初から王権の象徴にするためだったとは思われない。また、形状の理由について諸説あるが、これは築造の目的と場所と仕方によると思う。
 前方後円墳の中には大王(天皇)の墓があることは否定しないが、それは多数ある前方後円墳の一部である。王墓のみにある特徴の有無を調べる必要があるが、王墓に相応しいと判断してそこに葬った理由も推理する必要がある。
 墳丘の形そのものからは山と台をイメージすることができるが、王墓でない前方後円墳も同様である。方形部前方が掘られて完全な周濠がある前方後円墳は大王墓に限られない。元は場所的な理由で完全な周濠形式になったものと思われ、大王墓の特徴というわけではない。傾斜地であれば周濠は段差のある分割式になる。これでは貯水量が少なくなるから、前方部を大きく掘って周濠を大きくしたほうがよい。そういう巨大な山と周濠式溜め池がヤマトの象徴的な墳墓に採用されたのだろう。
 これが崇神天皇陵、景行天皇陵へと続き、象徴にとどまらず天の神に見せる形として全体の形を整えるようになったのではないか。
 ヤマトが邪馬台国に由来するとすれば、その葬送の仕方は山に葬るか塚を造って葬るのが習わしだったと思われる。中岡も巨大な塚である。死んだ王の魂はそこから天に還っていく。周濠式の溜め池は国の発展に大いに役立つとともに、墳墓にするときには神域を画するものとなる。円と方をつなげた形は天の神に見てもらうのによい形である。方形部は始祖が海上の倭に造ったクニを示し、多くの埴輪によってその功績を讃える。そういう思想があったとすれば方形部はむしろ幅広のほうがよい。人形埴輪は殉葬者に代えるものだとされているが、もしそうなら、上に並べるのではなく埋葬されるはずである。
 王家の墳墓形式が定められたかどうかはともかく、規模の違いはあるが似たものが造られた。規模は葬られた大王の功績、在位年数、大王の財力の大きさなどを基準にしたものか疑問である。生前の希望と王位を継承した側の考え方次第ではないかと思う。王と他の王族や豪族の墳墓の違いは、墳墓に飾られた物、副葬品、方形部の大きさ、周濠を含む全体のシンメトリーなどにあるのではないかと思う。
 以上はあくまでも想像である。