ヤマト王権の始まりの国 3-1-2

3-2-1に変更

ヤマト王権の始まりの国 9-4

⑺ 第七代孝霊天皇
 孝安天皇の第二子で、倭風諡はオホヤマトネコヒコフトニ(古事記では「大倭根子日子賦斗邇」、日本書紀では「大日本根子彦太瓊」)ノミコトという。
 オホヤマトの意味やこの名が贈られた時期は第四代天皇と同じ推理になる。
 根子は何か。美称だという説があるが根拠は不明である。根を張った樹木というような解釈する向きもあるが、「根」はルーツとするという意味で、「子」は子孫という意味ではないかと思う。
 この想像から、「根子」にはヤマト王家の正統性に関わる主張が潜んでいるのではないかと思われてくる。オホヤマトのネのコのヒコは、偉大なヤマトの先祖(始祖)からの子孫である男子、つまり、正統な継承者という意味である。
 フトニの意味は不明であるが、日本書紀の「太瓊」は大きな玉、偉大な輝かしいものという意味を想像させる。そのような諡が贈られたのは、畿内のヤマト王家が倭国を統治すべきだと主張したからかもしれない。
 宮は「黒田廬戸宮」で、田原本町黒田にあったとされる。それまでと場所に変化がある。廬は小屋ではなく軍営地のことである。戸は門のことだろうか。磯城一帯の防衛のためにそこに陣地を築き、その中に宮を造ったのかもしれない。そうだとすると、女王や魏との緊張関係が残っていて、畿内王家は軍事的勢力拡大を進めていた時代の王だった可能性がある。
 兄に大吉備諸進命がおり、子に大吉備津日子命(日本書紀では吉備津彦命)と若日子建吉備津日子命(日本書紀では稚武彦命)がいる。いずれも官名だと考えられるが、これらは畿内の王家にとって吉備が重要な地で勢力下に置こうとしたことがうかがえる。孝霊天皇の時代に「卑弥呼と卑弥弓呼の相攻撃」があったとすれば、吉備国が卑弥呼側について畿内で反乱を起こすことがないように吉備を従え、かつ、卑弥呼を攻めるために軍を進めたかもしれない。
 孝霊天皇の妃「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(古事記)・倭國香媛(日本書紀)」、子「夜麻登登母母曾毘賣命(古事記)・倭迹々日百襲姫命(日本書紀)」、「倭飛羽矢若屋比賣(古事記)・倭迹々稚屋姫命(日本書紀)」の名も、孝霊天皇の諡と関係があるように思われる。


⑻ 第八代孝元天皇
 孝霊天皇の第一子で、倭風諡はオホヤマトネコヒコクニクル(古事記では「大倭根子日子國玖琉」、日本書紀では「大日本根子彦國牽」)ノミコトである。
 クニクルは出雲の国引き神話の「国来」のように、手繰り寄せる、巻き取るという意味かもしれない。ヤマトの始祖からの正統の子孫が、国を来させたとか国を引っ張ってきたという意味になる。「牽」という字はまさにそうであろう。魏が滅んだ後、倭国女王壱與に対して倭国の統治権を移すよう求めたのではないかという推理と重なってくる。
 古事記によれば、考元天皇のときに大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は播磨のヒ川の先にイワイベ(忌部又は斎部)をおいて播磨を道の入り口とし、吉備国を言向和したとしている。本来、吉備は同盟勢力であり、東征には吉備兵も参加し、畿内には吉備勢力もいる。
 吉備平定の理由は何か。卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合った際に、吉備国が卑弥呼側について畿内でも反乱を起こされるおそれがあるからそれを抑えるためという推理と、女王卑弥呼が死んで男王が立ち国中誅殺し合ったときのことだという推理と、壱與が女王に就いて吉備で女王派が反乱を起こしたという推理が考えられる。壱與の時代に入ってのことではないかと思う。どちらにしてもこの頃は邪馬台国の子国を脱して狗奴国という呼称も消滅したと思われる。
 宮の「軽之堺原宮」(古事記)、「境原宮」(日本書紀)は同じである。牟佐坐神社の東側川向いにあったとされている。
 在位期間は短かったようであるが、先王の在位が長かったとすればおかしくはない。剣池の中岡に葬ったというのは新しい方式である。自分の墳墓として指定したとすれば、その地に周濠式の溜め池を造らせ、橿原一帯の水田を広げただけでなく、死後守護するという気持ちがあったのかもしれない。
 ところで、第五代から第八代まで「孝」の字が漢風諡に用いられている。これは何を意味するのだろうか。孝は親に子が仕えることを示す字である。子国の時代の王だったことを示す字かもしれない。しかし、それは和風諡の「大倭」、「大日本」とそぐわない。親は祖のことであり、邪馬台国の祖神に忠実であったことを讃える意味が込められたのではないかと思われる。当時の倭国は女王統治で、邪馬台国は東方・北方を平定して倭を統一することに消極的で、それが祖神の思想に反しているという主張をしたことを讃えて諡にしたのではないかと想像される。


⑼ 第九代開化天皇
 孝元天皇の第三子である。倭風諡はワカヤマトネコヒコオホヒヒ(古事記では「若倭根子日子大毘毘」、日本書紀では「稚日本根子彦大日々」)ノミコトである。
 ワカを新しいという意味にとらえれば、ワカヤマトのネのコは新生ヤマトの始祖からの正統の子孫という意味になりうる。「開化」という漢風諡は新生ヤマトを想像させるが、これから発展する、成熟するということだろう。
 オホヒヒノミコトは日を重ねているが、偉大な日の神の日之御子という意味ではないかと思う。女王壱與に対し王権の継承を認めさせたことで、偉大な日の神の王権を畿内のヤマトに統一させることに成功した功績を示すものという想像もできる。
 倭国の統治権の移譲は、次王のときにされたと思われる。
 宮は「春日伊邪河宮(古事記)・春日率川宮(日本書紀)」である。字は違うが同じ宮だろう。春日は地名である。
 「率川」はイサガワと読まれて地名になっている。その読み方が通常ではないのは磐余と同じで、功績を字にして呼び方は従来どおりにしたというものかもしれない。場所は、川を率いるという字の感じから治水事業が行ったところだと推理するのが妥当かもしれない。
 奈良平野北部は既にヤマト王家が支配していたと考えられる。いつ頃から支配していたかは明らかではないが、山城、大津、彦根方面から東方・北方へと勢力を広げるうえで畿内の拠点になる。とくに彦根の鉄器製造所の支配、運営は経済、軍事両面にわたって重要だったと思われる。


⑽ 第十代崇神天皇
 倭風諡はミマキイリヒコイニエ(古事記では「御眞木入日子印惠」、日本書紀では「御間城入彦五十瓊」)ノミコトである。第五代天皇は「御眞津」の名があり、キとツの違いはあるが「御眞」は同じ意味だと思われる。津は都と同義で、城は城柵で囲まれた宮殿を指すのではないかと思う。
 これについて任那のミマと同じだとする説があるが、字からすれば、ミマキは神の真の城、又は神の間のある城と読むこともでき、神殿を想像させる。始祖からの正統性の意味も含まれている。ミマキイリというのは、大王となって神を祀る宮殿に入ったという意味だろうか。「崇神」という漢風諡もこれと関係があると思われる。
 イニエノミコトの意味はよく分からないが重要な意味があるはずである。日本書紀のほうは読み方より字に意味がある。瓊は玉(ギョク)であり、五十の国を治める大王を示すものではないだろうか。五十というのは実数ではなく、倭の小国の数を表現したもので、倭国の王という意味ではなかろうか。
 崇神天皇は、古事記では「所知初國之御眞木天皇」とも呼ばれ、日本書紀では「御肇国天皇」とも呼ばれている。初や肇は国を形容しており、どちらも始まりという意味である。御肇国は神が興した国とも読める。畿内王家が倭国の王権を継承したときの天皇が崇神天皇であったので、初国の天皇とか御肇国天皇と呼ばれたのではないかと想像される。国は畿内のヤマトノクニではなく倭国である。
 ところが、古事記には「爾天下太平人民富榮於是初令貢男弓端之調女手末之調故稱其御世謂所知初國之御眞木天皇也」とあり、日本書紀にはさまざまな功績が書かれたうえで「天下大平矣故稱謂御肇國天皇也」とある。初國や御肇国の諡の由来が天下を豊かにし太平にした功績に対するもののように読める。しかし、天下を太平にし、産業を発展させ、人々を豊かにさせたという功績は崇神天皇だけではない。
 国家体制を初めて整えたという意味だとする見解があるが、神武天皇が倭国を造ったという前提であろう。日本書紀には、神武天皇を「始馭天下之天皇」としているから、天下を倭国のことだと考えるのかもしれない。しかし、この諡には国の字は出てこない。古事記にはこのような別名はない。
 始馭天下之天皇は、後世において神武天皇を初代天皇とした際に、倭国を支配したヤマトの始祖という意味で言われた名だと思われる。諡の候補だったかもしれない。ところが、神武天皇を倭国の初代大王としたため、崇神天皇は第十代となり、「所知初國之御眞木天皇」、「御肇国天皇」の意味づけを変えて記録に残したのではないかと思われる。
 「師木水垣宮」(古事記)、「磯城瑞籬宮」(日本書紀)は同じものである。宮の場所は磯城であるが、磯城は極めて広く、特定は困難である。「水垣」は環濠や周濠のことかもしれない。天理市渋谷にあったとされている。

ヤマト王権の始まりの国 9-3

⑷ 第四代懿徳天皇
 安寧天皇の第二子で、倭風諡はオホヤマトヒコスキトモ(古事記では「大倭日子鉏友」、日本書紀では「大日本彦耜友」)ノミコトである。橿原の軽に宮があったが、当時その一帯がオホヤマトと呼ばれていたわけではない。国号を倭から大倭、日本へと変えた後も国内的にはヤマトであり、オホヤマトは偉大なヤマトという意味だろう。大日本帝国と同じ発想かもしれない。倭や日本という名が入る諡は子国の時代に贈られたものではない。
 仮に子国の時代の諡があったとすれば、スキトモに意味があると考えられる。
 スキトモという名は、その字からして、開墾して水田を広げようとした業績による諡かもしれない。鉏も耜も土を掘り起こす農業用の道具である。弥生時代晩期の遺跡から土木用と見られる木製品が見つかっているが、功績にするなら鉄製の道具であろう。もし、それを広めたとか改良させて農耕を楽にさせたのなら、死後、それに因む名が贈られたという想像もできる。漢風諡の懿徳は立派な徳という意味であり、民の生活を慮ったことがうかがわれる。
 先王の時代は磯城邑を平定した時代であり、軍事的に勢力を拡大してはその支配地での安寧、安泰を図っていったと思われる。支配を安定化するためには産業を発展させ民の生活を安泰にさせることが必要である。奈良平野の支配の安定化を図り、さらに支配を広げる必要がある。それを考えると、第三子とされる師木津日子命(磯城津彦尊)に磯城津に駐屯させ、懿徳天皇は奈良平野を一望できる南部の場所を拠点として全体を治めるという考えだったのかもしれない。
 軽の「境岡宮」(古事記)、「曲峡宮」(日本書紀)の所在は橿原の南部の大軽町であるとされる。境岡は土地を分け隔てる岡の頂上のことである。日本書紀の「曲峡」はマガリオと読まれている。峡は山と山に挟まれた地域を指すが、オが尾に由来する地形だとすると、谷の尾のことだろうか。伝承では岡寺駅付近とされる。見瀬近隣公園がある山と牟佐坐神社がある山の間に高取川の曲がった流れがあるので、その辺りの山の上にあったのかもしれない。


⑸ 第五代孝昭天皇
 懿徳天皇の第一子で、倭風諡はミマツヒコカエシネ(古事記では「御眞津日子訶惠志 泥」、日本書紀では「観松彦香殖稲」)ノミコトである。この頃には中部地方に進出して支配を広げており、尾張から妻を娶っている。
 ミマツの意味は不明である。日本書紀は字に諡の意味を持たせているのではないかと考えられるが、観松の意味は分からない。松を観るという意味ではないだろう。
 字という点では、古事記のほうが意味あるものかもしれない。「御」という字をミと読むときは天皇に関わるもので、そのミは神のことでもあると思われる。「神」を「御」に置き換えたという推理である。「御眞津」という字から、神の(国の)真の中心地という想像もできる。崇神天皇には「御眞木」という字が用いられているのも同様だろう。この「津」は奈良平野の特定の地域ではなく、中部地方にも進出したことから、奈良の地が倭国の中心地になるようにしたことを功績を諡にしたのではないかと思われる。「観松彦」は、松が生える日本列島を治める王という意味があるのかもしれない。
 とするとカエシネの意味が重要になる。
 日本書紀の諡は字に意味があるとすれば、「香殖稲」という字からイメージできるのは、香ってくるほど多くの稲が植えられている光景である。水田が広がり豊かになり、国力も大きくなったことが国の中心地を奈良に遷すべきだという主張につながった可能性があるというのは飛躍しすぎかもしれない。
 古事記の「訶」という字は叱る、励ますという意味がある。しかし、エシネの意味が分からない。返し泥や返し根なら耕起または開墾のイメージである。水田耕起は鋤を使って行われていただろうから、カエシネは開墾のことだと言えないこともない。訶と返し根を掛けて、開墾を奨励した意味だという想像もちょっと苦しいが、開墾の結果を想像すれば「香殖稲」のイメージにつながる。これには池造りなどにより水利を図ることが必要になる。
 宮は「葛城掖上宮」(古事記)、「掖上池心宮」(日本書紀)である。これは同じものだと思われる。ワキカミは地名になっているが、「掖」は助けるという意味がある。上は神や統治者につながる字である。池を造って民を助けた王という意味かもしれない。カエシネという名の解釈とつながってくる。
 日本書紀では「池心」が加わる。池の中心という意味だとすれば、環濠または周濠に囲まれた中岡の上に宮を造った可能性がある。王にとっての中岡は墳墓候補地ではなく宮や城の候補地だったのかもしれない。宮があったとすれば何らかの遺物が出てくる可能性があるが、墳墓として改装されたかもしれない。
 掖上は現在の御所にある。御所はゴセと読まれており、橿原から遠くはなく、王族が宮を造ったとしても不思議ではない。ただし、記紀には宮の名は書かれているがゴセ、御所を想像させる地名は出てこない。当時は葛城邑の一部だったと思われる。
 ゴセの由来は明らかではなく、いつごろからゴセと呼ばれるようになったのかも明らかではない。ゴセを五瀬の意味だとする説があるが、五をゴと読むのは音読みである。五つの瀬が集まるところという意味ならイツセになる。
 御所の南に巨勢山があり、古瀬という地名があるが、そのコセと関係がありそうである。コセは子所であってコはミヤコのコと同じと考えれば、ミヤのコがある所をコセと呼び、ゴセに訛り御所と表記されるようになったのかもしれない。セを所と表記するのは膳所と同じである。


⑹ 第六代孝安天皇
 孝昭天皇の第二王子で、倭風諡はオホヤマトタラシヒコクニオシヒト(古事記では「大倭帶日子國押人」、日本書紀では「日本足彦國押人」)ノミコトである。大倭や日本は、国号である。日本をオホヤマトと読むのは大倭と同じ読みにするためであろうが、オホは偉大なという意味だとするのが妥当である。
 帯は足の借字だという説があるが、タラシは垂らしで、恵みを広く与えること、勢力を広げることを意味するのではないかと思われる。
 国押人という字は古事記と日本書紀とで同じであるが、古事記には「国忍人」という字もある。国は倭国のことであろう。国押人は、勢力の広がりを背景に畿内に倭国の都を遷すことを主張した人々(集団)のことで、それを率いた王への諡ではないかと思われる。
 宮は「室秋津島宮」で、これも御所にある。御所全体の水利のために南部の山麓に池を造り、その山の上に宮を造った可能性がある。秋津島はイザナギノカミとイザナミノカミが生んだ「大倭秋津島」と同じなら本州のことになるかもしれないが、室が地名であるなら、「秋津島」は地名としての本州のことではなく、室のトンボが舞う島という意味合いであろう。日本書紀では神武天皇の掖上巡幸の際に「秋津洲」という名が出てくる。これが室秋津島の由来とされていると思われる。