ヤマト王権の始まりの国 8-3

六 記紀に記されている天皇陵と変化の理由


⑴ 初期ヤマト王権の埋葬地
 古事記には葬った場所として、山上、尾上、坂上などとともに「岡」という字がいくつか出てくる。岡は人工の山である。いずれも見晴らしの良い高い場所である。魂が天に昇っていきやすい場所に葬るという考え方にもとづくものかもしれない。
 しかし、記紀には墳墓形式は書かれていない。現在の拝礼所は記紀にもとづいて後世に造られたものだろう。おそらく、特別の墳墓モニュメントは造られなかったのだろう。
 初期の天皇の実在性は疑われているが、二世紀終りころに畿内に邪馬台国の子国ができたとすれば、その王の墓があってもおかしくはない。
 神武天皇は畝火山の「白檮尾上」に葬られたとされる。山の尾根を上がったところであり、麓ではない。山の麓には各所に池があるが、いつ頃造られたものか分からない。
 綏靖天皇は「衝田岡」に葬られたとされる。現在指定されている墳墓は円墳であるが規模は小さい。塚を造ってそこに葬ったのであろうが、邪馬台国の平地での墓の形式のようにも思われる。
 安寧天皇は「畝火山之美富登」に葬られたとされる。これは麓ではなく谷を上がったところではなかろうか。
 懿徳天皇は「真名子谷上」に葬られたとされる。谷を上がったところという意味であろう。
 孝昭天皇は御所の「掖上博多山上」に葬られたとされる。文字通り山の上である。この地は、西の葛城山と南の巨勢山から川が流れてくる一帯である。しかし、葛城川の東側の水利はよかったとは思われない。
 孝安天皇は御所の「玉手岡上」に葬られたとされる。現在では南の山麓に溜め池がいくつもあり、川が流れ出ているが、当時はその地を水田にするには水が足りなかったと思われる。玉手岡というのも山の麓に池を掘って、その土を山の根元に積み上げて人工の山のようにしたことから付けられた名ではなかろうか。墓は、その岡ではなく岡の上の山上かもしれない。
 この頃は、周濠式溜め池の中岡は吉備の豪族の墳墓形式とされていて、それを王墓にするという考えはなかったのだろう。吉備の豪族の娘が王妃となり、その王妃の墓を前方後円墳型の墳墓に葬ったのがきっかけとなって、巨大な墳丘墓なら山上に見立てることができるということで王墓にするようになったのかもしれない。


⑵  卑弥呼との不和の頃
 邪馬台国子国の歴史の転機は卑弥呼との不和と相攻撃という事件である。三世紀半ば頃の天皇は、記紀で言えば第七代孝霊天皇の時代の頃だと思われる。孝霊天皇は田原本町黒田に宮を造ったことになっており、、生駒ルート、奈良ルート、大和川沿いルートどれをとっても、大阪側と対峙できる場所である。
 女王に属する国は多く、卑弥呼は魏にも支援を求めている。卑弥弓呼が畿内防衛を図るために、この位置に宮を造ったものと思われる。つまり、この卑弥弓呼とは孝霊天皇のことではないかと推理することができる。
 相攻撃の結果、魏が介入し、卑弥呼は死ぬ。卑弥弓呼は撤兵したものと思われるが、引き続き警戒はしていただろう。墳墓は王寺の大和川近くの山上にあり、西方に対して守護の神となるという発想だったのかもしれない。
 この力関係ができる時期は、瀬田や纏向の周濠などが造られた後の子国王権の勢力拡大の時期である。この王家の王こそ倭の王に相応しいという自負心も生じたかもしれない。


⑶ 墳墓形式の変化
 第八代の孝元天皇陵は三世紀後半に造られた前方後円墳とされている。前方後円墳であるなら、王墓としては初めての墳墓形式である。
 孝元天皇陵は、北西に向かってなだらかな傾斜がある場所にある。古事記では「剱池之中岡上」に葬ったとされている。「岡」はたびたび出てくるが、岡というのは人工的に造った上部がなだらかな小山のことで、造り山と同じ意味である。当時の墳墓の形が分かる唯一の言葉である。現在の中岡は直径百メートルくらいで、箸墓古墳と比べて規模はかなり小さい。日本書紀は「劒池嶋上陵」と記されている。島であるが、元は西北側に外部とつながる陸橋状の方形部があったと思われる。ところが、剣池が掘られて方形部側は陸側と分離され、島のようになったのではないかと思われる。方形部が不整形なのは、池を掘った後に崩れたからかもしれない。
 剣池は応神天皇の時代に造られたという記述があり、そのときに中岡ができたのであれば孝元天皇を葬ることはできないから、先に周濠式の溜め池と中岡ができていたと考えられる。その後、劒池が掘られ、島状になり、後づけで「剱池之中岡上陵」、「劒池中嶋陵」と呼ばれるようになったのだろう。「劒池」は記紀編纂時を基準に場所を示したものと思われる。
 現地は南東部がやや高くなるため池の掘り方には注意を要する。最初に予定された周濠式の溜め池が円形であれば、さほど問題はなかったかもしれないが、仮に方形部を延ばして周濠を広げたなら、崇神天皇陵のように周濠を堰堤で分割しなければならない。箸墓古墳の周濠がそのようなものであれば、同様にされただろう。しかし、堰堤を造った場合でも、円墳部の濠より下段の濠に水を溜めることを優先するから、円墳部の周濠には水は溜まりにくくなる。水量が少なければ意味がない。これは、堰堤で分割した周濠を持つ古墳全てに言えることである。ただし、前方後円型墳丘墓に周濠が必須であると考えられたなら、各段の濠の水量を調整して周濠を維持するという考え方はありうる。
 いずれにしても周濠式などの溜め池を造るのは、その地で水田を作るには水利が不十分だからである。剱池がある辺りは飛鳥川と高取川に挟まれた地域であるが、南部は川との高低差の関係で水位が足りなかった可能性がある。川を堰き止めて水位を上げて水路に導くという方法はまだ行われておらず、水田を作るのが困難な地域だったのだろう。湧水があってもそのまま流れ出ていけば意味がない。小規模であっても溜め池を造ったことで水田耕作ができるようになり、収穫が増えると水田を広げるために池を大きくしようと考える。
 孝元天皇の墳墓は三世紀後半に造られたとしても、最初の周濠と中岡は三世紀中頃には造られていた可能性がある。これを造るには豪族による指揮監督と民の労働力が必要であったが、事業の成功により皆が報われ、邪馬台国子国の王の権威は増したと考えられる。そして、その象徴である周濠の中岡に王を葬ることとしたのだろう。


⑷ 前方後円墳の継承
 孝元天皇陵は前方後円墳形式の王墓の先例とされるが、第九代の開化天皇陵とされている古墳は五世紀前半に造られたもので、同形式の引継ぎと言うわけにはいかない。
 開化天皇は「伊邪河之坂上陵」(古事記)、「春日率川坂本陵」(日本書紀)に葬られたとされる。岡上ではない。孝霊天皇陵も「坂上」であるが、小高い山の上である。開化天皇は率川上流の春日山一帯のどこかの小山の上に葬られたのかもしれない。現在、開化天皇陵とされている古墳の場所は坂上に葬られたとする記述に合わない。「坂本」なら坂の下のことではないかという主張があるかもしれないが、サカは上から下にサカル(サガル)場所であり、その元(本)は上にある。「黄泉比良坂之坂本」は黄泉の国から坂を上がった場所のことで、地下世界から地上世界に戻ったことを意味する。坂上と坂本は同じ意味であり、古事記も日本書紀もともに率川を上がったところと言っているのである。
 よって、開化天皇陵とされている古墳は別の王族の墓である可能性がある。現在の墳丘の規模は小さく、周濠も細いが、当初は貯水池を兼ねて大きく造られたかもしれない。その周濠式の溜め池を造らせたのが開化天皇だったかもしれないが、溜め池築造の時期は三世紀終り頃ではないかと思われる。
 開化天皇の宮の名は「春日伊邪河宮」(古事記)、「春日率川宮」(日本書紀)である。奈良平野北部に宮を置いたのは、北部の開発のために河川整備事業を行うためだったかもしれない。率川一帯の水利に功績があったなら、その川の上流の山に葬ってもおかしくはない。
 この時期は、魏が滅んだのを契機として、奈良王家は邪馬台国の王権の移譲を認めさせようという頃であろう。第九代の開化天皇のとき倭国の王権の移譲を求めた可能性があるが、すぐには実現できなかったと思われる。奈良平野の開発を優先し、周濠のある中岡を墳墓とする考えはなかったのではないかと思う。
 第十代の崇神天皇の陵墓は前方後円墳であるが、その方形部が切られたように短い。これは前方部に池を広げた際に削ったからではないかと述べたが、前方後円墳が王墓の形式であるという意識はなかったと考えられる。天から見た形も意識されておらず、溜め池と巨大な山造りが力を象徴するものとされたのかもしれない。しかし、王墓の形式だからという理由ではなかったと考えるべきだろう。
 崇神天皇を葬るときには、新たな倭国王となったヤマト王を象徴するものに相応しい規模のものが選ばれ、そこで、奈良平野の東側に位置し、当時最も巨大だった周濠式溜め池の中岡の上に葬ったのではないかと思われる。古事記では「山邊道勾之岡上」に葬ったとされる。日本書紀では「山邊道上陵」となっている。
 第十一代垂仁天皇は「菅原之御立野中」(古事記)、「菅原伏見陵」(日本書紀)に葬られたとされている。宝来山古墳と呼ばれる古墳であるが、これは五世紀前半に造られたものであり、古墳築造時期は遅すぎる。岡上という記述でもなく、陵墓が前方後円墳だったのか疑問がある。平地の小さい丘に葬られたのではないかと思われる。
 仮に、宝来山古墳が正しい陵墓であるなら改葬されたと考えるべきだろう。改葬ならば、時期がずれていても、死亡した場所と墳墓が離れていてもおかしくはない。仲哀天皇はそういう例だろうが、記紀の記述から判断できなければその証拠を探すのは無理である。
 従来、孝元天皇以後、天皇は前方後円墳に葬られているという前提で陵墓が指定されていたのではないかと思われる。しかし、墳墓形式の継承はそれが正式の大王墓の様式として定められてからのことであり、それまでは先例に従うかどうかは生前の意思と葬る側の判断に委ねられていただろう。農耕を基盤とした国造りということで溜め池のある前方後円墳を選ぶ大王はいただろうし、邪馬台国の伝統に回帰して自然の山上に葬ることを希望した大王もいたかもしれない。
 大王墓の様式は、邪馬台国文化との決別、国造りの思想、国内の安定があって定まり、時代によって変えられたと思われる。


⑸ 池の保全と王墓予定地
 池を造れば管理が必要となる。とくに、水不足のときに人々が勝手に取水しようとするのを統制しなければならない。その水利系の耕作者が集団で取水を行えば統制は難しくなる。
 そこで、中央部の岡を王墓にして周濠を含めて立入禁止にして防止することを考えたかもしれない。王の印をどこかに立てておくのである。違反者は重罰に処せられる。また、王墓でなくても王家の印を立てておくことも考えられる。前方後円墳を王墓にした先例があれば人々は信用するだろう。
 他方で、水不足が続けば、王は降雨を祈願して宗教的な行事を行うことで、民の不安をやわらげつつ統制しようとしたかもしれない。
 さらに、水不足が起きないように周濠式溜め池を各地に造ったり、溜め池を拡張したり、水路を整備したりしただろう。
 畿内には、王墓と考えられるもののほかに多くの前方後円墳がある。溜め池だと考えれば何も不思議ではない。墳墓にされないままになったものもあるだろう。王墓予定地にしていたなら放置するわけにはいかないから、王命で王族を埋葬させたかもしれない。王族を先祖に持つ豪族も前方後円墳への埋葬が認められたかもしれない。
 溜め池で重要なことは保全である。葺石などにより、とくに池側の土の崩落を防止し、土砂の流れ込みを防ぎ、必要なら浚渫をする。池の補修や浚渫は水利用者の共同作業として定期または臨時に行われただろう。


⑹ ヤマトの象徴
 前方後円墳がヤマト王権の象徴のように言われているが、築造が始まった時期とヤマト王権の成立時期は合わないし、築造当初から王権の象徴にするためだったとは思われない。また、形状の理由について諸説あるが、これは築造の目的と場所と仕方によると思う。
 前方後円墳の中には大王(天皇)の墓があることは否定しないが、それは多数ある前方後円墳の一部である。王墓のみにある特徴の有無を調べる必要があるが、王墓に相応しいと判断してそこに葬った理由も推理する必要がある。
 墳丘の形そのものからは山と台をイメージすることができるが、王墓でない前方後円墳も同様である。方形部前方が掘られて完全な周濠がある前方後円墳は大王墓に限られない。元は場所的な理由で完全な周濠形式になったものと思われ、大王墓の特徴というわけではない。傾斜地であれば周濠は段差のある分割式になる。これでは貯水量が少なくなるから、前方部を大きく掘って周濠を大きくしたほうがよい。そういう巨大な山と周濠式溜め池がヤマトの象徴的な墳墓に採用されたのだろう。
 これが崇神天皇陵、景行天皇陵へと続き、象徴にとどまらず天の神に見せる形として全体の形を整えるようになったのではないか。
 ヤマトが邪馬台国に由来するとすれば、その葬送の仕方は山に葬るか塚を造って葬るのが習わしだったと思われる。中岡も巨大な塚である。死んだ王の魂はそこから天に還っていく。周濠式の溜め池は国の発展に大いに役立つとともに、墳墓にするときには神域を画するものとなる。円と方をつなげた形は天の神に見てもらうのによい形である。方形部は始祖が海上の倭に造ったクニを示し、多くの埴輪によってその功績を讃える。そういう思想があったとすれば方形部はむしろ幅広のほうがよい。人形埴輪は殉葬者に代えるものだとされているが、もしそうなら、上に並べるのではなく埋葬されるはずである。
 王家の墳墓形式が定められたかどうかはともかく、規模の違いはあるが似たものが造られた。規模は葬られた大王の功績、在位年数、大王の財力の大きさなどを基準にしたものか疑問である。生前の希望と王位を継承した側の考え方次第ではないかと思う。王と他の王族や豪族の墳墓の違いは、墳墓に飾られた物、副葬品、方形部の大きさ、周濠を含む全体のシンメトリーなどにあるのではないかと思う。
 以上はあくまでも想像である。

ヤマト王権の始まりの国 8-2

七 周濠分割型前方後円墳
 方形部前方が広がる形の前方後円墳が造られ始めても、周濠造りに意味があったのは同じである。纏向型墳丘墓から墳墓の形が変わっても池造りという目的は維持されていたと考えられる。溜める水を確保するには山麓などの傾斜地がよい。しかし、傾斜がある地域では、周濠の造り方に工夫が要る。
 池の造り方は地形などによって異なるから平地と同じと考える必要はない。重要なのは、それぞれの地に合った池の造り方である。前方後円墳という墳墓形式がまだ決まっていなかったから、融通がきいたのだと思われる。
 低地に水に流していくには高台に造るほうがよいが、見た目は緩やかな傾斜地でも実際に掘るとなると大きい池は造りづらく池を分割するようになる。そういう場所では周濠式より通常の穴掘り式の池にして土手で囲ったほうがよいかもしれない。しかし、山からの水が溜まりやすく、低地に水を供給しやすい方法としては、山の根の先を利用し、上方を切り離し、周囲に池を掘るというのは合理的である。
 三輪山の麓一帯は水が流れてくる場所であり、広くなだらかな高低差があって溜池造りに適地であった。人工の山ができると、それが墳墓にされる。三輪山はヤマト王権にとっての聖域ではないが、水源地として重要な地域だった。しかし、川から水路を引くには川の高さが土地より高くなければならないから、上流から目的地域まで勾配を考えながら水路を造ってこなければならない。


⑴ 崇神天皇陵
 山辺にある崇神天皇陵は四世紀前半に造られたとされており、平地にはない特徴がある。円墳部は直径百五十八メートルに対し高さは三十一メートルある。山の麓の小高い場所にあり、元は尾根が切れた小山だったかもしれない。
 なだらかな斜面に堰堤で区切った円形の周濠が掘られている。作業用通路は、堰堤となったところを利用するだけでなく、低いほうに陸橋を残してスロープ状通路を造った可能性がある。このとき、陸橋両横を掘ったと思われるが、傾斜地のため深くは掘られなかっただろう。
 その後、葬送が行われ、スロープは削られて方形部として整えられる。元の方形部は現在の土手辺りまで延びていたのではないかと思われる。
 後に、それでは貯水量が足りないということで、低いほうに土手を造って池を広げたのであろう。円墳部直径百五十八メートルに対し方形部長さは八十四メートルにとどまっていることから、方形部は削られて短くされたと考えられる。墳墓は円墳部であり、この時代の方形部は聖域とはされていなかったのだろう。土手は斜面に造られる関係で直線になる。土手の土は、方形部を削った土と池を掘り広げた土が使われたのではないかと思われる。墳丘はほぼ島になる。


⑵ 景行天皇陵
 近くの景行天皇陵は、全長三百メートル、円墳部直径百六十八メートル、前方部幅百七十メートルと巨大である。元は尾根が切れた小山だったかもしれない。
 高さは円墳部が二十五メートルと全長に対する割合は普通であるが、方形部が台状で高さは二十三メートルもある。スロープ状通路が巨大になり、それを崩して整えた際の土が多く、しかも、前方部を掘って周濠をつなげた際の土を方形部に盛ったため、方形部が高くなったのではないかと思われる。
 前方部に崇神天皇陵ほどの高い土手は無いが、周濠の造り方は崇神天皇陵に似ている。周濠跡が狭く、また、埋まったようになっているのは、自然の小高い地に盛り土をした部分が浸食されて崩れたたためかもしれない。


八 前方後円墳の地域的広がり
⑴ 地方の箸墓古墳型古墳
 箸墓古墳の巨大性や全国に同形の前方後円墳が多数あることをもって大王墓だとする説がある。地方の服属した豪族にその形式を許可したというのである。同形といっても、例えば地方の豪族が大王に謁見した際に地上から見ただけでは、その形は正確には分からないから、基本的な設計と造り方が広まったと考えるべきで、特別な許可を与えて教えたという想像はできる。
 しかし、巨大な池を造るのが目的で、その結果巨大な人工山ができ、墳墓に利用されたと考えれば、墳墓の大きさで人物像を推し量る必要はない。
 溜め池目的で造り墳墓にもしたのか、専ら墳墓目的だったのかは、立地や発掘結果などから分かるだろう。墳墓目的といっても、地方にいる王族なら王家の墳墓形式という理由で同じ形式にしたかもしれない。そうでない豪族なら、大王墓に似せようとしたのか、豪族の墓だから真似てよいと考えたか、動機は違うかもしれない。
 元が王墓として造られ始めたものではなく、三世紀末には九州で鍵穴型の前方後円墳が造られていることから、動機は一つではないと思われる。


① 大分県の宇佐の高森古墳群は同様の考え方で造られたものと思われる。近くの川は何 メートルも下を流れていて,高森地域は水が不足していただろう。溜め池を掘り、主に雨水を溜めていたのかもしれない。その結果できた山を墳墓に転用するという共通の考え方があったと考えられる。
 その一つの赤塚古墳は三世紀末に造られたとされ、前方後円墳の形をしている。円形墳丘部の直径は三十六メートルと大きいが、高さは四・八メートルにすぎない。方形部の長さは二十一メートルもあるが、高さは二・五メートルと低い。九州は雨も台風も多いから墳丘部が浸食されて低くなり、その土で周濠が埋まった可能性がある。周囲に幅八・五メートルから十一メートルの濠跡がある。方形周溝墓群が隣接している。奈良と九州は交流があったと思われるから、奈良の溜め池造りに倣って中岡式の池を造ったのかもしれない。


② 宮崎県の西都原古墳群は、方墳二基、円墳二百八十六基、前方後円墳三十一基などが 確認されている。いずれも台状地の上にあり、百六十九号と百七十号の円墳には幅十m前後の周濠らしき跡が見られる。
 前方後円墳の最大のものは墳長百八十mの女狭穂塚と百七十五mのホタテ貝形の男狭穂塚である。これらには周溝がある。墳長二百七十八mの箸墓古墳と比べると規模は小さいが、地方の墳墓としては大きい。他の前方後円墳は、墳長五十~百mまでの規模である。二百二号墳(姫塚)には周濠らしきものがあるが、溜め池機能があったのかどうかは分からない。場所と形状と規模は、支配していた王と王族、豪族の地位などによる違いだと思われる。多数の墳墓が一定地域に集中しているのは、死者が葬られる場所が生者の生活と生産の場所と区別されていたことを示す。
 この地は、邪馬台国と関係がある一族が支配していたのではないかと思われる。邪馬台国勢力が朝鮮由来なら、発掘物にその系統のものがあっても不思議ではない。西都原に邪馬台国勢力がいたとすれば、畿内のヤマト王家に従い、傍系の同族として支配を続けていたのだろう。そして、畿内の王墓の墳墓様式が定まり、それに倣って四世紀初め頃から前方後円墳を造り始めたのではないかと思われる。
 葬送形式が変わった後、西都原には大規模墳丘墓が造られることがなくなり、次第に放置されていったのだろう。


⑵ 前方後円墳の広がり
① 河内
 奈良平野の水利の不便な地域に広がった後、大阪平野でも前方後円墳が造られるようになる。まず、藤井寺、羽曳野、堺に造られた。水田の拡張は生駒山地西側から始まったと考えられる。
 大和川の北側はかつて海が迫っていたから、大和川の南側で石川の西側を開墾することになる。藤井寺地域は、川と平地の高低差から、この二つの川から取ることが困難である。考えられるのは石川の上流から水路を引くことであるが、それも堰を造らなければできない。そのため、溜め池を造ることになるが、ヤマト王権は奈良平野での実績をもとに巨大な周濠式の池を造ったのであろう。
 これを西や東へと広げていき、水田を増やしていった。民の家から竈の煙が上がるのを見たというエピソードは、民の労力により巨大な池を造り、水稲の生産量を増やすことができ、民の食糧を賄うことができたという安堵と自負心を表しているものと思われる。
 この巨大な池がここでも墳墓にされたのである。ヤマト王権の伝統になっていたと言ってもよいだろう。巨大な池になれば、中の人工山も大きくなるから、それが巨大墳墓となる。大阪平野の巨大古墳はヤマト王権の権力構造とは関係がなく、池の大きさによるものであろう。
 墳丘を高く造っても、長年の風雨により浸食され、土砂が池に流れ込む。草木が生え森になっても浸食が止まるわけではない。崩落も起きる。墳丘面積は大きくなり、池の面積は狭まる。
 これは大きな問題である。浸食を防止するには墳丘を固め、傾斜をなだらかにし、草木を植えるという方法しかない。草木が根を十分に張れば浸食は減るだろうが、それでも浸食を止めることはできない。
 池が埋まったりしても水利に不要であれば放任されるかもしれないが、水量が足りなくなっても、水が溢れるほどになっても困る場合は、池を浚渫するか拡張しなければならない。このとき、泥土の処理が問題になる。池の水を抜かなければ浚渫はできない。巨大古墳の場合は容易ではない。墳墓にした後は泥土を盛り上げるわけにはいかない。そこで、周濠の外にもう一つの周濠を造り、掘った土は内側の周濠の土手に盛ることで解決したかもしれない。


② 吉備
 総社には、造山古墳、作山古墳があるが、造山も作山も人が造った山という意味である。最初から墳墓を造る目的で人工山を造ったならば、それは塚や岡と呼ばれ、山扱いはされないはずである。楯築遺跡は足守川沿いの山の上にあり、双方中円形墳丘墓と言われている。溜め池とは関係がなく、最初から墳墓として造られている。造山古墳とは明らかに様式が異なるが、方形部は緩やかなスロープを造って巨石などを運び上げたのだろう。墳丘墓の造り方としては参考になる。
 造山古墳は五世紀前半に造られたとされ、畿内よりかなり遅い時期である。足守川から一キロメートル余り離れた位置にある。足守川西側一帯で水稲を作る場合、川から水路を引くには堰を造って水位を相当上げる必要がある。現在では堰が造られているが、当時その知識や技術が無かったとすれば、その一帯を水田にするには溜め池を掘る必要があった。古墳の周濠は幅二十メートルと言われており、溜め池として使われた可能性がある。墳丘部の北西側は崩落しており,方形部の西側と南側も緩やかに崩れているようである。これは、小高い山の周囲を掘ってその土を山に積み上げたために層ができていたからかもしれない。周濠の規模に対して墳丘部が大きいのはそういう事情によるものだろう。
 この土は川や海を浚渫した際の泥や土砂だとする説があるが、海のものを積み上げたなら、貝殻などが発掘されているはずである。浚渫土を処理したいなら、足守川東側の埋め立てに利用したほうがよい。そこに足守川から水路をつくって淡水を流し、葦を植えるなどして塩分を排出していけば水田になる。わざわざ足守川より高い位置にある造山古墳の場所まで浚渫土を運ぶ理由はない。
 現在、池は残っていない。水路により池は不要になり、埋まるままに放置されたものと思われる。
 作山古墳の北西側に池が掘残っているが、周濠のようには見えない。墳丘が崩れて周濠が埋まった後に、その地域の灌漑用に造られた可能性がある。南の山麓に大きな溜め池が複数造られて水路が引かれており、この古墳の周濠は必要なくなったのであろう。
 こうもり塚古墳の北側と西側には隣接して溜め池があるが、周濠としては残っていない。


⑶ 前方後円墳の終焉 
 前方後円墳はヤマト王権の発展の基礎であり象徴であった。決して民を働かせて巨大墳墓を造ろうとしたわけではない。それは結果である。目的は溜め池を造り、農業を発展させることであった。それにより、さまざまな産業を発展させ、大人口の都市ができるまでになった。
 しかし、池が増えると新たな溜め池を掘る必要性は減っていく。それだけでなく、堰を造る技術が発達すると、川が流れる谷に堰となる土手を築いて堤を造ったり、川に堰を造って推移を上げて水路に導いたりする土木知識と技術が入ってきたことで、平地に溜め池を掘るよりも簡易に水利を得ることができるようになる。
 これによって巨大な溜め池を造る必要がなくなってくれば、周濠付の巨大墳丘墓となる素材もなくなる。他方、横穴式の石室が造られるようになると、墳頂への通路は必要でなくなる。前方後円墳の周濠は横穴式石室を造りづらくする。あえて墳墓のためだけに周濠を掘り巨大墳丘墓を造るのは民を苦しめるだけである。薄葬令よりずっと前に畿内で前方後円墳が造られなくなっていたのは、巨大な池を掘る必要がなくなったからだと考えるのが妥当ではないかと思う。元々山に棺を埋めて葬っていたのであれば、墳墓としても前方後円墳の形式にこだわる必要はない。円墳や方墳でよい。
 さらに、仏教の影響を受けて、山や塚に葬るという方式が変わって墳丘墓は造られなくなったのであろう。


⑷ 地方で造られ続けられた理由
 地方でも畿内に倣って周濠式溜め池が造られ、畿内で前方後円墳が造られなくなった後も溜め池が必要であったところでは造られ続けていたとしてもおかしくはない。ただし、前方後円墳型の墳丘墓だけを造った場合は、農耕のためではない別の意図によるものである。
 千葉県印旛郡の浅間山古墳は七世紀前半に造られた最後の頃の前方後円墳と言われている。墳丘の長さは約七十八メートル、円墳部と方形部の高さはともに約七メートル、周濠は幅七、八メートル、深さ約一・三メートルである。高台にあり、北西側に周溝がなかったと言われているが、そうだとすればまさに南側の水利のための溜め池として造ったことになろう。
 七世紀初めは仏教が盛んになっており、墳墓形式も変化している。墳墓として前方後円墳を造るのは時代遅れと言えよう。それでも造ったのは、やはり溜め池を造るのが目的だったのではないかと思われる。そうであれば、周濠と墳丘墓としての形にこだわる意味はなかっただろう。

ヤマト王権の始まりの国 8-1

第八章 古墳


一 纏向古墳群
⑴ 纏向型古墳
 纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳、纏向勝山古墳、ホケノ山古墳がある。帆立貝型古墳には茅原大墓古墳がある。地域的には、大和川と東部の山に挟まれた纏向、箸中、茅原の一帯である。纏向遺跡には大型建物跡が見られるが、三世紀後半以降のものである。集落そのものは二世紀末ころから造られ、石塚古墳の溜め池が造られたことをきっかけに、その地が発展していったものと考えられる。
 吉備系の物が埋葬されていたことから考えると、その地域の開墾に吉備系の豪族が関わっていたと考えられる。その豪族がヤマト王権の水田開発の中心となって、三世紀には溜め池を増やし、纏向遺跡の一帯に大集落をつくっていた可能性がある。
 纏向型・帆立貝型墳墓に附属する池が大きいのは、墳丘墓を造るために土を掘った結果ではない。その逆で、瀬田よりも大きい池を造ることを目的として広く掘った土を内側に盛り上げたものではないかと思われる。溜め池は水田作りに必須であるから労働意欲もわく。纏向地域は沖積平野の扇状地であり、当時の表層部は掘りやすかった可能性がある。池は浅くても広く掘るほうがよいから、巨大になったのである。
 溜め池の築造が目的なら、墳墓発掘物の製造年代よりいくらか古いと考えられるから、三世紀初めの発掘物は二世紀終り頃の溜め池築造に、中頃の発掘物は前半の溜め池築造に読み換えるべきかもしれない。
 三世紀初め頃に造られたとされる石塚古墳は、全長九十六メートルで、円墳部の直径は約六十四メートルで墳丘は楕円型、方形部は長さ約三十二メートル、幅約三十四メートル。くびれ部の幅十五メートル余り、周濠は幅約二十メートルである。瀬田の円形周溝墓と比べて長さで三倍余りの規模である。面積では十倍くらいになる。円形の周濠式とした場合、降雨面積という点では通常の穴掘り式の池の約一・六倍となる。
 この規模になると地面に円を描くのは大変である。紐(縄)を使ったり人を真っ直ぐに並べさせて手をつながせたりして、端を一点に固定させて孤を描きながら一周させるというのは難しくなってくる。別の測量方法があったのかは分からない。
 ホケノ山古墳は纏向の南、箸墓古墳の東側の緩やかな傾斜地にあり、全長約八十メートル、円墳部の直径は約五十五メートルで高さは八・五メートル、方形部の長さ約二十メートルで高さは三・五メートル、周濠幅は十・五メートルと小規模である。傾斜地では大きい周濠を掘ることはできなかったのだろう。
 三世紀中頃に造られたとされる矢塚古墳は、全長約九十六メートル、円墳部の直径は約六十四メートルと五十六メートルの楕円型、高さは五メートル、方形部は長さ三十二メートル、周濠は幅十七メートル余り、深さ約〇・六メートルである。石塚古墳と規模はほぼ同じである。
 三世紀に造られたとされる勝山古墳は、全長約百十五メートル、円墳部の直径は約七十メートル、高さ約七メートル、方形部は長さ約四十五メートル、くびれ部幅二十六メートル、周濠は幅約二十五メートルである。石塚、矢塚古墳より規模は大きい。円形の中岡周濠式とした場合、降雨面積という点では通常の穴掘り式の池の一・五倍余りとなる。方形部の長さに対する高さの割合は矢塚古墳とほぼ同じである。
 東田大塚古墳は、三世紀後半に造られた前方後円墳だとされている。発掘調査の結果では、全長約百二十メートル、円墳部の直径は約六十八メートル、高さは約九メートルで、方形部の長さは約五十メートル、周濠は幅約二十一メートル、深さ一・三メートルであったとされている。纏向勝山古墳と比べると、円墳部の径が約二メートル小さく、方形部は約五メートル長い。これは円墳部の高さが約二メートル高くなっていることと無関係ではあるまい。ただし、方形部の長さに対する高さの割合はやや大きくなっている。
 溜め池としての容積は、深さによるが、一つで三千から四千立方メートルくらいにはなったのではないかと思う。水田に高さ五センチメートル程度の水を張る場合、六、七ヘクタールくらいを潤すことができる。


⑵ 周濠式池造りの工事方法
 瀬田の場合とほぼ同様だろう。作業用の陸橋部分を残して外周から内側へ、又は内周から外側へと掘り進んでいき、中央部に掘り上げた土を固めながら積み上げていく。周濠の規模が大きくなると大量の土が出てくるため、中に高く盛って固める必要がある。陸橋部分は幅を広くしスロープをつけるが、中岡が高くなればなるほどスロープ状の通路は陸橋から陸側に延ばして長く幅広く造ることになる。そのために多くの土が要るから、結果として周濠の陸橋側を広げることとなる。外周部には土手を造って池の水位を上げたかもしれない。
 この方法は土の処理が楽で、合理的で作業ははかどる。ただし、外部からの雨水の流れ込みを阻止しないようにしなければならない。
 池には取水口と排水口が必要で、それぞれ水路とつなぐ必要がある。豪雨対策も必要で、取水口から流れの速い水が大量に押し寄せないようにする必要がある。大量に水が流れ込めば速い水流によって中岡も削られる。纏向型古墳は平地にあり、規模はあまり大きいものではなかったから、そこまでの心配はなかっただろう。
 周濠式の広大な池が完成したときは、人々は歓喜しただろう。そこに水が溜まったときは、当時としては大掛かりな水田づくりができると確信したに違いない。工事を計画し指揮した者は讃えられる。


⑶ 墳墓造り
 やがてその功労者である豪族が死に、墳丘の上に葬ろうとしたならどういうことになるか。
 墳墓の本体は円墳部である。横穴式ではなく墳頂に縦穴を掘って石棺を組み立て、遺体を置くという形式だった。
 スロープ状の通路を整備して墳頂まで石を運んで棺を造り、遺体を運ぶ。遺体は木棺に入れて運んだかもしれない。溜め池目的の盛り土ならその状態のままでよいが、墳丘墓の形は塚(円墳)だったと考えられる。そこで、スロープ状の通路の土を削り取って、円墳部の形を整え、削った土は陸橋部に盛り上げる。もう一つの塚にならないように形を変えるか均して台状にする。過渡期には、これは外とつながっていて、溝が造られる程度であっただろう。
 墳墓造りの労力は相当なものだっただろうが、人々は感謝の気持ちを込めて作業をしただろう。
 ホケノ山古墳は三世紀中頃の墳墓だとされるが、その発掘物は纏向のものと異なり、素環頭太刀、鉄剣、銅鏡などの埋葬品がある。時期的には卑弥呼と卑弥弓呼が相攻撃した頃である。将軍クラスの王族又は豪族の墓かもしれない。


二 箸墓古墳


⑴ 墳墓目的で築造されたのか
 箸墓古墳はホケノ山古墳の西側にあり、三世紀中頃から後半頃に造られた墓だとされる。しかし、ヤマト王権の創建前期か創建期に王墓又はそれに準じる墓として造られたものか疑問がある。
 日本書紀では崇神天皇の代に箸墓を造ったとしており、四世紀前後頃と思われる。日本書紀に「日也人作夜也神作」とあるのは、先に造られていた墳丘があり、それを墓に造り変えたと読むこともできる。四世紀説なら、古くから造られた周濠と墳丘を墓に利用したと考えることもできる。
 箸墓古墳にも隣接して巨大な池がある。箸中の一帯を水田とするために巨大な溜め池を造ろうとしたのだろう。北部と西部の水田に対して高さがあり、溜め池の適地である。しかし、現在の池がその当時造られていたとは思われない。部分調査の結果では、当時の池は墳墓の周囲を巡らせる周濠式だと言われている。
 纏向と同様の周濠式の掘削が考えられたとすれば、円形の周濠を掘り、中に掘った土を盛ることになる。作業用の陸橋が残され、作業用のスロープ状通路が作られる。そのために周濠を掘り広げることになるだろうが、陸橋の両横を掘り広げた可能性もある。その際、地形を考慮しないと溜め池造りとしては失敗する。
 最初から墳墓を造る目的であれば、どれだけの量の土が必要となるか。周濠を掘った土でそれを賄うのは到底無理ではないかと思う。他から土を運んだか、小山があってそれを利用したかもしれない。いう墳頂までのスロープ状通路を付ける計画だったのではないかと思われる。築造当時の地形が発掘成果により明らかにならなければ、予想図を描くことはできない。
 現在の地形は南東から北西に向かって緩やかに下る斜面である。南東から東にかけての一帯が土砂によって高くなったという証拠が必要であるが、周濠が重要であれば流れ込んだ土砂を取り除くだろうから、元から傾斜があった可能性がある。
 大きい周濠を掘るには傾斜地は適さない。傾斜がわずかであっても周濠が巨大になればなるほど両端の高低差は広がる。全長二百八十メートル近くもあって高低差が三、四メートルなら見かけはほぼ平地のように見えるかもしれないが、実際に水を溜めようとすれば、三、四メートル低い側にそれだけの高さの土手を造り、高い側の濠を深く掘る必要がある。陸橋側に池を広げようとすると高低差はもっと大きくなる。纏向では水深一メートルに満たない周濠だったが、傾斜地ではとんでもない工事になってしまう。
 くびれ部と円形の中岡の東側の高低差がほとんどなかった可能性もあり、円形の周濠を造るだけなら問題はなかったかもしれない。しかし、スロープのある通路を造るために西側を掘って、一つの周濠としてつなげたとすれば、作業用だろうと葬送用だろうと、上記のような問題が起きる。これを防止するには、円形部の周濠と方形部の周濠を別々にするしかない。
 崇神天皇陵や景行天皇陵は堰堤で分割して周濠が造られている。崇神天皇陵は一見して傾斜地と分かる場所にあり、円形の中岡と周濠を造った際にも堰堤で分割され、後に方形部の周濠を別に掘ったような形になっている。箸墓古墳にその方法がとられているのか分からない。「渡り堤」があったという想像がされているが、証拠はない。むしろ、巨大な連続した周濠を造ろうとしたが傾斜のため周濠に水が十分に溜まらないことが分かり、円墳部側の周濠を深く掘るとか、隣に別の池を掘るとか、堰堤で段差をつけた周濠を外側に掘って元の周濠を埋めるとか、いろいろと計画の変更が考えられたのではないかと思われる。しかし、うまくいったとは思われない。現在は、北側に箸中大池と呼ばれる池があるだけで、周濠跡は見えない。大池が造られた時期は分からないが、周濠が溜め池として機能していなかった可能性がある。
 仮に溜め池造りとしては失敗でも、人工山を墳墓にすることはできる。日本書紀に、昼には人が作り、夜には神が作ったとあるのは、先祖が先に巨大な丘を造っていて、それに手を加えて墳墓にしたという意味ではないだろうか。
 石は葺石で、斜面が崩れないように敷いたのだろう。方形部は完全な台状ではなく、くびれ部の高さは低くなっていて墳頂までのスロープは一部残っている。方形部の前部がせり上がる形の前方後円墳は他にも見られる。方形部はくびれ部にいくほど法面の傾斜がきつくなっており、それが関係しているのかもしれないが、方形部墳頂に何かを予定していたのかもしれない。三世紀後半以降に造られたとされる西殿塚古墳は方形部が高くなっているだけでなく台状の盛り土(方形壇)がある。近くの東殿塚古墳は、西殿塚古墳と堰堤でつながっているように見える。方形部は長い独特の形である。いずれも王墓ではないが、形には何か意味があったのだろう。
 バチ形でカーブがあるのは、雨や溝の水流で徐々に削られたためかもしれない。斜面が石で覆われているのは、雨水により斜面が削り取られて池を埋めてしまうのを防ぐためではないかと思う。
 気になるのは、くびれ部の大きな溝である。西殿塚古墳にも東殿塚古墳にも似たような跡が見られるから何か意味があるものと思われるが、周濠造り失敗の印にしたわけではないだろう。不明である。


⑵ 被葬者
 墳墓と考えられているが、被葬者は不明である。記紀にはここに天皇を葬った記述はない。王墓であればそのことを書かないはずはない。箸墓古墳が造られた時代は三世紀中頃だったとされているが、その頃に前方後円型の墳丘墓を造って天皇を葬る風習も制度もなかった。三世紀中頃は卑弥呼が死んだ時期であることから、それと関連付けて卑弥呼又は壱與の墓だという主張がある。しかし、天皇の墓ではない。天皇とは違う王の墓というのも考えられない。
 そもそも墳墓の築造時期を埋葬されていた土器の製造時期と同じとする発想がおかしい。土器が三世紀中頃に作られたものであっても、埋葬は製造より後であるから墳墓築造時期は断定できない。例えば二十歳のときに使っていた剣や土器が、六十歳で死んだときに副葬されたとする。この場合は四十年ものタイムラグがある。埴輪の場合は副葬品として急遽造った可能性はあるが、生前に持っていた飾り物などを並べたのかもしれない。生前使用していた物を副葬したのではなく、副葬のために製造したという証拠がなければ判断はできない。
土器片が池から見つかったなら埋葬品と断定することもできない。池に捨てられた廃棄物かもしれない。
 被葬者は、副葬品に吉備のものがあるから、埋葬されたのは王族と姻戚関係にあった吉備系の豪族か王族の妻になった吉備系豪族の娘かもしれない。日本書紀には孝霊天皇の子ヤマトトモモソヒメノミコト(倭迹々日百襲姫命、古事記では夜麻登登母母曽毘賣命)の墓として造られたとされている。母親の意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(古事記)、倭國香媛(日本書紀)は安寧天皇の第三子の孫にあたる。初期天皇の在位年数を修正すれば、崇神天皇の時代に神事を行っていた可能性はある。


三 山麓の前方後円墳
 三世紀後半から前方後円墳が造られる。
 黒塚古墳や中山大塚古墳の墳墓は池を大きくして中の盛り土と外との陸橋部分が長くなったような形である。円形の墳丘の上は台状で、竪穴式の石室がある。中山大塚古墳には池の跡が見られるが、周濠は明らかではない。これらも三輪山山麓にあり、元々は水利のためと考えたほうがよいだろう。黒塚古墳や中山大塚古墳ともに三百年前後頃の墳墓で鉄剣や銅鏡が発掘されている。銅鏡は功績に対する褒美として与えられたものかもしれない。中山大塚古墳では特殊器台が見つかっており、吉備系の豪族の墓かもしれず、あるいは吉備平定に関係した王族の墓かもしれない。
 三世紀後半と思われるが、劔池の中岡(前方後円墳)を孝元天皇陵としたとされている。しかし、周濠は斜面に造られて十分な機能は果たせなかったと思われる。墳墓としては墳丘の形に着目されたと考えられる。
 四世紀初め頃の築造と言われる桜井茶臼山古墳も同様のコンセプトで造られたものと思われるが、緩やかな斜面に造られていて、池または周濠の様子が分からない。方形部が南の山側に向いており、メスリ山古墳は方形部の幅が更に広くなっているが、これも池または周濠の様子が分からない。池または周濠があった当時の陸上部分がどうなっていたかが問題である。これらからも鉄剣、鉄刀などの武器が発掘されている。四世紀は武器が埋葬された前方後円墳墓がいくつもあり、東の山裾の墳丘墓に葬られたのは、軍を率いた王族や豪族の可能性がある。
 この時期に山麓に造られた小規模の古墳は、傾斜のために周濠造りに難点がある。そのため巨大なものは造られていない。貯水量が十分でないため、低地側の周濠幅を大きくすることも考えられたが、傾斜のため限度がある。数を増やせばよいということだったのかもしれないが、岡も増えることになる。墳墓に使うには塚の形が重要であり、孝元天皇陵に倣って中岡を利用したものと思われる。
 四世紀前半に築造されたと言われている崇神天皇陵は、傾斜地でありながら周濠に堰堤を設けて分割する方法がとられたことで大規模にすることができた。これは四世紀後半の景行天皇陵だけでなく、佐紀の前方後円墳にも見られる。
 当時の大王(天皇)にとって、農業用水の確保は最重要課題であり、溜め池を造るだけでなく雨乞いの儀式も行われたと想像される。龍神を呼び降雨を祈願する儀式には龍を思わせるような剣などの作り物が用いられた可能性がある。