ヤマト王権の始まりの国 1

序章 疑問の始まり


卑弥弓呼という王
   卑弥呼の間違いではない。狗奴国の男王である。卑弥呼、邪馬台国とともに魏志倭人伝(『三国志』の『魏書』のうちの『東夷伝』倭人の条)に出てくる。卑弥呼は倭の女王であり、広く知られているが、卑弥弓呼や狗奴国は教科書には出てこない。
魏志倭人伝には女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼が不和で攻撃し合ったことが書かれているが、狗奴国や卑弥弓呼の素性は分からない。女王卑弥呼も素性分かっているわけではない。
 この時代の「歴史学」は検証困難な仮説や証明困難な推理と言ってもよいくらいであるから、狗奴国や卑弥弓呼だけを排除する理由はない。
 後漢書によれば、拘奴国は女王国から東に海を渡ること千余里のところにあり、倭種であるが女王に属していないとされる。
 魏志倭人伝によれば、狗奴国は女王に属する「その他の周辺国」の最後に登場する奴国の南にあるとされている。狗奴国の男王卑弥弓呼は倭女王卑弥呼と「素不和」であり、「相攻撃」した。卑弥呼が魏に戦いの状況を報告した様子からは、女王卑弥呼が不利となっていたことがうかがわれる。魏は卑弥呼に対し、魏の軍旗を授け、最終的には張政という使者を送った。張政は女王国に来て卑弥呼に「檄告諭」し、卑弥呼はその年かその翌年ころに死んだとされている。卑弥呼が死んだ後、男王が女王国の王になった。ところが、男王になると国中誅殺しあい、宗女壱與を女王に立てたことで争いは止んだ。なぜそういう事態になったのか。これは、卑弥弓呼と攻撃し合ったことと無関係とは思われない。
 卑弥弓呼は魏の後ろ盾を得ている女王卑弥呼を相手にして戦い、しかも優勢だった。その狗奴国はどんな国なのか。魏が卑弥弓呼に何か働きかけをしたとか狗奴国を滅ぼしたとかの記事はない。卑弥呼と卑弥弓呼の関係も、名と字の類似性も説明はない。その後、中国の史料から邪馬台国、狗奴国、卑弥呼、卑弥弓呼の名は消えている。
 魏が滅んだ後、それらの国や壱與の国がどうなったかは分からない。『梁書』倭伝には壱與の次には男王が立ったとされているが、壱與の後継なら倭国の王である。この男王が統治する倭国はヤマト王が支配する倭国ではないかと思う。
 日本の文献にはヒノミコ(日之皇子)というヒミコに似た言葉が出てくるが、卑弥呼や卑弥弓呼という名は登場しない。ヤマト(倭、夜摩苔、夜麻登など)という言葉は出てくるが、邪馬台国も狗奴国もその頃の倭国も出てこない。
 古事記や日本書紀は、天皇の王権が成立したのは東征(東行)の結果だとしている。天皇が公式の建国物語として書かせたものであるが、中国の史料と余りにも違っており、その頃の倭は日本のことではないかのようである。しかし、倭はヤマトと呼ばれ、後に大倭、日本へと国号を変えているから、日本のことに間違いない。
 天皇権力の国、大和朝廷の国がどのようにしてできたのかは重要な問題であるが、日本ではその歴史記録が消されてしまったかとしか言いようがない。しかし、記録はなくても建国の歴史はあった。存在する資料をもとにどのような建国史が想像されるかを考える必要がある。記紀も反面資料になるかもしれない。
 ところで、ヤマトについては後述するが、諸説あって曖昧である。記紀や万葉集では国の名というより都や畿内(の一地域)を指すと考えられるものがある。これを王権の名とする場合は、意味や定義を一義的にしなければならないはずであるが、それを曖昧にしたまま共通の歴史用語にしてよいのかどうか疑問がある。小国であったヤマトノクニの地域的権力であってもヤマト王の権力と言えるが、ヤマト王が倭を支配する王権となったときであろう。本稿では後者の意味で使うこととする。
 「天皇」(スメラミコト)は天の思想と結びつけられた倭(ヤマト)国の王の称号である。大王(オホキミ)とも呼ばれる。オホを偉大なという意味だと考えるか、諸国の王の上に立つ王の意味だと考えるかという問題はあるが、実態は変わらないだろう。しかし、小国時代のヤマト王にも天皇の称号の諡が贈られた可能性がある。そのため、倭国の王と天皇の称号を同じものとして扱わない。いつから一致するかは考察する必要がある。
 それはさておき、邪馬台国と狗奴国、卑弥呼と卑弥弓呼の関係性は日本の史料では全く分からない。しかし、東征による畿内での建国が意味するものは邪馬台国の東方拡大の拠点となる国造りではないかと思われる。初期の天皇の諡は建国の功績を反映している可能性がある。畿内に造った国が邪馬台国本国を凌ぐ勢力になってヤマトを名乗り、倭の王権が邪馬台国から畿内に移り、倭がヤマトと呼ばれるようになったかもしれないのである。
 倭国大乱から女王共立に至り、三世紀半ばには卑弥呼が卑弥弓呼と攻撃し合って魏が介入するまでに至り、卑弥呼が死んだという大事件があった。三世紀は畿内で大きな周濠を持つ纏向型墳丘墓や帆立貝型墳丘墓が造られる時期でもある。銅鐸が使われなくなり、方形周溝墓が造られなくなるという文化の変化もある。古い倭から新しい倭に変わる歴史の変動期と言ってもよい。
 そういう時代を考えながら、古事記や日本書紀に書かれていること、いないことを逆に書き足したり修正したりして物語を変えてみるとどうなるかという想像をしてみるのもよいかもしれない。

ヤマト王権の始まりの国 目次

                               原稿番号
序 疑問の始まり                      
 卑弥弓呼という王                      1―1
 三世紀半ばまでの倭                     1-2
  倭(ワ)
  倭国
  ヤマト
  二世紀までの倭
  二世紀から三世紀までの倭              
 狗奴国=邪馬台国子国=ヤマト王権仮説            1-3
第一章 狗奴国とは                      2―1
 一 狗奴国か拘奴国か
 二 「拘奴国」、「狗奴国」の読み方             
  ⑴ 拘奴、狗奴の発音
  ⑵ 拘(狗)は当て字である
  ⑶ 倭では何と呼ばれたか
 三 狗奴国は畿内にあった                  2-2
  ⑴ 魏志倭人伝の二つの奴国
  ⑵ 後漢書の記述と信用性
 四 狗奴国の王                       2-3
 五 拘(狗)奴国の素性と成立時期
 六 女王に属さずとは 
第二章 邪馬台国とは                     3-1
 一 大倭王が居し、卑弥呼が都する国
 二 邪馬台国の成立と名
  ⑴ 邪馬台の読み方と由来
  ⑵ 邪馬台という字の理由
  ⑶ ヤマダイとヤマト
 三 邪馬台国の位置                     3-2-1
  ⑴ 邪馬台国と狗奴国とヤマト王権の国
  ⑵ 魏志倭人伝に記された行程               3-2-2 
   ① 距離算出の基本
   ② 魏志倭人伝の距離の表現
   ③ 各国への行程
  ⑶ 漢鏡の地域分布と邪馬台国の位置            3-2-3
 四 邪馬台国畿内説の問題点                 3-3-1
  ⑴ 邪馬台国とヤマトの名の由来をどう語るか
  ⑵ 時代をどう見るか
  ⑶ 魏志倭人伝の行程をどう説明するか
  ⑷ 邪馬台国の都                     3-3-2
  ⑸ 倭国大乱は畿内から始まったのか
  ⑹ 畿内で倭国の運営と統治はできない
  ⑺ 北部九州に邪馬台国がなければどういう国があったのか
 五 豪族連合政権説の問題点
  ⑴ 邪馬台国畿内成立説との関係
  ⑵ 連合の曖昧さ
  ⑶ 連合説の根拠
  ⑷ 連合に加わった豪族
  ⑸ 連合の目的
  ⑹ 世襲制
  ⑺ 豪族連合政権の成立時期
 六 邪馬台国物語                      3-4
  ⑴ 国造りの場所
  ⑵ 邪馬台国勢力の由来
  ⑶ 国造り前史                      
  ⑷ 平地への進出と国造
   ① 二つの想像
   ② 想像を裏づけるもの
   ③ 記紀の解釈
第三章 倭国                         4-1
 一 大乱前の倭国はどのようにして成立したか
  ⑴ 倭国の成立とその意味
  ⑵ 倭奴国と倭国
 二 倭国の勢力範囲
 三 倭国大乱とは
  ⑴ 時期と原因
  ⑵ 倭国大乱と記紀
 五 女王共立                        4-2
  ⑴ なぜ女王共立という解決をしたのか
  ⑵ 「卑弥呼」とは
   ① 卑弥呼は邪馬台国の王位名である
   ② 壱與は第一順位の世継ぎのこと
  ⑶ 女王の権力はどういうものか


第四章 ヤマト建国                      5-1
 一 ヤマト王権成立の由来
  ⑴ 邪馬台国と東方平定
  ⑵ 女王時代の東方平定
  ⑶ 出発の時期
  ⑷ 東征と吉備の役割
 二 都(ミヤコ)造り                    5-2
  ⑴ ミヤとは
  ⑵ ミヤコとは
  ⑶ 王と宮の関係
  ⑷ 宮の名と場所
  ⑸ 王に私生活なし?
 三 遷宮はあったのか
第五章 東征の後                       6-1                                     
 一 畿内での国造り
 二 卑弥呼と卑弥弓呼の不和
  ⑴ 二百三十九年頃の卑弥呼
  ⑵ 卑弥呼と相攻撃した卑弥弓呼
  ⑶ 不和という言葉の意味 
  ⑷ 邪馬台国王族の関わり
  ⑸ 「素不和」とはどういう意味か。
  ⑹ 歴史的な意義
  ⑺ 周辺諸国の態度
 三 卑弥呼と卑弥弓呼の「相攻撃」              6-2
  ⑴ 原因
  ⑵ 戦いの経過
 四 卑弥呼の塚                       6-3
 五 邪馬台国滅亡の兆し
第六章 倭国の統治権の移譲                  7-1
 一 邪馬台国王家の没落と畿内王家の興隆
 二 畿内王家への倭国統治権の移譲
 三 邪馬台国王家のその後
 四 邪馬台国王家の記録の抹消とヤマト王権史の制作
第七章 畿内の発展をもたらしたもの              7-2
 一 畿内発展の条件と契機
 二 弥生時代の農耕集落の水利
  ⑴ 農耕集落の場所
  ⑵ 新しい集落
 三 弥生時代の墳墓と周濠
  ⑴ 方形周溝墓
  ⑵ 瀬田遺跡の円形周溝墓は墳墓なのか
  ⑶ 三世紀前半の周濠付き古墳
  ⑷ 周濠式の墳墓形式をもたらした勢力
  ⑸ 方形周溝墓はなぜ消えたか
第八章 古墳                         8-1
 一 纏向古墳群                       
  ⑴ 纏向型古墳
  ⑵ 周濠式池造りの工事方法
  ⑶ 墳墓造り
 二 箸墓古墳
  ⑴ 墳墓として築造されたのか
  ⑵ 被葬者
 三 山麓の前方後円墳
 四 周濠分割型前方後円墳                  8-2
 五 前方後円墳の地域的広がり
  ⑴ 地方の箸墓古墳型古墳
  ⑵ 前方後円墳の広がり
  ⑶ 前方後円墳の終焉 
  ⑷ 地方で造られ続けられた理由
 六 天皇陵と変化の理由                   8-3
  ⑴ 初期ヤマト王権の埋葬地   
  ⑵ 卑弥呼との不和の頃    
  ⑶ 墳墓形式の変化
  ⑷ 前方後円墳の継承
  ⑸ 池の保全と王墓予定地
  ⑹ ヤマトの象徴
第九章 初期天皇                       9ー1
 一 初期天皇の系譜は正しいか
  ⑴ 欠史八代説
  ⑵ 天皇の在位期間の記述
  ⑶ 在位期間の修正
  ⑷ 神々の系譜
 二 王と宮の名
  ⑴ 宮の名の由来をどう推理するか
  ⑵ 王の敬称の由来をどう推理するか
  ⑶ 諡
 三 初代から第十代天皇までの諡                9ー2
  ⑴ 神武天皇 
  ⑵ 綏靖天皇
  ⑶ 安寧天皇
  ⑷ 懿徳天皇                        9-3
  ⑸ 考昭天皇
  ⑹ 考安天皇
  ⑺ 孝霊天皇                        9-4
  ⑻ 孝元天皇
  ⑼ 開化天皇
  ⑽ 崇神天皇
   四 神の系譜が意味するもの                 9-5
  ⑴ 「日本」誕生からの正統性
  ⑵ 天照大御神(天照大神)という思想
  ⑶ ヤマト王権の神の系譜

ヤマト王権の始まりの国 3-2-1

二 邪馬台国の位置


⑴ 邪馬台国と狗奴国とヤマト王権の国
 邪馬台国と狗奴国という名は中国の史料から消えた。中国の史料には倭国はその後も登場するがヤマトと読める字はない。日本でも倭国がいつヤマトの国になったのか明確ではない。
 倭奴国から倭国への移行は覇権争いの結果である。その覇権争いに勝って倭国を造ったのは邪馬台国である。百七年に登場する「倭国」は倭の中の一国ではなく、倭の国々が広域的に統合した状態を一つの国としたものである。このことは第三章で述べる。
 邪馬台国畿内成立説では、畿内の邪馬台国の王が倭の国々を従えてヤマト王権の倭国を造ったということになるだろう。倭国大乱も、狗奴国王と不和で攻撃し合ったことも、女王が死んだのもヤマト王権での出来事になる。
 豪族連合のヤマト王権が三世紀に畿内で成立したと考える説では、九州の邪馬台国を滅ぼして倭国の統治権を得たという推理になると思われるが、九州の豪族も連合政権に加わったという説がある。しかし、有力な豪族の連合という言い方そのものが虚構であり、どのように西日本全体で合意が形成されていったのか理解できない。狗奴国とはどうなったのかも分からない。三世紀半ばには、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼が相攻撃し、結果として卑弥呼が死んだ出来事があった。そういう時期に九州を含めた豪族連合が成立するとは考えられない。
 これまで邪馬台国とヤマト王権の国の関係は論じられてきたが、狗奴国のことは無視されるに等しかった。しかし、狗奴国と卑弥弓呼の力を考えると、三つの国の関係を考えて位置も推理していくのが妥当ではないかと思う。
 ヤマト王権は畿内に成立したという前提で、組み合わせは次のイ説からホ説になる。


イ説 邪馬台国と狗奴国とヤマト王権はみな別の国だと考えるもの。
 邪馬台国の位置については九州説、出雲説、吉備説、四国説などがある。東征は否定される。狗奴国については東海地方に想定する説と熊野に想定する説などがある。邪馬台国は九州説が妥当であるが、九州から東に海を渡ると狗奴国があり、ヤマト王権の国もある。奴国の南に位置するという狗奴国の位置関係は全く定まらない。ヤマト王権の国を挟んで女王卑弥呼と攻撃し合ったわけではないだろう。


ロ説 邪馬台国とヤマト王権は同じで狗奴国が別の国だと考えるもの。
 邪馬台国畿内成立説、邪馬台国東遷説はこの立場になる。
東遷説は九州の邪馬台国が東遷してヤマト王権になったとする説であるが、東遷の時期、経過、九州の領地の帰趨などの問題がある。
 この説では、邪馬台国王の系譜とヤマト王権の系譜は一致するはずである。邪馬台国の成立と倭国の成立が同時ということはないだろうから、邪馬台国王、倭国王、天皇がどういう対応関係になるかを説明しなければならない。卑弥呼や壱與がどの天皇に相当するのか説明は無理である。
 狗奴国は畿外のどこかにあって邪馬台国に滅ぼされたことになるが、女王卑弥呼のときは逆の立場ではなかったか。


ハ説 ヤマト王権と狗奴国が同じで邪馬台国が別の国だと考えるもの。
 邪馬台国は九州に位置するが、邪馬台国による東征は否定される。狗奴国の王卑弥弓呼がヤマト王権の王で邪馬台国が別の国なら敵対関係にあったということになるかもしれない。後に滅ぼされたことにもなる。狗奴国が豪族連合政権の国とは言えない。
 邪馬台国が九州に位置し、東征は行っていないなら、ヤマト王権が東征を建国の物語にした理由が分からなくなる。
 これを架空の物語だと言わずに、九州のどこかにいた勢力が畿内に進出して国を造ったとする説がある。その一つが、熊本辺りにあった狗奴国が邪馬台国を滅ぼして北部九州を支配するとともに奈良に移動してヤマト王権になったという説である。
 しかし、倭国が最後の朝貢をしたのは二百六十六年であるから邪馬台国が滅んだのはその後でなければならない。この説には無理がある。
 そこで、邪馬台国の台頭に圧迫されて東へと移動し、畿内に国を造ったという説が考えられる。邪馬台国とは対立関係にあり、後にヤマト王権が邪馬台国を従えたことになる。対立する国なら名を隠す必要はないはずである。


ニ説 狗奴国は邪馬台国の別国(同族の国)でヤマト王権が別の国だと考えるもの。
 邪馬台国=狗奴国という説は見当たらないが、狗奴国を邪馬台国の別国とする説がある。狗奴国は畿外のどこかにあって位置は明らかにならない。九州から東に海を渡って畿内ではない地域ということになる。
 邪馬台国、狗奴国、倭国に属する国々を相手にヤマト王権が戦って勝ったのだろうか。そのような力を畿内でどうやって得たのか、疑問がある。女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼の不和と相攻撃という内紛に乗じたなら、魏志倭人伝に何らかの記述があるだろう。それとも邪馬台国、狗奴国、倭国に属する国々と合意して豪族連合政権を広げたと考えるのだろうか。


ホ説 狗奴国は邪馬台国の別国(子国)として畿内に成立し、後に狗奴国王が邪馬台国王家 から倭国の王位を移譲させヤマト王権が統治する倭国になったと考えるもの
 序章に掲げた仮説である。邪馬台国、狗奴国、ヤマト王権は始祖を同じくする同族で、倭国の王権は同族内で継承されたものと考える。
 九州の邪馬台国の東征によって畿内に狗奴国が成立し、後にその王卑弥弓呼が女王卑弥呼との不和により攻撃し合うまでになり、ついには邪馬台国王に倭国の王位を移譲させて倭国を統治するようになったという流れになる。この過程で狗奴国はヤマトノクニを名乗ることとなる。