ヤマト王権の始まりの国 1-3

季節来遊人

国造りとは


国のない地域を領地として併合した際、王が直接統治するのではなく、王族に治めさせる新たな国を造ることも考えられる。本国と一体で名も同じであるが、別の国であり分国ということになる。国と呼ぶのは武力を背景に領土領民を治めている王がいるからである。国とは何かという考え方の問題でもある。

クニは君、郡に由来し、境界で画された一定地域を指す言葉として使われたと考えられる。ムラは境界によって画する概念ではないが、他のムラと隣接して境界で画する地域になればクニ(君、郡)と呼ばれることにもなる。クニは領地の大小に関係なく成立する。

境界は支配領域を明確にするためである。そこには支配する者がいて、支配を維持するための武力などの手段も持っている。その支配者がクニヌシであり、統治をするのが王である。オホクニヌシは自ら治める国の王であるとともに他の国々の王を支配する王である。

このように考えると、クニの本質は支配者の登場にある。主は支配者のことだとすれば、クニヌシは継続的に一定地域(領地)とその地域にいる人々(領民)を支配する者だと言える。王は中国風の言い方である。支配は、武力などの強制力によって従わせることである。そのための組織も必要になる。しかし、支配するだけでは被支配者らは離反する。彼らを民とし、その利益になるよう治めることが必要になる。それによって支配者は統治者になれる。

武力などで占領した無主の地域は占領国の王の領地に併合される。王を降伏させて排除しその国を併合する場合も同様である。併合した地域は、臣官に統治させるのが一般的だろうが、別の王族に統治を任せることも考えられる。この場合、その領地と領民を治める王がおり、外形上は独立した国の王と同じである。ただし、親国が領地に造った国を治める王という立場になる。親国の王がヒミコ(卑弥呼)と呼ばれれば子国の王はヒミコのコ(卑弥弓呼)と呼ばれ、先祖を祀るミヤがミヤのコとして造られるのもおかしくはない。

後漢書も魏志倭人伝も拘奴国(狗奴国)を特別視しているのは、倭の権力に重要な位置を占めていたからではないかと思われる。

親子関係にある国はともに王族が統治するが、常に子は親に従うというわけではない。対立も起きる。卑弥呼と卑弥弓呼の不和・相攻撃はそういうものではなかったかと思う。

その後の歴史は邪馬台国の倭国からヤマトの倭国へと変わるが、邪馬台国や拘奴国(狗奴国)の名が消えたのは、邪馬台国の名が消され、併せて子国という言葉もなくなったからである。しかし、対外的には政変などの事件として知られることにならなかったのではないかと思われる。

これに対して、「不属女王」、「狗奴」、「素不和」、「相攻撃」などの字や文言のために、狗奴国王は女王卑弥呼と敵対関係にあって戦った相手だったから王と国の名が知られていたと考えられているようである。しかし、後漢書の「雖皆倭種而不属女王」は敵対関係を示すものではない。「素不和」を元から敵対関係にあったことと解釈されているが、拘奴国が周辺国の奴国を脅かしていたような記述はない。むしろ、「不和」という言葉と千余里も離れた地の拘奴国の王と官の名が記されていることを考えると、逆に密接な関係、和するべき一体関係が求められる立場にあることを示していると思う。


記紀をどう読むか

記紀の東征は九州からの軍の出征と畿内侵攻そして天皇統治の始まりという過程を記した物語である。神武天皇が即位した場所は畿内の橿原であるが、新しく国を造ったにしては国号は書かれていない。

この東征物語は史実を反映したものかどうかが天皇統治の倭国成立における最大の問題である。

記紀に寄れば、日向を出発し、宇佐や岡田宮又は岡水門に寄り、九州を出た後は国名も地名も書いているから、九州と畿内の国の名を書かないのは意図的である。東征による占領地に国を造ったなら、本国から見れば自国の一部であり、その国の名は本国と同じになる。どちらかを書くというわけにはいかない。

九州の国は邪馬台国しか考えられない。記紀には邪馬台国も女王卑弥呼も登場しない。それらの名を隠した結果だと考えられる。

記紀が東征をヤマトの建国と天皇家の歴史の始まりだとしているなら、東征によって国を建てヤマトと名づけたとするだろうが、いきなりヤマト建国とは書けなかった事情があった。

邪馬台国が東征を行ったとすれば、畿内にできたのは邪馬台国の領地としての国である。畿内の領地も邪馬台国の一部であり、他の国名になるわけではない。ただし、本国が畿内の国を呼ぶときの名があったはずである。その呼称が中国に伝えられた可能性がある。

ヤマタイとヤマトが国の名として同時に存在することはない。ヤマタイもヤマトも地形や地域の特徴に由来するものかもしれないが、それを国の名として使えば別々の国とみなされるから、邪馬台国の領地の国である限り固有の国名はない。畿内の国は本国からはコ(子)のクニと呼ばれていたのではないかと思われる。

ところが、倭国を統治する王が邪馬台国王から畿内の王に変わり、畿内の国をヤマトと呼ぶようになった。この倭国王権の引継ぎが正常なものではなかったため、東征の前史とヤマタイ国の名も消して、ヤマトの倭国建設の物語を作ったのではないかと思う。従って、天皇の王統が倭国を統治するようになった経緯を探らなければならない。

これは記紀をどう読むべきかという問題と関係してくる。記紀は天皇がヤマトの建国と天皇家の成立に関わる歴史書として作らせた。そのことの意味を考える必要がある。


狗奴国は邪馬台国の子国という仮説

ということで、邪馬台国の東征により畿内にコのクニが成立したと仮定して、次のような歴史の流れを想像してみた。

① 九州に成立した邪馬台国が東方平定のために畿内の占領地にコのクニ(子国)を造 った。これが拘奴国、狗奴国である。

② 狗奴国王である卑弥呼は、子国の王の称号であるヒノミコ(卑弥呼)のコ(子)の音訳である。

③ 卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合ったのは女王位継承の是非をめぐる王族内の争いであり、卑弥呼の死後男王が立ったが邪馬台国は内紛になり、壱與が女王となった。

④ 子国は畿内から倭の諸地域へと勢力を強め、邪馬台国王家と二重権力状態になった。

⑤ 卑弥弓呼は女王壱與を退位させ、ヒノミコとして倭国を統治することを宣言し、これに従わない国や勢力の征討を開始した。

⑥ 畿内の国は邪馬台国の子国ではなくなり、狗奴国という名も消えた。畿内の国は奈良盆地という山に閉ざされた地形からヤマトと呼ばれた。

⑦ ヤマト国の王は抵抗する国や勢力を平定し、倭国の王権を確立していき、倭国はヤマトと呼ばれるようになった。

⑧ 後にヤマトの国の始祖に遡って天皇という称号が贈られた。

ヤマト王権の始まりの国 6-3

季節来遊人

六 豪族連合王権(政権)説の問題点

 

⑴   邪馬台国畿内成立説との関係

 豪族連合王権(政権)は邪馬台国畿内成立説とどういう関係になるのかという問題である。どちらも畿内を拠点国とする。

豪族連合王権説は畿内のヤマト王と地方の有力豪族が連合して倭国の権力をつくったとして、これをヤマト王権と呼ぶ。畿内のヤマト王はどういう権力なのか、地方の有力豪族がどの範囲まで広がればヤマト王権成立と言えるのか、それはいつ頃のことかという問題が出てくる。

 畿内レベルで豪族連合王権と呼び全国レベルに至って豪族連合政権という呼称に変える説もある。王権は王が政治権力を一身に握っていることを指すから、畿内の豪族を統率したヤマト国の王が他国の王(豪族)と連合して倭国政権をつくったというのであれば言葉としては分かるが、畿内の権力も豪族連合でヤマト王権とヤマト政権とに使い分けるのは分かり難い。

 この問題は後に考えることとして、どの考え方も畿内にヤマト王の国ができたことが前提となる。邪馬台国畿内成立説ではヤマト王は邪馬台国王のことになり、倭国の王権の性格については豪族連合王権(政権)説とリンクしうる。ただし、邪馬台国の王が諸国の王と連合して王権(政権)をつくったのかどうかは別問題であり、倭の国や政治権力の実体を探ってそれ講学上何と呼ぶのがよいかを考える必要がある。

 ヤマト王が地方の王(首長、豪族)らを従えてヤマト王が倭国を支配する中央権力となる王権をつくったのであれば、ヤマト王の諸国王統率王権とでも呼ぶべきだろう。これを連合王権(政権)という表現は後に検討するが妥当でない。

 主従・支配関係ではなく対等の立場で連合したのであれば、「王権」ではなくヤマト王と諸国王の連合政権と言うべきであろう。これが本来の「豪族連合王権」説なら、豪族連合政権に読み替えるのが妥当だと思う。しかし、豪族連合王権という呼び方がされるので、豪族連合王権(政権)とし、以下では略して「豪族連合」とする。

 豪族連合のヤマト王権が成立したのは三世紀だとされるが、その半ば、後半、末と説は分かれる。この頃、倭は邪馬台国の女王卑弥呼と壱與の時代である。三世紀半ばは女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼が攻撃し合い、魏が介入した後卑弥呼は死んだ。その卑弥呼が豪族連合をつくったり加わったりしたとは考えられない。それ以前は伊都国に一大率を置いて諸国を監視していた。壱與は十三歳で女王になってその時期に豪族連合をつくる力はない。三世紀後半には女王の後ろ盾だった魏が滅んでいる。

 従って、邪馬台国畿内成立説では、邪馬台国王が有力豪族と連合してヤマト王権をつくったとすれば、三世紀半ばより前のことになるが、服属する国を多く持ち、親魏倭王の称号を得た女王卑弥呼が、豪族連合をつくったとは考えられない。

 他方、邪馬台国が九州にありその王が豪族連合に加わった有力豪族の一つであったとすれば、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼との争いはヤマト王権に影響する。狗奴国はどこにあったのか疑問は増えてくる。

⑵ 「連合」の曖昧さ

 王権とは王制の権力であり、王という一人の支配・統治者による統治体制である。連合の意味は異なる勢力がある目的のため対等関係で合同することである。その合同だけを連合という意味はない。通常考えられる連合は、構成員が対等の関係で審議・決定に参加することを含むが、豪族連合はどういう連合が想定されているのか。

 地方の王や豪族に対等の権限を認め合議する体制は作れないだろう。また、組織体の中で地位・立場の交代可能性もない場合は連合とは言えない。王制であるなら、豪族は決定権を持たず臣下として輔弼するだけの政治体制になる。その組織体の最終決定権限と執行権限が特定の王の家系の者に委ねられ、その地位が世襲されるのであれば連合とは言えない。

 連合は合意によるものである。力ずくで同意させられ、それも合意だというのは政治的主張でしかない。国としてまとまることの意味は、武力による強制、領土領民の確定と防衛、国力の強化のための領民の育成を統治者が行うことにある。これを豪族の合意によって決め、執行者を指名していたなら豪族連合だと認めてよいが、地方の豪族が合議に参加する体制が具体的に説明・証明できるとは思われない。歴史的には武力による統合が一般的である。

 これは畿内レベルでも同じである。散在する複数のムラの豪族が合意のうえで合同して王を立てて、その王にすべてのムラが従ったなら、不都合な王は交代させるだろう。統治には武力が必要で、最も強い武力を持った豪族が王になる。

 畿内に王権が成立するほど発展していたなら、河内や淀川水域は海運に必要不可欠であり、早々その地域を支配下に置いていたと考えられる。王や豪族の間で個別の合意や協定をすることはあっても、その履行を担保するものは武力である。強い武力を持てば対等の合意をするより従わせるという考え方になる。

 

⑵   「連合」説の根拠の非論理性

 豪族連合説は、前方後円墳など墳墓形式や埋葬法などが統一されたことをもって広域的に同一文化をもった王権(政権)が成立したとする。

 前方後円墳様式を「連合」の根拠にするなら、方形周溝墓という同一の墳墓形式が畿内のみならず東北にまで広がっていたことをどう考えるのだろうか。文化は権力の性格を判断する要素になるが、文化だけをもって権力の成立の根拠とすることはできない。

方形周溝墓を造って先祖を祀っていた豪族が、連合に参加したからといって、方形周溝墓を廃止して新たに前方後円墳様式の墳墓を造る理由にはならない。連合に参加しない豪族も方形周溝墓を止めたのなら別の理由である。方形周溝墓への水路を利用して周濠式の溜め池を掘り、その中岡を墳墓にして改葬したか、強制的に廃止させられたか、新しい文化をとり入れる気風があったかのどれかであろう。

 方形周溝墓に代わる墳墓形式の統一は一斉に行われたのではない。一世紀くらい併存した時代があるのは連合が広がったからではなく、新たな葬送形式や文化をもたらした勢力が台頭して方形周溝墓を造る文化を持っていた人々が新しい文化をとり入れ、徐々に変わっていったからだと考えるのが妥当ではないかと思う。

なお、王宮が畿内の各地に移ったことをもって、畿内で豪族連合が成立したという主張がある。しかし、これは根拠にはならない。宮は王の祖霊を祀るところであり、祀りごとをどこで行うかは王の意思による。宮殿の規模や婚姻の形態とも関係するが、通常は居所で祀りごとをするだろう。よって、臣下が謁見して指揮を仰ぐ場所は、宮のある王の居所になる。王宮が移るのは、居所が変わるからである。

豪族も同様で、自ら定めた場所で祖霊を祀るだろうが、その祀り方は先祖から受け継いだもので、他の豪族らと協議して統一するようなものではない。王墓が各地にあるのもそれぞれの王又は王位継承者の意向にもとづくものであろうから、豪族連合の根拠にはならない。豪族の墓はそれぞれの伝統に則ったものになるだろう。

 

⑶   連合に加わった豪族が分からない豪族連合?

 連合に加わった豪族というのがどこの豪族のことか、全国レベルから畿内のどの範囲を想定するかによる。しかも、豪族という言い方は、既に臣下のような扱いである。漢に朝貢していた三十ケ国にはそれぞれ王がいたとされるが、地方の有力豪族というのがその王を含めているのかも明らかでない。魏志倭人伝に登場する国々は女王卑弥呼に服属している国として紹介されている。「属」を連合の意味だとするのは、前述の一大率を置いたこととそぐわない。

 畿内や河内を含めた豪族としては、王の血縁氏族、姻族その他の「有力氏族」が考えられる。三世紀初め頃まで、当時の豪族はどこかの地域を領有し、ヤマト王の血縁氏族や姻族も畿内のどこかを領有していたことになる。しかし、二世紀頃までの畿内は、縄文時代から集落が散在する状態で形成され、互いに干渉しないようにしたかもしれない。環濠も造って防衛していたのは対立があったことを推測させる。大集落にどのような豪族がいたかは不明である。葛城、生駒辺りは河内、瀬戸内海につながる重要地域であり、その地の豪族は畿内中心部の豪族と連合する必要があったか疑わしい。

記紀は豪族連合説ではなく、畿内の豪族は従った者と討たれた者に分かれ、合意による統治は想定していない。

 畿内の豪族といっても、当時の史料はない。奈良平野の東部には大三輪氏という豪族が住んでいたとされるが、纏向遺跡には大規模建築物の跡があり、また、吉備の遺物が発見されているから吉備系の豪族がいた可能性がある。方形周溝墓のある集落跡はヤマト系ではなかっただろう。

 穂積臣と物部連となる豪族はニギハヤヒノミコトの子孫を名乗っている。穂積氏は山辺郡の出身だとされている。物部氏は後にヤマト王権の軍事部門に携わっていた。この二豪族が元々どこにいたかは不明である。

武内宿禰の子孫を名乗る豪族は後世の豪族ということになる。

ということで、連合に合意した豪族が不明なままでは連合政権をつくったという主張は一つの物語でしかない。

 

⑸ 「連合」の目的

 複数の豪族が合同して一つの権力組織をつくるには、それを必要とするきっかけがあるはずである。これには各豪族の治める土地と豪族の関係を考えなければならないが、そもそも豪族の名も場所も分からない。従って連合の地域的範囲も分からず、目的を探ることもできない。

 交易や交流には連合は必要なく、提携で足る。

 農耕集落にとって水利は重要であるが、それぞれの水利系での問題であり、畿内全体で争ったり合意したりするものではない。例えば大和川の水量が減り、下流域で水不足が生じた場合、上流域の農耕集落も水が不足気味であっても水争いをせずに何らかの合意ができるだろうか。連合政権ができていれば争いは起こらないというものではない。

 水路、溜め池などが広く作られる前、水利の悪い不毛の土地が多かったなら、集落は水利のよい場所を選んで広く分散していたかもしれない。分散した集落の豪族が連合する目的は考えづらい。

 野盗の類への防衛であればムラやクニごとの対応になる。あるいは近隣のムラ同士が互いに支援して撃退することは考えられる。これらは地域限定になる。ムラやクニにとって、広域的に連合しても支援を得られないなら、必要性を感じないだろう。

 考えられるのは、武力による強制力を統一させる必要がある場合である。強制力を持たなければ政権として意味がない。

 一つは畿内内部の争いを止め、広域的に単一秩序をつくる場合であるが、三世紀前半に畿内で広く争いが起きて講和、連合へと進んだような事件は見当たらない。

 倭国大乱をそれらの契機となった事件として見る向きがあるかもしれないが、豪族連合成立と目されている時代と違う。女王を共立したことをもって豪族連合というのかもしれないが、女王が諸国を服属させ、一大率を置いて諸国を監視する体制は連合ではない。

 もう一つは外部から畿内を脅かすような大掛かりな侵略があり、それに対して防衛する場合である。当時の戦争は、相手の王と王族を捕らえ、又は殺害することで目的を達するということが多かっただろうから、畿内防衛は王と王族を守ることが主眼となる。都の防衛が主であり、必ずしも畿内全体を防備することにはならない。豪族連合が政権の長の防備をし、豪族とその集落を防備するのはそれぞれの豪族に任せるということなら王制の場合と同じである。畿内防衛は豪族連合として行うのではなく、各豪族が軍を持ち、それぞれの地で防衛することになるだろう。しかし、三世紀前半に畿内が大掛かりな侵攻を受けたという形跡はない。

 三世紀中頃は、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼が相攻撃した時期である。卑弥呼は死に、後に壱與が女王となる。邪馬台国も倭国もこれより以前に成立している。この事件により豪族連合ができるはずはない。

 

⑹ 世襲制との関係

 豪族の中には領地と武力を持ち、王族を支援して王位争いに加わったものがあるが、豪族そのものが王になろうとした事例はこの時代には見当たらない。豪族はあくまでも臣下という立場を超えることはなく、王の姻戚関係になることで地位と利益を得ようした。

 豪族合議制のもとに王がその決定に従うというものであれば豪族連合と言えるだろうが、豪族は建議や進言などをするが決定権は王だけにあるというのであれば、豪族連合と呼ぶべきものではない。しかも、豪族が地方の国の王のことであれば、中央王権に関わるのは無理である。

 世襲は先代の全てをそのまま引き継いで替わることである。各一族内部の問題で、その血筋の者が順位に従って継承する私的なものであるが、継承の対象には地位もある。地位は公的私的の区別なく継承されるが、公的社会的な地位が世襲には重要である。豪族の場合、ムラやクニを治める地位は私的な財産の延長である。その子孫が財産の継承に伴って治める地位も継承することは当然の規範のごとく考えられていたと思われる。

 しかし、王位という国を治める地位は、王家の財産の継承に伴いその管理運営をするという意味での地位ではなく、それを超えた国に関わる独立した地位である。国の財産は王家の財産と同じではない。領土領民も軍も王家の私的な財産ではなく、命令し強制する権限と地位が継承の対象となる。その権限と地位は公的なもので、建前としては私的に勝手な使い方をすることは許されない。

 王位を世襲としたことで、豪族間での王位の交代可能性はなくなり、王は豪族らの上に立つものになる。その権力は臣下の関わり方の違いはあるが中央集権制になっていく。これを王と豪族の連合政権と呼ぶのはおかしい。

 邪馬台国の王の地位は世襲制であっただろう。王権に関わる豪族も世襲である。王と豪族の連合ではなく、豪族が輔弼する王制だったと考えられる。

 

⑺ 豪族連合のヤマト王権成立時期

 畿内、畿内と周辺国、倭全体という統治の広がりにおいて、どの範囲、どの段階で連合政権が成立したとするのか。これもはっきりしない。

まず、豪族連合の成立時期を三世紀と想定する考え方があるが、魏志倭人伝の国々のどれに当たるのか、あるいは含まれていないのか不明である。その時期に畿内に限定して豪族連合のヤマト王権ができたとするのは倭国の状況から見てかなり遅すぎる。畿内と河内という範囲も狭く、少なくとも吉備との関係はできている。九州との関係も十分考えられる。それが個別の交易や民の移住の容認にとどまるなら、放任しておけばよい。

 政治的な合意をするなら放任ではなく規制の合意である。また、互いに侵略しないとか、共同して侵攻するとか、防衛に協力し合うというのも典型的な政治的合意である。しかし、個別に合意や協定をしただけでは国としてまとまる政治的連合が成立したことにはならない。複数の国が合意のうえで一つにまとめて統治する機関をつくれば政治的連合と言える。

 畿内が広域的な統治の中心になるのは、三世紀半ばより後のことではないかと思う。それ以前の中心地は北部九州だったと考えられる。しかも政治的連合があったとしても、国々は対等ではなく、邪馬台国が支配する国だったと考えられる。大王は邪馬台国に居るという後漢書の記述の「大王」はそれを示すものである。最終決定権や命令権を持たず、合議の議長にすぎないなら王とは言わない。倭国統治の拠点を伊都国に置いて外交使節を受け容れたり、一大率を置いて各国を取り締まったりするのも王が決めることである。

次に、邪馬台国は畿内に成立したヤマト国であり豪族連合のヤマト王権をつくったという考え方ならどうなるか。

 これを倭奴国から引き継いだ倭国のことだと考えるなら、豪族連合は二世紀初め頃に成立し、ヤマト国は遅くとも一世紀には成立していたと考えることになるだろうが、二世紀初め頃に少数の将兵が畿内から九州に遠征して石鏃の弓矢、棍棒などで九州の倭奴国と戦ったとは思われない。


































































































































ヤマト王権の始まりの国 2-3

季節来遊人

六 拘奴国はどこにあったか


⑴ 魏志倭人伝が示す場所

 魏志倭人伝では狗奴国は周辺国として紹介されている奴国の南にあるとされる。

ところが、奴国は二つ出てくるため混乱がある。

 一つは、伊都国の次に紹介されている奴国である。官名も戸数も行程も書かれている。倭奴国の名残かもしれない。この奴国までが女王の境界だというのはおかしい。その次には東の不彌国が書かれ、南には水行二十日の位置にある投馬国、水行十日、陸行一月の位置にある邪馬台国のことが書かれている。南に狗奴国があるとは書かれていない。よって、この奴国の南に狗奴国があるという解釈はとれない。

 もう一つの奴国は、「その他の周辺国」として二十一の国が紹介された中の最後の国である。女王の境界の尽きるところである。周辺国は遠く離れていて国の詳細は分からないとされている。よって、名は同じであるが先の奴国とは別の国である。しかも、遠く離れているというのは九州地内ではないと思われる。狗奴国はその南にある。

 ところが、「其南」を邪馬台国の南のことだと解釈する説がある。女王国の北に周辺国があってその国々の説明があり、女王国の南に狗奴国があるという読み方をする。周辺国については詳細は分からないとしながら狗奴国については王や官の名が記され、卑弥呼と攻撃し合ったということで、周辺国とは違うと考えるのであろう。狗奴国が隣接国で漢の時代から争っていたのを「素不和」と考えるのかもしれない。しかし、卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合ったからといって隣接していることにはならない。後漢書の記述では東に海を渡ったところに拘奴国があるとされているから、女王国の南と読むのは妥当ではない。

 介入した張政は狗奴国がどこにあってどういう王がいるかは分かっていたはずである。その国の王への牽制も対抗措置もした様子がないのは隣接する敵対国ではないからだと思う。


⑵ 後漢書が示す場所と信用性

 後漢書には、倭国大乱と女王共立に続いて、女王国から東に海を渡ること千余里に狗奴国があり、皆倭種であるが女王に属さない(「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」)と書かれている。これは明帝の時代のことではなく、その後の後漢書などで追記されたものである。

 魏志倭人伝は、倭国大乱と女王共立に続いて、東に海を千余里渡ると倭種の国がある(「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」)という記述で、国の名は書いていない。「復」は、別のとか別にという意味で、「倭種」というのは、倭の国に分類される国の意味だと考えられる。韓に三種有りとして、馬韓、弁韓、辰韓の三国に分類されるのと同じである。「皆」というのは、他の国々を想定して、これもという意味合いに捉えればよいのではないかと思う。「拘奴国」は複数の国の集合体と考える主張があるかもしれないが、王と長官がいることから一国であると考えるべきである。

 つまり、「復有國皆倭種」」は、(女王国は)別に国を有しておりこれも倭国に含まれるという意味に読むのである。邪馬台国の別の国、子国のことである

 ところが、後漢書の拘奴国の位置は東に海を千余里渡ったところである。魏志倭人伝は「女王國東渡海」の先に邪馬台国の子国である狗奴国があると書いた際、後漢書の「女王國東渡海千餘里」のままでは船で一日という近い距離のため狗奴国と書くのに躊躇し「復有國」で済ませたのかもしれない。

 魏志倭人伝の視点からは「東度海千餘里至拘奴國」は范曄の間違いだということになるが、范曄が元にした古い後漢書などに拘奴国の位置がどう書いてあったかが問題である。書いてあったとすればその解釈の仕方も伝わっていたかもしれない。書いてなかった可能性も誤転記の可能性も否定できない。書いてなかったとすれば范曄はどのような意味で千余里と書いたのか。

 仮説による拘奴国は二世紀終り頃に畿内に成立している。後漢書は楽浪郡と邪馬台国との距離を一万二千里としているが、魏志倭人伝では、海路で合計一万余里と水行十日、陸行一月である。船で渡海する場合、里程で測ることはできないから、一日の行程を「千余里」とみなしたものと思われる。陸路では、徒歩での一日は日中の移動距離を想定して百里(約四十キロメートル)とみなしたと考えられる。陸沿いに進む場合の距離は、陸路の距離と大きく違ってはならないから、陸路に準じた距離が表示された可能性があるが、後漢書には水行という言葉はない。倭の使訳が邪馬台国から楽浪郡まで船で十二日かかったという説明をし、漢はそれを一万二千里と記録しただけかもしれない。

 しかし、九州から東に海を渡るというのは陸沿いである。海路一日なら四国の愛媛辺りまでが一日の距離であるが、陸沿いであるから陸路に準じた距離が優先されるだろう。陸路で五百キロメートル以上あり、軍の派遣などの実績から陸路の所要日数が十日余りだと分かっていたと思われる。陸路一日百余里の計算なら千余里の距離ということになる。つまり、後漢書の「東度海千余里」は水行又は陸路の十日に相当し、畿内との距離を指すものと考えることができる。


⑶ 仮説によれば

 仮説によるならば、邪馬台国が東方拡大の一環として子国を造った場所が拘奴国である。安芸、吉備、針間(播磨)、畿内、近江、尾張などが考えられるが、安芸、吉備、針間(播磨)には既に国があって、倭国成立後に従えていたと思われる。畿内にヤマトという国があってそれを平定したなら、ヤマトが後の倭国になることはない。畿内は広大でまとまった国はできていなかった可能性がある。だとすれば、畿内進攻は国を服属させるのではなく新たな国を造ることが目的となる。記紀の東征物語はこれを反映している可能性がある。

 当時の地形を考えれば、広い平野がある畿内が国造りの拠点に最も適している。大阪湾は内陸に入り込んで河内平野はまだ形成されていなかった可能性がある。農耕集落がそれなりにあって国造りの拠点とするのに相応しい地として畿内は知られていたと思われるが、集落が分散し国としてまとまっていないことが不思議に思われていたかもしれない。その理由は水利にあったと考えられる。