ヤマト王権の始まりの国 2-5

(2-4に統合)

ヤマト王権の始まりの国 2-4

五 拘(狗)奴国の成立時期
 後漢書に拘奴国が登場するのは漢の時代に拘奴国があったからだと考えられる。つまり、漢が滅ぶ二二〇年より前に成立していた。そのどれくらい前かは、拘奴国がどういう国かという想定によるが、これまでは素性も含めて不明とされていただろう。
 拘(狗)奴国を邪馬台国の子国と考える説では、九州を中心に邪馬台国が支配する国々の総称である倭国ができ、卑弥呼が女王に共立された後に東征が行われた結果成立したと考える。
 倭国が成立して大乱が起きる前は、邪馬台国が勢力を広げ、倭奴国に服属していた国を従えて倭国に服属させていった時代だろう。その範囲は畿内にも及んだ可能性があるが、その時代に子国が成立していたとは思われない。
 記紀にはニギハヤヒノミコトが天磐船に乗って東方に飛び降りた話が出てくる。トミヒコ(ナガスネヒコ)はニギハヤヒノミコトが王であると述べている。これは、何らかの国が成立していたことをうかがわせる。これも東方拡大(東征)のように読めるが、ナガスネヒコの治める地域は生駒方面、畿内北西部のようである。ニギハヤヒノミコトの進攻により畿内北西部辺りに邪馬台国の領地となった国ができていた可能性はある。それが奴国だったかもしれない。
 女王共立後、九州は安定し、中国地方、四国地方の国々も服属しているとすれば、武人の活躍する場はそれより東しかない。畿内の情報を得てそこを目指し、さらに東方へと進攻するという計画を立てたものと思われる。
 倭国大乱の時期について、『後漢書』には、桓帝(在位百四十六年から百六十八年)と霊帝の間(在位百六十八年から 百八十九年)とあり、卑弥呼が女王として共立されたことが書かれている。百八十九年まで大乱があったという趣旨ではなく、百六十八年をはさんだ前後の何年かを指すのであろう。
 『三国史記』新羅本紀第二には、阿達羅尼師今の二十年(百七十三年)に倭の女王卑弥呼の使者が訪れたことが書かれている。
 『梁書』倭伝には、光和年間(百七十八年から百八十四年)の間に卑弥呼が共立されたことが書かれている。
 時期が曖昧なのは、卑弥呼がすぐには漢に朝貢せず、女王共立の時期が記録にとどめられなかったからだろう。総合的に判断して、女王共立の時期を百七十年代(後半)から百八十年代(前半)ころと推理した。その後に東征を行い、畿内に子国を造ったと考えられる。
 従って、拘(狗)奴国の成立時期は百八十年代後半以降であると思われる。よって、漢が卑弥呼や拘奴国を知っていても時期的な問題はない。


六 狗奴国の王
 狗奴国の王の名は卑弥弓呼である。(卑弥弓呼の国は狗奴国と表記する。)コナクニの王ヒミコのコと読むならば、本国の王家から枝分かれした王家、即ち分家(傍系の血族)の者だと思われる。そうでなければ共通する祖神を祀ることにならない。その宮は本国の宮の子のような地位にある。
 「卑弥呼」に対して、間に「弓」の字が入っただけである。一字挿入だけの違いは偶然のこととは思えない。卑弥呼を連想するような言い方も字の選び方も、卑弥呼と似た地位にあると想像すれば違和感はない。果たして何者なのか。
 卑弥弓呼は「ヒミクコ」または「ヒミココ」と読まれている。ヒミクコと読むのは、「弓」は呉音で「ク」と読むからである。しかし、「呼」も呉音ではクと読む。「呼」をコと読むなら、なぜ「弓」だけ呉音のままに「ク」と読むのか。
 字の読み方より倭でどう呼ばれていたかを先に考えなければならない。ク音とコ音のどちらにも聞こえるような発音がされていれば、漢字もその発音に近いものが選ばれただろう。できれば意味が伝わるものがよい。口をあまり開けずにヒミココと発音した場合、ヒミククのように聞こえた可能性がある。弓や呼の字を当てたのはそういう理由かもしれない。
 よって、倭でヒミココと呼ばれ、中国側にはヒミククのようにも聞こえ、卑弥弓呼という字が当てられたのではないかと思う。これは、ヒミコと同類の言葉であろう。子の意味のコがクに近い発音だった可能性と同じである。
 「卑弓弥呼」(ヒコミコ、彦御子)説は卑弥呼と対で天皇と同等の地位を想定しているが、勝手に名前を変えるべきではないし、天皇はヒノミコ(日之皇子)と呼ばれている。卑弥呼をヒメミコと読むのも妥当でない。
 邪馬台国が王を日の神の子孫だとしてヒミコと呼んだと考えることができるならば、ヒミココはヒミコのコであろう。卑弥弓呼は、神の子孫から枝分かれした子孫である王の地位を示す言葉となる。そう考えれば、ヒミココが治める狗奴国は、ヒミコの国から枝分かれした子国であるという推理と重なってくる。
 では、卑弥弓呼という字が用いられたのはなぜだと考えるか。
 狗奴国の王なら卑弥狗呼や卑弥呼狗でもよかったという意見があるかもしれない。しかし、王の地位名に狗という字を用いるわけにはいかなかったのだろう。
 ヒミココを卑弥呼呼と書けばよいかもしれないが、同字を重ねるのは避けられた。実際上も誤字と思われるかもしれず、良くない。他に「コ」に代わる漢字として「弓」を使ったのだろう。男王は武人であるから、武器の「弓」の字を用いる意味があったとも言える。卑弥呼弓と書くと卑弥呼の弓になって紛らわしい。卑弥弓呼という表記に落ち着いたのだろう。ただし、これは憶測である。


七 女王に属さずとは
 倭種であるという意味を考えれば、倭人の国に含まれるが、女王には服属していないという意味になる。
 不属を不和と関連づけて、王同士が争っている敵対国は不属の国だという論理が考えられるが、他にも敵対関係にある国はあっただろう。不和というのは、和するべき関係にあるが和さない状態を言う。服属せよ、降伏せよと言われて拒否しているというのは、抵抗や抗拒であって不和とは言わない。同族の王同士の対立という内部問題であると考えるのが妥当である。
 邪馬台国が畿内に造った子国であれば、邪馬台国の一部であり、女王に服属することはない。
 卑弥呼は邪馬台国の出身である。邪馬台国に卑弥呼がいる都があるというのはその国で祭政を行っているということである。倭国の王位継承をめぐって争いがあった結果、争いの当事者でない卑弥呼を女王に立てたのだろうが、邪馬台国が卑弥呼に服属したわけではない。卑弥呼が邪馬台国王家の子女であるならなおさらである。
 狗奴国が邪馬台国の子国であるなら、同様に卑弥呼に服属することにはならないのである。女王の境界というのは、服属国の範囲をいうもので、狗奴国は服属国ではないことを明示しておくため不属と書いたのかもしれない。
 この狗奴国の卑弥弓呼は卑弥呼と相攻撃し、卑弥呼を死に追いやる。それほどの力を得たのは、畿内の発展によるものである。これについては、後に述べる。

ヤマト王権の始まりの国 1-3

仮説


ということで想定したのが次の仮説である。
① 狗奴国は、九州に成立した邪馬台国が西暦二百年の前後頃に東方平定のために畿内に領地を得て造った子国である。
② 狗奴国王卑弥弓呼は、ヒミコ(卑弥呼)の子分に相当する地位名である。
③ 卑弥呼と卑弥弓呼が攻撃し合ったのは王族内の争いであり、卑弥呼の死後、邪馬台国は内紛もあり勢力が衰えた。
④ 子国は畿内から倭の諸地域へと勢力を強め、邪馬台国王家に代わって倭国の統治を引き継ぐことを考えるようになった。
⑤ 子国の王家は邪馬台国王家に対して国も王家も自立してヤマトを称した。
⑥ 卑弥弓呼は女王壱與から倭国の王権を譲り受けた。これにより、ヒノミコとかオホキミ(大王)と呼ばれ、倭はヤマトと呼ばれるようになった。
⑦ 後に天皇という称号が考えられ、天皇家の始祖である子国時代の初代王を初代天皇とし以下に諡が贈られた。


子国という考え方


 子国というのは、国のない地域を本国(親国)の領地として併合した際、王が直接統治するのではなく、新たな国を造って王族に統治をさせた分国という意味である。それを国と呼ぶのは武力を背景に領土領民を治めている王がいるからである。国とは何かという考え方の問題でもある。
 クニは君、郡に由来し、境界で画された一定地域を指す言葉として使われたと考えられる。ムラは境界によって画する概念ではないが、境界で画する地域になればクニ(君、郡)と呼ばれることにもなる。クニは領地の大小に関係なく成立する。
 境界は支配領域を明確にするためである。そこには支配する者がいて、支配を維持するための武力などの手段も持っている。その支配者がクニヌシであり、統治をするのが王である。オホクニヌシは国々の王を支配するが、個々の国を統治する王ではない。
 このように考えると、クニの本質は支配者の登場にある。主は支配者のことだとすれば、クニヌシは継続的に一定地域(領地)とその地域にいる人々(領民)を支配する者だと言える。支配は、武力などの強制力によって従わせることである。そのための組織も必要になる。しかし、支配するだけでは被支配者らは離反する。彼らを民とし、その利益になるよう治めることが必要になる。それによって支配者は統治者たる王になれる。
 武力などで占領した無主の地域は占領国の王の領地に併合される。王を降伏させて排除しその国を併合する場合も同様である。併合した地域は、臣官に統治させるのが一般的だろうが、別の王族に統治を任せることも考えられる。この場合、その領地と領民を治める王がおり、外形上は独立した国の王と同じである。ただし、親国の領地である子国を治める王という立場になる。親国の王がヒミコ(卑弥呼)と呼ばれれば子国の王はヒミコのコ(卑弥弓呼)と呼ばれ、先祖を祀るミヤ(宮)がミヤのコとして造られるのもおかしくはない。
 後漢書も魏志倭人伝も拘奴国(狗奴国)を特別視しているのは、倭の権力に重要な位置を占めていたからではないかと思われる。
 親子関係にある国はともに王族が統治するが、常に子は親に従うというわけではない。対立も起きる。卑弥呼と卑弥弓呼の不和・相攻撃はそういうものではなかったかと思う。
 その後の歴史は邪馬台国の倭国からヤマトの倭国へと変わるが、邪馬台国や拘奴国(狗奴国)の名が消えたのは、ヤマトに変わったからではないかと思う。邪馬台国はヤマトの王権の正統性との関係で消され、拘奴国(狗奴国)は親国が消え子国で無くなったことと正統性に関わるため消される。しかし、王権は王族内の移譲として連続性ある外形があったために対外的には政変などの事件として知られることにならなかったのではないかと思われる。
 これに対して、「不属女王」、「狗奴」、「素不和」、「相攻撃」などの字や文言のために、狗奴国王は女王卑弥呼と敵対関係にあって戦った相手だったから王と国の名が知られていたと考えられているようである。しかし、後漢書の「雖皆倭種而不属女王」は敵対関係を示すものではない。「素不和」を元から敵対関係にあったことと解釈されているが、拘奴国が周辺国の奴国を脅かしていたような記述はない。むしろ、「不和」という言葉と千余里も離れた地の拘奴国の王と官の名が記されていることを考えると、逆に密接な関係、和するべき一体関係が求められる立場にあることを示していると思う。


記紀をどう読むか


 ヤマトとの関係を考えるには「記紀」も検討する必要がある。詳しくは別著『記紀をどう読むか』に譲るが、本稿に直接関係するのは東征物語からである。畿内に子国を造る過程が東征と重なるが、東征物語は子国の建設物語ではない。
 東征を行った軍が本国を出発し、畿内を占領し統治し始めたとしても、いきなりヤマトの倭国を造るわけではない。最初は占領地での地域的な国造りになる。そこから勢力を広げていくというのが歴史の流れである。記紀はそういう流れの一部を省略しているという疑いを持って読む必要がある。
 神武天皇が即位した場所は畿内の橿原であるが、そのとき何という国ができたのか。記紀には書かれていない。元から国があったなら、その国の名が残るだろうが、新しく国を造ったなら名をつけなければならない。そうでなければ本国の一部として本国の名が適用される。その名を隠したいなら、即位したことだけしか書けない。
 東征による占領地に国を造ったなら、本国から見れば子国の建設である。その国の名は本国と同じ名である。子国の名や王の事績のことは邪馬台国とともに歴史から消される。記紀には邪馬台国も卑弥呼も壱與も国や人の名としては登場しない。必然的に東征を行った国や王の名も畿内に造った国の名も記されることはない。
 天皇家の歴史の前の時代はすべて神の時代とされ、神武天皇から地上の倭国の歴史が始まったかのようになっている。これは意図的に構成されたもので、天に由来する天皇権力の正統性を示すためでる。その正統性は天の思想と広く知られた伝承によって根拠づけられた。東征はヤマトの建国史として最も重要な部分である。東征が虚構の物語なら却って天皇王権の正統性を疑わせるものとなる。大要は伝承にもとづくものではないかと思う。
 東方平定の過程で畿内占領と国造りの歴史があって、その国と拘奴国(狗奴国)が同一だということになれば、ヤマトの建国史はある程度想像できるようになる。記紀には何も書かれていないが、天皇の諡の解釈の仕方によってその事績を想像することができるかもしれない。