ヤマト王権の始まりの国 9-3

⑷ 第四代懿徳天皇
 安寧天皇の第二子で、倭風諡はオホヤマトヒコスキトモ(古事記では「大倭日子鉏友」、日本書紀では「大日本彦耜友」)ノミコトである。橿原の軽に宮があったが、当時その一帯がオホヤマトと呼ばれていたわけではない。国号を倭から大倭、日本へと変えた後も国内的にはヤマトであり、オホヤマトは偉大なヤマトという意味だろう。大日本帝国と同じ発想かもしれない。倭や日本という名が入る諡は子国の時代に贈られたものではない。
 仮に子国の時代の諡があったとすれば、スキトモに意味があると考えられる。
 スキトモという名は、その字からして、開墾して水田を広げようとした業績による諡かもしれない。鉏も耜も土を掘り起こす農業用の道具である。弥生時代晩期の遺跡から土木用と見られる木製品が見つかっているが、功績にするなら鉄製の道具であろう。もし、それを広めたとか改良させて農耕を楽にさせたのなら、死後、それに因む名が贈られたという想像もできる。漢風諡の懿徳は立派な徳という意味であり、民の生活を慮ったことがうかがわれる。
 先王の時代は磯城邑を平定した時代であり、軍事的に勢力を拡大してはその支配地での安寧、安泰を図っていったと思われる。支配を安定化するためには産業を発展させ民の生活を安泰にさせることが必要である。奈良平野の支配の安定化を図り、さらに支配を広げる必要がある。それを考えると、第三子とされる師木津日子命(磯城津彦尊)に磯城津に駐屯させ、懿徳天皇は奈良平野を一望できる南部の場所を拠点として全体を治めるという考えだったのかもしれない。
 軽の「境岡宮」(古事記)、「曲峡宮」(日本書紀)の所在は橿原の南部の大軽町であるとされる。境岡は土地を分け隔てる岡の頂上のことである。日本書紀の「曲峡」はマガリオと読まれている。峡は山と山に挟まれた地域を指すが、オが尾に由来する地形だとすると、谷の尾のことだろうか。伝承では岡寺駅付近とされる。見瀬近隣公園がある山と牟佐坐神社がある山の間に高取川の曲がった流れがあるので、その辺りの山の上にあったのかもしれない。


⑸ 第五代孝昭天皇
 懿徳天皇の第一子で、倭風諡はミマツヒコカエシネ(古事記では「御眞津日子訶惠志 泥」、日本書紀では「観松彦香殖稲」)ノミコトである。この頃には中部地方に進出して支配を広げており、尾張から妻を娶っている。
 ミマツの意味は不明である。日本書紀は字に諡の意味を持たせているのではないかと考えられるが、観松の意味は分からない。松を観るという意味ではないだろう。
 字という点では、古事記のほうが意味あるものかもしれない。「御」という字をミと読むときは天皇に関わるもので、そのミは神のことでもあると思われる。「神」を「御」に置き換えたという推理である。「御眞津」という字から、神の(国の)真の中心地という想像もできる。崇神天皇には「御眞木」という字が用いられているのも同様だろう。この「津」は奈良平野の特定の地域ではなく、中部地方にも進出したことから、奈良の地が倭国の中心地になるようにしたことを功績を諡にしたのではないかと思われる。「観松彦」は、松が生える日本列島を治める王という意味があるのかもしれない。
 とするとカエシネの意味が重要になる。
 日本書紀の諡は字に意味があるとすれば、「香殖稲」という字からイメージできるのは、香ってくるほど多くの稲が植えられている光景である。水田が広がり豊かになり、国力も大きくなったことが国の中心地を奈良に遷すべきだという主張につながった可能性があるというのは飛躍しすぎかもしれない。
 古事記の「訶」という字は叱る、励ますという意味がある。しかし、エシネの意味が分からない。返し泥や返し根なら耕起または開墾のイメージである。水田耕起は鋤を使って行われていただろうから、カエシネは開墾のことだと言えないこともない。訶と返し根を掛けて、開墾を奨励した意味だという想像もちょっと苦しいが、開墾の結果を想像すれば「香殖稲」のイメージにつながる。これには池造りなどにより水利を図ることが必要になる。
 宮は「葛城掖上宮」(古事記)、「掖上池心宮」(日本書紀)である。これは同じものだと思われる。ワキカミは地名になっているが、「掖」は助けるという意味がある。上は神や統治者につながる字である。池を造って民を助けた王という意味かもしれない。カエシネという名の解釈とつながってくる。
 日本書紀では「池心」が加わる。池の中心という意味だとすれば、環濠または周濠に囲まれた中岡の上に宮を造った可能性がある。王にとっての中岡は墳墓候補地ではなく宮や城の候補地だったのかもしれない。宮があったとすれば何らかの遺物が出てくる可能性があるが、墳墓として改装されたかもしれない。
 掖上は現在の御所にある。御所はゴセと読まれており、橿原から遠くはなく、王族が宮を造ったとしても不思議ではない。ただし、記紀には宮の名は書かれているがゴセ、御所を想像させる地名は出てこない。当時は葛城邑の一部だったと思われる。
 ゴセの由来は明らかではなく、いつごろからゴセと呼ばれるようになったのかも明らかではない。ゴセを五瀬の意味だとする説があるが、五をゴと読むのは音読みである。五つの瀬が集まるところという意味ならイツセになる。
 御所の南に巨勢山があり、古瀬という地名があるが、そのコセと関係がありそうである。コセは子所であってコはミヤコのコと同じと考えれば、ミヤのコがある所をコセと呼び、ゴセに訛り御所と表記されるようになったのかもしれない。セを所と表記するのは膳所と同じである。


⑹ 第六代孝安天皇
 孝昭天皇の第二王子で、倭風諡はオホヤマトタラシヒコクニオシヒト(古事記では「大倭帶日子國押人」、日本書紀では「日本足彦國押人」)ノミコトである。大倭や日本は、国号である。日本をオホヤマトと読むのは大倭と同じ読みにするためであろうが、オホは偉大なという意味だとするのが妥当である。
 帯は足の借字だという説があるが、タラシは垂らしで、恵みを広く与えること、勢力を広げることを意味するのではないかと思われる。
 国押人という字は古事記と日本書紀とで同じであるが、古事記には「国忍人」という字もある。国は倭国のことであろう。国押人は、勢力の広がりを背景に畿内に倭国の都を遷すことを主張した人々(集団)のことで、それを率いた王への諡ではないかと思われる。
 宮は「室秋津島宮」で、これも御所にある。御所全体の水利のために南部の山麓に池を造り、その山の上に宮を造った可能性がある。秋津島はイザナギノカミとイザナミノカミが生んだ「大倭秋津島」と同じなら本州のことになるかもしれないが、室が地名であるなら、「秋津島」は地名としての本州のことではなく、室のトンボが舞う島という意味合いであろう。日本書紀では神武天皇の掖上巡幸の際に「秋津洲」という名が出てくる。これが室秋津島の由来とされていると思われる。