六 豪族連合王権(政権)説の問題点
⑴ 邪馬台国畿内成立説との関係
豪族連合王権(政権)は邪馬台国畿内成立説とどういう関係になるのかという問題である。どちらも畿内を拠点国とする。
豪族連合王権説は畿内のヤマト王と地方の有力豪族が連合して倭国の権力をつくったとして、これをヤマト王権と呼ぶ。畿内のヤマト王はどういう権力なのか、地方の有力豪族がどの範囲まで広がればヤマト王権成立と言えるのか、それはいつ頃のことかという問題が出てくる。
畿内レベルで豪族連合王権と呼び全国レベルに至って豪族連合政権という呼称に変える説もある。王権は王が政治権力を一身に握っていることを指すから、畿内の豪族を統率したヤマト国の王が他国の王(豪族)と連合して倭国政権をつくったというのであれば言葉としては分かるが、畿内の権力も豪族連合でヤマト王権とヤマト政権とに使い分けるのは分かり難い。
この問題は後に考えることとして、どの考え方も畿内にヤマト王の国ができたことが前提となる。邪馬台国畿内成立説ではヤマト王は邪馬台国王のことになり、倭国の王権の性格については豪族連合王権(政権)説とリンクしうる。ただし、邪馬台国の王が諸国の王と連合して王権(政権)をつくったのかどうかは別問題であり、倭の国や政治権力の実体を探ってそれ講学上何と呼ぶのがよいかを考える必要がある。
ヤマト王が地方の王(首長、豪族)らを従えてヤマト王が倭国を支配する中央権力となる王権をつくったのであれば、ヤマト王の諸国王統率王権とでも呼ぶべきだろう。これを連合王権(政権)という表現は後に検討するが妥当でない。
主従・支配関係ではなく対等の立場で連合したのであれば、「王権」ではなくヤマト王と諸国王の連合政権と言うべきであろう。これが本来の「豪族連合王権」説なら、豪族連合政権に読み替えるのが妥当だと思う。しかし、豪族連合王権という呼び方がされるので、豪族連合王権(政権)とし、以下では略して「豪族連合」とする。
豪族連合のヤマト王権が成立したのは三世紀だとされるが、その半ば、後半、末と説は分かれる。この頃、倭は邪馬台国の女王卑弥呼と壱與の時代である。三世紀半ばは女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼が攻撃し合い、魏が介入した後卑弥呼は死んだ。その卑弥呼が豪族連合をつくったり加わったりしたとは考えられない。それ以前は伊都国に一大率を置いて諸国を監視していた。壱與は十三歳で女王になってその時期に豪族連合をつくる力はない。三世紀後半には女王の後ろ盾だった魏が滅んでいる。
従って、邪馬台国畿内成立説では、邪馬台国王が有力豪族と連合してヤマト王権をつくったとすれば、三世紀半ばより前のことになるが、服属する国を多く持ち、親魏倭王の称号を得た女王卑弥呼が、豪族連合をつくったとは考えられない。
他方、邪馬台国が九州にありその王が豪族連合に加わった有力豪族の一つであったとすれば、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼との争いはヤマト王権に影響する。狗奴国はどこにあったのか疑問は増えてくる。
⑵ 「連合」の曖昧さ
王権とは王制の権力であり、王という一人の支配・統治者による統治体制である。連合の意味は異なる勢力がある目的のため対等関係で合同することである。その合同だけを連合という意味はない。通常考えられる連合は、構成員が対等の関係で審議・決定に参加することを含むが、豪族連合はどういう連合が想定されているのか。
地方の王や豪族に対等の権限を認め合議する体制は作れないだろう。また、組織体の中で地位・立場の交代可能性もない場合は連合とは言えない。王制であるなら、豪族は決定権を持たず臣下として輔弼するだけの政治体制になる。その組織体の最終決定権限と執行権限が特定の王の家系の者に委ねられ、その地位が世襲されるのであれば連合とは言えない。
連合は合意によるものである。力ずくで同意させられ、それも合意だというのは政治的主張でしかない。国としてまとまることの意味は、武力による強制、領土領民の確定と防衛、国力の強化のための領民の育成を統治者が行うことにある。これを豪族の合意によって決め、執行者を指名していたなら豪族連合だと認めてよいが、地方の豪族が合議に参加する体制が具体的に説明・証明できるとは思われない。歴史的には武力による統合が一般的である。
これは畿内レベルでも同じである。散在する複数のムラの豪族が合意のうえで合同して王を立てて、その王にすべてのムラが従ったなら、不都合な王は交代させるだろう。統治には武力が必要で、最も強い武力を持った豪族が王になる。
畿内に王権が成立するほど発展していたなら、河内や淀川水域は海運に必要不可欠であり、早々その地域を支配下に置いていたと考えられる。王や豪族の間で個別の合意や協定をすることはあっても、その履行を担保するものは武力である。強い武力を持てば対等の合意をするより従わせるという考え方になる。
⑵ 「連合」説の根拠の非論理性
豪族連合説は、前方後円墳など墳墓形式や埋葬法などが統一されたことをもって広域的に同一文化をもった王権(政権)が成立したとする。
前方後円墳様式を「連合」の根拠にするなら、方形周溝墓という同一の墳墓形式が畿内のみならず東北にまで広がっていたことをどう考えるのだろうか。文化は権力の性格を判断する要素になるが、文化だけをもって権力の成立の根拠とすることはできない。
方形周溝墓を造って先祖を祀っていた豪族が、連合に参加したからといって、方形周溝墓を廃止して新たに前方後円墳様式の墳墓を造る理由にはならない。連合に参加しない豪族も方形周溝墓を止めたのなら別の理由である。方形周溝墓への水路を利用して周濠式の溜め池を掘り、その中岡を墳墓にして改葬したか、強制的に廃止させられたか、新しい文化をとり入れる気風があったかのどれかであろう。
方形周溝墓に代わる墳墓形式の統一は一斉に行われたのではない。一世紀くらい併存した時代があるのは連合が広がったからではなく、新たな葬送形式や文化をもたらした勢力が台頭して方形周溝墓を造る文化を持っていた人々が新しい文化をとり入れ、徐々に変わっていったからだと考えるのが妥当ではないかと思う。
なお、王宮が畿内の各地に移ったことをもって、畿内で豪族連合が成立したという主張がある。しかし、これは根拠にはならない。宮は王の祖霊を祀るところであり、祀りごとをどこで行うかは王の意思による。宮殿の規模や婚姻の形態とも関係するが、通常は居所で祀りごとをするだろう。よって、臣下が謁見して指揮を仰ぐ場所は、宮のある王の居所になる。王宮が移るのは、居所が変わるからである。
豪族も同様で、自ら定めた場所で祖霊を祀るだろうが、その祀り方は先祖から受け継いだもので、他の豪族らと協議して統一するようなものではない。王墓が各地にあるのもそれぞれの王又は王位継承者の意向にもとづくものであろうから、豪族連合の根拠にはならない。豪族の墓はそれぞれの伝統に則ったものになるだろう。
⑶ 連合に加わった豪族が分からない豪族連合?
連合に加わった豪族というのがどこの豪族のことか、全国レベルから畿内のどの範囲を想定するかによる。しかも、豪族という言い方は、既に臣下のような扱いである。漢に朝貢していた三十ケ国にはそれぞれ王がいたとされるが、地方の有力豪族というのがその王を含めているのかも明らかでない。魏志倭人伝に登場する国々は女王卑弥呼に服属している国として紹介されている。「属」を連合の意味だとするのは、前述の一大率を置いたこととそぐわない。
畿内や河内を含めた豪族としては、王の血縁氏族、姻族その他の「有力氏族」が考えられる。三世紀初め頃まで、当時の豪族はどこかの地域を領有し、ヤマト王の血縁氏族や姻族も畿内のどこかを領有していたことになる。しかし、二世紀頃までの畿内は、縄文時代から集落が散在する状態で形成され、互いに干渉しないようにしたかもしれない。環濠も造って防衛していたのは対立があったことを推測させる。大集落にどのような豪族がいたかは不明である。葛城、生駒辺りは河内、瀬戸内海につながる重要地域であり、その地の豪族は畿内中心部の豪族と連合する必要があったか疑わしい。
記紀は豪族連合説ではなく、畿内の豪族は従った者と討たれた者に分かれ、合意による統治は想定していない。
畿内の豪族といっても、当時の史料はない。奈良平野の東部には大三輪氏という豪族が住んでいたとされるが、纏向遺跡には大規模建築物の跡があり、また、吉備の遺物が発見されているから吉備系の豪族がいた可能性がある。方形周溝墓のある集落跡はヤマト系ではなかっただろう。
穂積臣と物部連となる豪族はニギハヤヒノミコトの子孫を名乗っている。穂積氏は山辺郡の出身だとされている。物部氏は後にヤマト王権の軍事部門に携わっていた。この二豪族が元々どこにいたかは不明である。
武内宿禰の子孫を名乗る豪族は後世の豪族ということになる。
ということで、連合に合意した豪族が不明なままでは連合政権をつくったという主張は一つの物語でしかない。
⑸ 「連合」の目的
複数の豪族が合同して一つの権力組織をつくるには、それを必要とするきっかけがあるはずである。これには各豪族の治める土地と豪族の関係を考えなければならないが、そもそも豪族の名も場所も分からない。従って連合の地域的範囲も分からず、目的を探ることもできない。
交易や交流には連合は必要なく、提携で足る。
農耕集落にとって水利は重要であるが、それぞれの水利系での問題であり、畿内全体で争ったり合意したりするものではない。例えば大和川の水量が減り、下流域で水不足が生じた場合、上流域の農耕集落も水が不足気味であっても水争いをせずに何らかの合意ができるだろうか。連合政権ができていれば争いは起こらないというものではない。
水路、溜め池などが広く作られる前、水利の悪い不毛の土地が多かったなら、集落は水利のよい場所を選んで広く分散していたかもしれない。分散した集落の豪族が連合する目的は考えづらい。
野盗の類への防衛であればムラやクニごとの対応になる。あるいは近隣のムラ同士が互いに支援して撃退することは考えられる。これらは地域限定になる。ムラやクニにとって、広域的に連合しても支援を得られないなら、必要性を感じないだろう。
考えられるのは、武力による強制力を統一させる必要がある場合である。強制力を持たなければ政権として意味がない。
一つは畿内内部の争いを止め、広域的に単一秩序をつくる場合であるが、三世紀前半に畿内で広く争いが起きて講和、連合へと進んだような事件は見当たらない。
倭国大乱をそれらの契機となった事件として見る向きがあるかもしれないが、豪族連合成立と目されている時代と違う。女王を共立したことをもって豪族連合というのかもしれないが、女王が諸国を服属させ、一大率を置いて諸国を監視する体制は連合ではない。
もう一つは外部から畿内を脅かすような大掛かりな侵略があり、それに対して防衛する場合である。当時の戦争は、相手の王と王族を捕らえ、又は殺害することで目的を達するということが多かっただろうから、畿内防衛は王と王族を守ることが主眼となる。都の防衛が主であり、必ずしも畿内全体を防備することにはならない。豪族連合が政権の長の防備をし、豪族とその集落を防備するのはそれぞれの豪族に任せるということなら王制の場合と同じである。畿内防衛は豪族連合として行うのではなく、各豪族が軍を持ち、それぞれの地で防衛することになるだろう。しかし、三世紀前半に畿内が大掛かりな侵攻を受けたという形跡はない。
三世紀中頃は、女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼が相攻撃した時期である。卑弥呼は死に、後に壱與が女王となる。邪馬台国も倭国もこれより以前に成立している。この事件により豪族連合ができるはずはない。
⑹ 世襲制との関係
豪族の中には領地と武力を持ち、王族を支援して王位争いに加わったものがあるが、豪族そのものが王になろうとした事例はこの時代には見当たらない。豪族はあくまでも臣下という立場を超えることはなく、王の姻戚関係になることで地位と利益を得ようした。
豪族合議制のもとに王がその決定に従うというものであれば豪族連合と言えるだろうが、豪族は建議や進言などをするが決定権は王だけにあるというのであれば、豪族連合と呼ぶべきものではない。しかも、豪族が地方の国の王のことであれば、中央王権に関わるのは無理である。
世襲は先代の全てをそのまま引き継いで替わることである。各一族内部の問題で、その血筋の者が順位に従って継承する私的なものであるが、継承の対象には地位もある。地位は公的私的の区別なく継承されるが、公的社会的な地位が世襲には重要である。豪族の場合、ムラやクニを治める地位は私的な財産の延長である。その子孫が財産の継承に伴って治める地位も継承することは当然の規範のごとく考えられていたと思われる。
しかし、王位という国を治める地位は、王家の財産の継承に伴いその管理運営をするという意味での地位ではなく、それを超えた国に関わる独立した地位である。国の財産は王家の財産と同じではない。領土領民も軍も王家の私的な財産ではなく、命令し強制する権限と地位が継承の対象となる。その権限と地位は公的なもので、建前としては私的に勝手な使い方をすることは許されない。
王位を世襲としたことで、豪族間での王位の交代可能性はなくなり、王は豪族らの上に立つものになる。その権力は臣下の関わり方の違いはあるが中央集権制になっていく。これを王と豪族の連合政権と呼ぶのはおかしい。
邪馬台国の王の地位は世襲制であっただろう。王権に関わる豪族も世襲である。王と豪族の連合ではなく、豪族が輔弼する王制だったと考えられる。
⑺ 豪族連合のヤマト王権成立時期
畿内、畿内と周辺国、倭全体という統治の広がりにおいて、どの範囲、どの段階で連合政権が成立したとするのか。これもはっきりしない。
まず、豪族連合の成立時期を三世紀と想定する考え方があるが、魏志倭人伝の国々のどれに当たるのか、あるいは含まれていないのか不明である。その時期に畿内に限定して豪族連合のヤマト王権ができたとするのは倭国の状況から見てかなり遅すぎる。畿内と河内という範囲も狭く、少なくとも吉備との関係はできている。九州との関係も十分考えられる。それが個別の交易や民の移住の容認にとどまるなら、放任しておけばよい。
政治的な合意をするなら放任ではなく規制の合意である。また、互いに侵略しないとか、共同して侵攻するとか、防衛に協力し合うというのも典型的な政治的合意である。しかし、個別に合意や協定をしただけでは国としてまとまる政治的連合が成立したことにはならない。複数の国が合意のうえで一つにまとめて統治する機関をつくれば政治的連合と言える。
畿内が広域的な統治の中心になるのは、三世紀半ばより後のことではないかと思う。それ以前の中心地は北部九州だったと考えられる。しかも政治的連合があったとしても、国々は対等ではなく、邪馬台国が支配する国だったと考えられる。大王は邪馬台国に居るという後漢書の記述の「大王」はそれを示すものである。最終決定権や命令権を持たず、合議の議長にすぎないなら王とは言わない。倭国統治の拠点を伊都国に置いて外交使節を受け容れたり、一大率を置いて各国を取り締まったりするのも王が決めることである。
次に、邪馬台国は畿内に成立したヤマト国であり豪族連合のヤマト王権をつくったという考え方ならどうなるか。
これを倭奴国から引き継いだ倭国のことだと考えるなら、豪族連合は二世紀初め頃に成立し、ヤマト国は遅くとも一世紀には成立していたと考えることになるだろうが、二世紀初め頃に少数の将兵が畿内から九州に遠征して石鏃の弓矢、棍棒などで九州の倭奴国と戦ったとは思われない。